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唐代伝奇「杜子春伝」を読む~芥川龍之介は何処を如何に改編したのか


印度の説話

 近代日本を代表する文豪・芥川龍之介の小説「杜子春」が、中国の小説を改編したものであることはよく知られている。

 実は、その中国の小説にも、さらに元ネタがあった。
 昔、仏教が印度から中国へ伝わった時、印度の神話や説話もそれに伴って中国に流入した。杜子春の物語も、その中の一つである。

 杜子春の物語の原型と考えられる説話が『大唐西域記』に見える。
『大唐西域記』は、三蔵法師玄奘の見聞録であり、小説『西遊記』の前身ととして知られる。印度および西域諸国の歴史・地理・風俗を記した書物で、中には不可思議な伝説の類も多く含まれている。

 その巻七「波羅痆斯国」の条に、次のような説話が記載されている。

 施鹿林の池のほとりで、隠者が廬を結んで修行していた。長生の術を得るためには、烈士(信義ある勇者)が祭壇で一晩沈黙を守ることが必要であるとわかった。
 そこで烈士を捜しに出かけると、仕事を失って途方に暮れている一人の男を見出し、しばしば大金を恵んでやった。
 のちに、隠者がわけを話すと、男は快諾し、祭壇で終夜沈黙を守ったが、夜明け近くに、突然叫び声を上げた。空中より火が降りかかってきたので、隠者は慌てて男を池の中に引き込んだ。
 声を上げた理由を問うと、「以前仕えていた主人が現れたが、私が何も言わないので、怒って私を殺した。私はバラモンの家に生まれ変わり、妻を娶り子をもうけたが、私がしゃべらないと子供を殺すと妻が言うので、それを止めようとして思わず声を上げてしまった」と話した。
 

 この説話が中国へ伝わり、中国化した物語となり、唐代伝奇「杜子春伝」が成立した。唐・李復言の怪異小説集『続玄怪録』の中に収められている。

 以下、「杜子春伝」全文を書き下し文と現代日本語訳で読み、その背景にある思想・宗教を考察し、さらに、芥川の「杜子春」との比較を試みたい。

唐代伝奇「杜子春伝」

都長安のダメ男

 杜子春は、蓋(けだ)し周・隋の間の人なり。少(わか)くして落拓、家産を事とせず。然して志気間曠(かんこう)なるを以て、酒を縱(ほしいまま)にして間遊し、資産蕩尽せり。親故に投ずるも、皆事を事とせざるを以て棄てらる。方(まさ)に冬、衣は破れ、腹は空しくして、長安中を徒行す。日晩(く)れて未だ食せず、彷徨して往く所を知らず。東市の西門に於いて、饑寒の色掬(きく)すべく、天を仰ぎて長吁(ちょうく)せり。

 
杜子春は、周・隋にかけての人であっただろうか。若い頃から物にこだわらないずぼらな性格で、家の財産にはまるで関心がない。そのくせ気ばかり大きく、年中飲んだくれて遊び呆け、資産をすっかり使い果たてしまった。そこで、親戚や旧友を頼ったが、まともに仕事をしないので、とうとう誰からも相手にされなくなった。ちょうど冬の最中、服はぼろぼろ、お腹はぺこぺこ、長安の街中をとぼとぼと歩いていた。日が暮れても食い物にもありつけず、行く当てもなくさまようばかりだった。東市の西門あたりで、餓えと寒さに耐えかねた様子で、天を仰いで長いため息をついた。

東市の西門
 長安の街は、東西対称に碁盤の目のように整然と区画整理されている。
 東と西の市場は、都の繁華街であった。とりわけ東市の西側の平康坊は、妓楼街(遊郭)として知られる。

唐代の長安

謎の老人

 一老人有りて杖を前に策(つ)き、問いて曰く、「君子何をか歎くや」と。春其の心を言い、且つ其の親戚の疎薄を憤るや、感激の気、顏色に発(あらわ)れたり。老人曰く、「幾緡(びん)なれば則ち用に豊か(た)るか」と。子春曰く、「三、五万あらば則ち以て活くべし。」と。老人曰く、「未だしなり、更に之を言え」と。「十万」と。曰く、「未だしなり」と。乃ち百万と言うに、亦た曰く、「未だしなり」と。曰く、「三百万」と。
乃ち曰く、「可なり」と。是に於いて袖より一緡を出して曰く、「子の今夕に給せん。明日の午時、子を西市の波斯(はし)邸に候(ま)たん。慎みて期に後(おく)るること無かれ」と。時に及びて、子春往くに、老人果して銭三百万を与え、姓名を告げずして去る。

 子春既に富み、蕩心復た熾(さか)んとなり、自ら以為(おも)えらく、終身復た羈旅(きりょ)せざらんと。肥に乘り軽を衣(き)、酒徒を会し、絲管を徴し、倡楼に歌舞し、復た生を治むるを以て意と為さず。 一二年の間に、稍稍(しだい)に尽く。衣服車馬は、貴きを易(か)えて賤(やす)きに従い、馬を去りて驢、驢を去りて徒(かち)す。倏忽(しゅこつ)として初めの如し。

 既にして復た計無く、自ら市の門に歎ず。声を発するに老人到り、其の手を握りて曰く、「君復た此くの如し、奇なるかな。吾将(まさ)に復た子を済(すく)わんとす。幾緡あらば方(はじ)めて可なるや」と。子春慚(は)じて応えず。老人因りて之に逼るに、子春愧謝(きしゃ)するのみ。老人曰く、「明日午時、前に期せし処に来たれ」と。子春愧(はじ)を忍んで往き、銭一千万を得たり。未だ受けざるの初め、憤発し、以為えらく、此れより身を謀り生を治むれば、石季倫・猗頓(いとん)も小豎(しょうじゅ)たるのみと。銭既に手に入れば、心又翻然たり。縱適(しょうてき)の情、又却って故の如し。一二年間ならずして、貧は旧に過ぐ。

 
その時、一人の老人が杖をつきながら杜子春の前に現れた。老人は杜子春に尋ねた。「お前さんは何を嘆いておるのじゃ?」杜子春は心の内を述べ、親戚の薄情を憤り、興奮した感情が顏に現れていた。老人が「幾らあったら足りるのじゃ?」と聞くので、杜子春が「四、五万ぐらいもあれば、やっていけます」と答えると、老人は「まだまだじゃ。もっと言うてみよ」と言う。そこで「十万」と言うと、またも「まだまだ」と言う。ならば「百万」
と答えると、またしても「まだまだ」と言うので、「三百万」と言うと、やっと老人は「よかろう」と言って、袖から銭一さしを取り出し、「これは今夜の分じゃ。明日の正午、西市のペルシャ屋敷で待っておる。遅れてはならんぞ」と言った。翌日、杜子春が約束の時刻に行ってみると、老人は果して三百万の銭をくれて、名も告げずに立ち去った。

 杜子春は金持ちになると、まためらめらと遊び心に火が点いて、もう生涯二度と落ちぶれて流浪することもあるまいと思い込んだ。駿馬に乘り、上等な服を身にまとい、飲み仲間を集め、楽団を呼び、妓楼で歌えや踊れの大盤振る舞い。生計を立てることなど気にもかけなかった。一、二年のうちに、もらった金も次第に尽きてきた。着る物も乗る物も、高価な物から安価な物へ換えた。馬を手放して驢馬に換え、その驢馬さえも売って徒歩になった。こうして、あっと言う間にもとのような一文無しになってしまった。

 やがて、もうどうしようもなくなると、杜子春は再び市の門の下へ行き、長いため息をついた。息が漏れたとたん、目の前に老人が現れた。杜子春の手を握り、「お前さん、またこんなになるとは、珍しいことじゃ。もう一度助けてやろう。幾らあったらよいかな?」と言った。杜子春は恥ずかしくて答えられない。老人が執拗に尋ねても、杜子春は恥じ入って礼を言うばかりだった。老人は、「明日の正午、以前と同じ場所に来い」と言って去った。翌日、杜子春が恥を忍んで行くと、今度は老人から一千万の銭をもらった。もらう前は、大いに発奮して、「今からまともな仕事をして、しっかり生活を立て直せば、石季倫や猗頓みたいな大富豪だって小僧みたいなもんだ」と思った。ところが、いざ金が手に入ると、またころりと気が変わってしまった。放蕩三昧のありさまはもとのままで、一、二年の間に、以前よりもっと貧乏になってしまった。

ペルシャ屋敷
 当時の長安は、華やかな国際都市であり、多くの異国人が居住していた。
西域から来た人々は「胡人」と呼ばれ、なかでも「波斯人」(ペルシャ人)が多かった。
 651年、ササン朝ペルシャがサラセン帝国に滅ぼされ、多くのペルシャ人が戦乱を逃れて中国に渡来し、長安ではペルシャ風の文化が一大流行した。西市の北には、ペルシャ人の信仰するゾロアスター教の寺院もあった。
 ペルシャ商人は、西域から珍しい品々をもたらし、巨万の富を築いた。中には高利貸しを営む者もいた。
 老人が杜子春に金を渡す場所がペルシャ屋敷となっているのは、こうした時代背景を反映したものである。 

三度目の正直

 復た老人に故の処にて遇う。子春其の愧に勝えず、面を掩(おお)いて走る。老人裾を牽(ひ)きて之れを止め、又曰く、「嗟乎、拙謀なり」と。因りて三千万を与えて曰く、「此れにして痊(いえ)ざれば、則ち子の貧は膏肓(こうこう)に在り」と。子春曰く、「吾、落拓邪遊して、生涯罄(ことごと)く尽く。親戚豪族、相顧みる者無し。独り此の叟のみ三たび我に給せり。我何を以て之に当たらん」と。因りて老人に謂いて曰く、「吾、此れを得れば、人間(じんかん)の事以て立つべし。孤孀(こそう)も以て衣食せしむべく、名教に於いて復た円(まど)かならん。叟の深き恵みに感じ、事を立てし後は、唯だ叟の使う所とならん」と。老人曰く、「吾が心なり。子、生を治め畢(おわ)らば、来歳の中元、我を老君の双檜の下にて見よ」と。

 子春は孤孀多く淮南(わいなん)に寓するを以て、遂に資を揚州に転じ、良田百頃を買い、郭中の甲第を起て、要路に邸の百余間(けん)なるを置き、悉く孤孀を召き、第中に分居せしむ。甥姪を婚嫁せしめ、族親を遷祔(せんぷ)し、恩ある者は之に煦(めぐ)み、讐(あだ)ある者は之に復(むく)う。

 杜子春は、またしても同じ場所で老人と出会った。杜子春が恥ずかしさのあまり手で顔を覆って逃げようとすると、老人は、杜子春の裾をぐっと引き止めて言った。「ああ、なんと拙い生き方じゃ。」そして、三千万の銭を渡し、「これで治らねば、お前さんの貧乏はもう救いようがない」と言った。その時、杜子春は心に思った。「おれはずほらで、よこしまな遊びに耽り、財産もすっかり使い果たし、親戚の金持ちでさえ相手にしてくれない。でもこの爺さんだけは、三度も金を恵んでくれた。どうやって恩返ししたらいいのだろう。」そこで杜子春は老人に向かって言った。「これだけの金が手に入れば、世間の義理はすべて果たすことができます。一族の身寄りのない子供や未亡人の面倒を見てやれるので、孔子さまの教え通り、人として正しい行いを為し遂げることができます。お爺さんのお恵みには深く感謝しております。為すべきことを為し終えた暁には、この身体、お爺さんの思うままにお使い下さい。」老人は答えて言った。「我が意を得たり!お前さんが世間の事を為し終えたら、来年の中元の日、老子廟の二本の檜の下まで会いにやって来なされ。」

 杜子春は、一族の孤児や寡婦の多くが淮南地方に寄寓していたので、資産を揚州に移し、良田を百頃ほど買い求め、街中に立派な邸宅を建てた。さらに、大通りに面した要所にも間口百間あまりの大きな別邸を作り、そこに一族の孤児や寡婦を呼び寄せて、邸内に分けて住まわせた。さらに、独身の甥や姪たちには結婚できるように世話をし、また、客死して異郷に葬られたままの親族の棺を先祖の墓に合葬した。恩ある者には恩返しを、讐ある者には復讐をした。

三度の大金
 老人が三度に分けて金を渡しているのは、物語を面白く引き延ばすための演出である。
 劉備らが諸葛孔明の草廬を三度訪ねる「三顧の礼」、孟子の母親が息子の教育のため三度引っ越す「孟母三遷」など、三度繰り返すのは、説話の常套である。
 これは中国に限らず、日本の「桃太郎」でも、犬・猿・雉は、三度に分かれて登場している。

長安と揚州
 揚州は、淮南(今の江蘇省を中心とした地方)の主要都市であった。南北を貫く大運河、長江、東シナ海のいずれにも接していて、とりわけ海上貿易で栄えた。
 揚州は、南方の経済・文化の中心地であり、当時の長安と揚州は、現在の北京と上海の関係に似ている。ちなみに、唐代、上海はまだ海の下で、地図上に存在していない。
 当時、安禄山の乱によって都長安が戦場と化すと、資産を持つ者の多くは難を逃れて南へ移住した。「孤児や寡婦の多くが淮南地方に寄寓していた」云々とあるのは、こうした社会状況を反映している。

華山の雲台峰

 既に事を畢え、期に及びて往く。老人は方に二檜の陰に嘯(うそぶ)けり。遂に与(とも)に華山の雲台峰に登る。入ること四十里余り、一処を見るに、室屋厳潔にして、常人の居に非ず。彩雲遥かに覆い、鸞鶴(らんかく)飛翔せり。其の上に正堂有り、中に薬炉有りて、高さ九尺余り。紫焰光発し、窗戸に灼煥(しゃくかん)す。玉女九人、炉を環(めぐ)りて立ち、青龍白虎、前後に分拠す。
 
 其の時、日は将に暮れなんとし、老人は復た俗衣せず、乃ち黄冠絳帔の士なり。白石三丸、酒一巵(し)持ちて子春に遺(おく)り、速やかに之を食せしめ訖(おわ)る。一虎皮を取りて内の西壁に鋪(し)き、東に向きて坐せしむ。戒めて曰く、「慎みて語る勿かれ。尊神・悪鬼・夜叉・猛獸・地獄、及び君の親属の困縛する所と為ると雖も、皆真実に非ず。但だ当に動かず語らざるべく、宜しく心を安んじ懼(おそ)るること莫かるべくんば、終(つい)に苦しむ所無からん。当に一心に吾が言いし所を念ずべし」と。言い訖りて去れり。子春庭を視るに、唯だ一巨甕(きょおう)、中を満たして水を貯えしのみ。

 
杜子春は為すべきことをすべて終え、約束の日に出かけて行った。老人はちょうど二本の檜の木蔭で、口をすぼめて高い声を出していた。そして老人は、杜子春を連れて華山の雲台峰に登った。山に入ること四十里ほど、ある場所に着いた。家屋は厳かにして清らかで、俗世間の人の住まいではない。遥か上空に五色の雲がたなびき、鸞や鶴が飛び交っている。家屋の上方には広間があり、その中に仙薬を作る炉が置かれている。高さは九尺余り、紫色の炎が輝き、その光が窓や扉を照らしている。九人の仙女が炉を囲んで立っている。その前後には、青龍と白虎が控えている。

 その時、すでに日が暮れかかり、老人はもはや俗人の衣服を脱ぎ捨て、黄色い冠に真っ赤な袖なしという道士の格好であった。老人は白い石を三粒と一杯のお酒を杜子春に渡すと、速やかに飲めと命じた。飲み終わると、老人は一枚の虎の皮を取り出し、室内の西の壁際に敷き、杜子春を東向きに座らせた。そして、戒めてこう告げた。「決して言葉を発してはならぬ。偉そうな神や、悪鬼、夜叉、猛獣、地獄のさま、さらに、お前の親族が縛り上げられて様々な苦しみを受けるさまを見ることになるが、それらはすべてまことの事ではない。ただひたすら動かず、言葉を発せず、心を鎮めて恐れずにいれば、何も苦しむところはない。一心にわしの言ったことを念じておれ。」そう言い終わると、老人は去って行った。杜子春が庭を見ると、大きな甕(かめ)が一つ置かれていて、中に満々と水が張られていた。

華山

道教
 
「杜子春伝」は道教が中核となっている。道教は、中国固有の宗教、民間信仰である。多神教で、ありとあらゆる雑多な神々がいる。
 老子を開祖とし、太上老君と呼ぶ。但し、老子はシンボル的に祀られているだけであり、道家と思想的・教義的な関連はあまりない。道家は、思想・哲学であるのに対して、道教は、宗教・信仰である。
 道教は、福・禄・寿の御利益を求める。中でも、寿を希求し、道教最大の目的は、不老長生の仙人になることである。
 「杜子春伝」では、ここの段落で、道教に関わる事物が数多く出てくる。「華山」は道教の聖山、「黄冠絳帔」は道士の衣裳、「嘯」は道教の修行の一つ、「鸞鶴」は仙人の乗り物、「薬炉」は仙薬を精錬する溶鉱炉、「玉女」は仙女、「青龍白虎」はそれぞれ東方の神と西方の神で、道教の錬丹術では、それぞれ水銀と鉛を象徴する。

道士と仙人
 
「杜子春伝」の老人は道士であって、仙人ではない。道士は、仙人になるための修行を積んでいる者をいう。
 道士は、瞑想・呼吸法・辟穀法・道引などの修行をし、不老長寿の仙薬(金丹)を造る。
 仙人には等級があり、高い次元の仙人「飛仙」となるには、身体を軽くするために丹薬の服用が不可欠とされた。
 古代の中国人は、本気で仙人になろうとした。秦の始皇帝は、東海の神山に仙薬を求めて徐福を派遣した。晋・葛洪の『抱朴子』は、仙人になるための指南書である。仙薬の調合の仕方を理論的・科学的に記述している。

錬丹術
 錬丹とは、不老不死の金丹の製造のことをいう。唐代は、『易』の八卦や陰陽五行思想と結びついた錬丹術が盛行した。科学的な物質合成と宗教的、形而上学的な概念を結びつけたものである。
 錬丹術は、いろいろな鉱物を強い火力で溶かし合わせるものであるが、中でも水銀が重要であった。水銀は、鉱物でありながら水のように流動する謎めいた物質である。赤い丹砂(硫化水銀)から精製されるが、塩素や酸素と化合して、白にも黒にも変化する。つまり、水銀は形の上でも、色の上でも変化をする物質変成の象徴であり、これを体内に取り込むことによって人体を変化させることができると考えたのである。
 ちなみに、道教を信奉した唐王朝では、歴代皇帝の多くが水銀中毒で命を落としている。

幻の試練

 道士適(まさ)り去りて、旌旗戈甲(せいきかこう)、千乗万騎、徧(あまね)く崖谷に満ち、呵叱(かしつ)の声、天地を震動す。一人有りて大将軍と称し、身の長(たけ)丈余、人馬皆金の甲(よろい)を着け、光芒(こうぼう)人を射る。親衛数百人、皆剣を抜き弓を張り、直ちに堂前に入り、呵して曰く、「汝は是れ何人(なにびと)ぞ、敢えて大将軍を避けざるや」と。左右剣を竦(そばだ)てて前(すす)み、逼(せま)りて姓名を問い、又何物を作(な)すかを問うも、皆対(こた)えず。問いし者は大いに怒り、摧斬争射(さいざんそうしゃ)の声は雷の如きも、竟(つい)に応えず。将軍なる者は怒りを極めて去れり。

 俄かにして猛虎毒龍、狻猊(しゅんげい)獅子、蝮蝎(ふくかつ)万計、哮吼(こうく)して拏攫(だかく)せんと前を争い、搏噬(はくぜい)せんと欲し、或いは跳びて其の上を過ぐ。子春神色動かざれば、頃(しばら)く有りて散ぜり。

 既にして大雨滂澍(ぼうじゅ)として、雷電晦瞑(かいめい)、火輪は其の左右を走り、電光は其の前後に掣(の)び、目開くを得ず。須臾にして、庭の際は水深きこと丈余、流電吼雷、勢いは山川の開破するが若(ごと)く、制止すべからず。瞬息の間、波は坐下に及ぶも、子春は端坐して顧みず。未だ頃くならずして散ず。

 道士が立ち去るやいなや、旗指し物や矛や甲冑で身を固めた何千何万もの兵車や騎馬兵が深い谷間を埋め尽くし、雄叫びの声が天地を揺り動かさんばかりだった。その中に大将軍と称する者がいて、身の長け一丈ばかり、人も馬も黄金に輝く鎧を着けていて、その光はまさに人を射るかのようだった。大将軍の護衛が数百人、皆剣を抜き弓を張って、まっしぐらに広間に入っていき、杜子春を叱りつけた。「貴様は何者だ!大将軍様のお通りを避けぬとは!」左右の護衛が剣をそばだてて進み、杜子春に迫って姓名を問い、何をしているのかと詰め寄るが、杜子春はまったく答えない。尋ねた者は大いに怒り、斬りかかったり射かけたりする怒号が雷のようであったが、杜子春は最後まで答えなかった。将軍は怒りを極めて去って行った。

 間もなく、猛虎、毒龍、狻猊、獅子やら、何万もの蝮や蝎やらが現れ、吠えたり、つかみかかったりして迫り、今にも杜子春をつかんで食おうとしている。頭上を跳び越えていく者もある。それでも杜子春が顔色一つ変えずにいると、しばらくしてみな退散した。

 そのうちに激しい大雨が降り出し、暗闇の中で雷が鳴り電光が走り、火輪が杜子春の左右を駆け、稲光が前後を走り、目を開けることさえできない。すぐに、庭先の水は一丈ほどの深さになり、走る稲妻、轟く雷は、山が崩れ川が溢れる勢いで、押しとどめようがない。あっという間に、水は杜子春の膝下にまで及んだが、杜子春は姿勢を崩すことなく坐したまま、見向きもしなかった。すると、まもなく嵐の光景は消えた。

殺された杜子春

 将軍なる者復た来たる。牛頭(ごず)の獄卒、奇貌の鬼神を引き、大钁(だいかく)の湯を将(もっ)て子春の前に置く。長鎗両叉、四面に週匝(しゅうそう)たり。命を伝えて曰く、「姓名を言うを肯(がえ)んずれば、即ち放たん。言うを肯んぜざれば、即ち心に当てて叉取(さしゅ)し、之を钁中に置かん」と。又応えず。

 因りて其の妻を執り来たり、階下に拽(ひ)き、指して曰く、「姓名を言わば之を免ぜん」と。又応えず。乃ち鞭捶(べんすい)して血を流し、或いは射或いは斫(き)り、或いは煮或は焼き、苦しみ忍ぶべからず。其の妻号哭して曰く、「誠に陋拙(ろうせつ)為りて、君子を辱しむる有り。然れども幸いに巾櫛(きんしつ)を執るを得て、奉事すること十余年なり。今尊鬼の執る所と為り、其の苦に勝えず。敢えて君の匍匐(ほふく)して拝乞(はいきつ)するを望まず。但だ公の一言を得れば、即ち性命を全うせん。人誰か情無からん、君は乃ち忍(むご)くも一言を惜しむや」と。涙庭中に雨ふらし、且つ呪い且つ罵るも、春は終に顧みず。将軍且つ曰く、「吾汝が妻を毒する能わざるや」と。剉碓(ざたい)を取り脚より寸寸に之を剉(き)らしむ。妻叫哭すること愈々(いよいよ)急なるも、竟に之を顧みず。将軍曰く、「此の賊妖術已に成れり。久しく世間に在らしむべからず」と。左右に敕して之を斬らしむ。

 斬り訖りて、魂魄は領(ひ)かれて閻羅王(えんらおう)に見(まみ)ゆ。曰く、「此れ乃ち雲台峰の妖民か。捉えて獄中に付せよ」と。是に於て鎔銅鉄杖、碓擣磑磨(たいとうがいま)、火坑鑊湯、刀山剣樹の苦、備(つぶさ)に嘗(な)めざるは無し。然れども心に道士の言を念ずるに、亦忍ぶべきに似たれば、竟に呻吟せず。

 また先ほどの将軍がやって来た。牛頭の獄卒、奇怪な顔の鬼を引き連れ、熱湯が煮えたぎる大きな釜を杜子春の前にどんと置いた。鬼たちが長い槍や刺股を持って、杜子春を取り囲んだ。鬼の一人が大将軍の命令を伝えて言った。「姓名を言えばすぐに放免してやろう。言わぬとあらば、お前の心臓を刺股で抉り取って釜に投げ込むぞ!」それでも杜子春は答えない。

 そこで、杜子春の妻を捕らえて来て、階の下に引きずり出して指さすと、杜子春に向かって、「姓名を言えば、この女を放免してやろう」と言った。それでも杜子春は答えない。杜子春の妻は、鞭打たれて血を流し、弓で射られ、刀で斬られ、釜で煮られ、火で焼かれ、その苦痛は耐えがたいものだった。大声で泣き叫びながら、杜子春に訴えた。「私は誠に醜く不器用で、あなたさまの面汚しでございますが、それでも幸いにして、妻としてお世話させて頂いて、もう十年余りになります。今、鬼さま方に捕らえられ、苦痛に耐えかねております。あなたさまに這いつくばって命乞いをしてほしいなどと望んでいるのではありません。ただ一言、あなたさまがお言葉を発して頂ければ、私の命は救われるのです。人には誰しも情けというものがあるでしょうに、あなたさまはむごくもその一言を惜しむのですか。」庭に涙の雨を降らせながら呪い罵ったが、それでも杜子春は、とうとう振り向きもしなかった。大将軍は、「俺様がお前の女房を殺せないとでも思っておるのか!」と言うと、部下に命じて押し切りを持ってこさせ、杜子春の妻の身体を足の方から一寸ずつ切り刻ませた。妻の悲鳴はますます激しくなったが、それでも杜子春は、とうとう振り向きもしなかった。将軍は、「こいつは、すでに妖術を身につけておる。この世に長く生かしておいてはならぬ」と言い、左右の者に命じて杜子春を斬り殺させた。

 斬り殺されて、杜子春の魂は、冥界の閻魔大王の前に引っ立てられた。大王が言った。「こいつが雲台峰の妖民か?直ちに地獄へ引き渡せ!」こうして杜子春は、焼け溶けた銅を飲まされ、鉄の杖で叩かれ、碓でつかれたり、挽き臼でひかれたり、火の坑に入れられ、釜ゆでにされ、刀の山や剣の樹に登らされ、ありとあらゆる地獄の責め苦をなめた。しかし、道士の戒めを心に念じると、なんとか耐え忍ぶことができたので、ついに呻き声一つ洩らすことはなかった。

女になった杜子春

 獄卒、罪を受け畢れるを告ぐ。王曰く、「此の人陰賊なり、合(まさ)に男と作(な)すを得べからず、宜しく女人と作し、配して宋州單父(ぜんほ)県の丞、王勧の家に生まれしむべし」と。生れてより多病にして、針灸薬医、略(ほぼ)停日無し。亦嘗て火に墜ち牀より墮ち、痛苦斉(ひと)しからざるも、終に声を失せず。俄かにして長大し、容色絶代、而して口に声無く、其の家目して唖女と為す。親戚の狎(な)れし者、之を侮ること万端なるも、終に対うる能はず。

 同郷に進士の盧珪(ろけい)なる者有り。其の容を聞きて之を慕う。媒氏に因りて求めり。其の家唖なるを以て之を辞す。廬曰く、「苟(いや)しくも妻為りて賢なれば、何ぞ言うを用いん。亦以て長舌の婦を戒むるに足らん」と。乃ち之を許す。廬生は六礼を備え、親迎して妻と為せり。 

 数年、恩情甚だ篤し。一男を生むに、僅か二歳にして、聡慧なること敵(かな)う無し。盧は児を抱きて之と与(とも)に言うも応えず。多方之を引くも、終に辞無し。盧大いに怒りて曰く、「昔賈大夫(かたいふ)の妻、其の夫を鄙(いや)しみて、纔(わず)かも笑わず。然れども其の雉を射るを観て、尚其の憾(うら)みを釈(と)けり。今吾陋は賈に及ばず、而も文芸は徒(ただ)に雉を射るのみに非ざるなり。而して竟に言わず。大丈夫妻の鄙しむ所と為らば、安(いずく)んぞ其の子を用いんや」と。乃ち両足を持ち、頭を以て石上に撲(う)てば、手に応じて砕け、血は数歩に濺(そそ)げり。子春は愛心に生じ、忽ち其の約を忘れ、覚えず声を失して云う、「噫(ああ)」と。

 杜子春の刑罰がすべて終わったことを獄卒が閻魔大王に報告した。大王は、こう命じた。「こやつは陰気で残忍だ。男としておくわけにはいかぬ。女にして、宋州単父県の副知事、王勧の家に転生させるがよい。」かくして転生したが、生まれながら多病で、針や灸、薬や医者の世話にならぬ日は一日としてない。その上、火の中に落ちたり、寝台からころげ落ちたりと、さまざまな苦痛を受けたが、それでもついに声を漏らすことはなかった。やがて成長すると、絶世の美女になったが、口をきかない。王家では、唖の娘ということにされていた。親戚の中の馴れ馴れしい者が、手を替え品を替え悪ふざけをしてからかったが、それでもまったく口答えしなかった。

 同郷の者に進士に登第した盧珪という男がいた。杜子春の美貌の噂を聞いて思い慕い、仲人を介して求婚してきた。王家は、唖であるからと断ったが、盧が、「いやしくも妻として賢ければ、どうして言葉など要りましょうか。却って、お喋り女の戒めになりましょう」と言うので、王家もとうとう承諾した。盧は結婚の六つの儀礼を執り行い、杜子春を嫁として迎えた。

 数年の間、夫婦の仲はとても睦まじく、男の子が生まれたが、わずか二歳ばかりで、聡明なこと並ぶ者がなかった。ある日、盧はその子を抱いて妻に話しかけたが返事がない。いろいろと気を引いてみても、一向に口を開こうとしない。盧は激怒して言った。「春秋時代、賈国の大夫の妻は、夫を馬鹿にして、少しも笑おうとしなかった。しかし、夫が狩りで雉を射止めるのを見て、遺憾の憂いを解いて笑ったというではないか。今この私は、醜いとは言え賈大夫ほどではない。しかも私の文才は、たかが雉撃ちなんぞとは比べものにならない。それなのにお前はずっと口を開かない。大の男がこれほどまで女房に馬鹿にされては、どうして子供など要るものか!」そう言い終わると、子供の両足をつかんで、頭を石に叩きつけた。腕を振り下ろすと同時に子供の頭が砕け、血しぶきが辺り一面に飛び散った。その瞬間、杜子春の心に我が子への愛が湧き起こり、ふと道士との約束を忘れてしまい、思わず声を洩らした。「ああっ!」

仙人失格

 「噫」の声未だ息(や)まざるに、身は故の処に坐す。道士は亦其の前に在り。初めて五更なり。其の紫焰屋上を穿ち、火は四合に起こりて、屋室倶に焚くを見る。道士歎じて曰く、「措大(そだい)、余を誤らしむること乃ち是の如し」と。因りて其の髮を提(と)り、水甕の中に投ずれば、未だ頃なくして火は息めり。

 道士前(すす)みて曰く、「吾子の心、喜・怒・哀・懼・悪・慾、皆忘れたり。未だ臻(いた)らざる所の者は、愛のみ。向使(もし)子に噫の声無くんば、吾の薬は成り、子も亦上仙せしを。嗟乎、仙才の得難きや。吾が薬は重ねて煉るべきも、子の身は猶お世界の容るる所と為らん。之を勉めよや」と。遥かに路を指して帰らしむ。子春強いて基に登りて観れば、其の炉は已に壊れ、中に鉄柱有りて大いさ臂の如く、長さ数尺なり。道士衣を脱ぎて、刀子を以て之を削る。


 子春既に帰り、其の誓いを忘れしを愧じ、復た自ら效(つと)めて以て其の過ちを謝せんとし、行きて雲台峰に至るも、絶えて人跡無し。歎き恨みて帰れり。

 「ああっ!」という声がまだ終わらぬうちに、杜子春の身体は元の場所に坐っていた。道士もまた杜子春の前にいる。時刻は、五更(午前四時頃)になったばかりだった。見上げると、紫の炎が屋根を突き破ってめらめらと燃え上がり、四方に大きな火が燃え広がり、家屋は丸焼けになっていた。道士はため息をついて、「この貧乏書生め、わしをしくじらせよって!」と言って、杜子春の髪の毛をわしづかみにすると、庭に置いた水甕の中へ投げ込んだ。すると、まもなく火は消えた。

 道士は、杜子春の前に進み出て、こう言った。「お前の心は、喜び、怒り、悲しみ、怖れ、憎しみ、欲望、これらすべて忘れ去ることができた。忘れ去ることができなかったものがただ一つ、それは愛だ。もしお前が「ああっ!」と声を洩らさなかったら、わしの仙薬は完成し、お前も仙人になれたものを。ああ、仙才は得難いものじゃ。わしの薬はもう一度煉り直すことができるが、お前はまだ俗世に身を置く場所がないわけではなかろう。まあ、元気でやるがよい。」道士は遥か遠くの道を指さして帰るよう告げた。杜子春は無理に頼んで、焼け跡の土台に登らせてもらい、辺りを見回した。炉はすでに壊れていて、その真ん中には、腕ほどの太さで高さ数尺ほどの鉄柱が立っている。道士は肌脱ぎになって、小刀でその鉄柱を削っていた。

 杜子春は家に帰ったが、道士との誓いを忘れたことが恥ずかしくてたまらず、過ちを償うためにもう一度頑張ってみようと思い、雲台峰へ登ったが、そこには人のいた痕跡がまったくなかった。嘆いて残念な思いで家に帰って行った。

杜子春と老人

 老人(実は道士)が、三度大金を与えて、杜子春に俗世の事を全うさせたのは、そうして恩を売ることによって、杜子春に仙薬造りの手伝いをさせるためであった。

 では、杜子春が幻の試練を受けている間、老人はどこで何をしていたのだろうか。

 老人は、杜子春の目の前で、金丹の精錬に励んでいたのである。

 金丹を完成させるには、技術と精神が必要とされる。
 技術とは、鉱物に薬品を配合して強い火力で金丹を造ることであり、これは老人の担当であった。
 精神とは、精神的修練をすること、すなわち世俗の七情(喜・怒・哀・懼・悪・慾・愛)を超越することであり、これは杜子春の担当であった。

 老人は、杜子春に作業を分担させて金丹を錬り上げようとしたが、杜子春が最後の関門でしくじって声を出してしまったので、金丹造りは失敗に終わったのである。

 杜子春が声を出した直後、大火事になるのは、金丹を造る溶鉱炉が爆発したことを意味する。そして、老人が小刀で鉄柱から削り落としていたのは、金丹になり損ねた金属のかすである。

陰陽と男女

 錬丹には、主に水銀と鉛を用いる。
 陰陽思想では、水銀は陰、鉛は陽である。水銀と鉛を溶け合わせるので、出来上がった金丹は、陰と陽の結合体となる。

 また、陰陽思想では、女は陰、男は陽である。したがって、金丹は陰と陽の結合体であり、同時に、男と女の結合体でもある。

 幻の試練の中で、もともと男であった杜子春が、死後に女に生まれ変わるのは、まさにそのためである。杜子春は、陰と陽、男と女の双方の性質を備えた両性具有の存在であった。

 したがって、幻の試練を受けていた時の杜子春の身体は、今まさに造られつつあった金丹そのものを象徴しているのである。

道教・仏教・儒教

 「杜子春伝」の中心的思想は道教であるが、仏教と儒教も混在している。

 道教的要素については、すでに上で述べた。

 閻魔大王が出てきたり、地獄が登場したり、輪廻で生まれ変わったりというプロットは、言うまでもなく仏教によるものである。

 また、杜子春の幻の試練そのものも、実は、釈迦の修行物語を真似たものである。
 『大唐西域記』巻八の「魔掲陁国」の条に、「釈迦が菩提樹の下に座って瞑想し、悟りを開こうとすると、魔王が邪魔をして襲いかかる。神々を集めて魔軍を結成して攻撃し、雷雨を降らせ、大火を浴びせた。釈迦が悟りを開くと、魔軍の武器は蓮華に変じ、魔軍は恐れをなして退散した」云々という記述がある。

 一方、儒教的色彩が見えるのは、杜子春が大金を得て俗世のことを為し遂げる場面である。
 杜子春は、「吾、此れを得れば、人間の事以て立つべし。孤孀も以て衣食せしむべく、名教に於いて復た円かならん」と述べている。
 「名教」とは、儒教を指す。杜子春が三度目の大金で行ったことは、儒教の人倫道徳上良しとされることである。血縁関係のある親族の面倒をみることは、儒教の教えの一つであり、「修身・斉家・治国・平天下」における「斉家」に当たる。

 中国では、唐代にすでに儒・道・仏の三教が互いに対立したり、融合したりして影響を与え合い、思想宗教は渾然としていた。
 「杜子春伝」の中で、三教が混在しているのは、そうした当時の社会状況を反映したものである。

芥川龍之介「杜子春」

 芥川龍之介(1892~1927)は、唐代伝奇「杜子春伝」を改編して、小説「杜子春」を書いている。

芥川龍之介

 芥川龍之介の「杜子春」全文は、以下のサイト参照。

 ここで取り上げたいのは、第五章、第六章である。

 第五章の後半では、死んで地獄(畜生道)に落ちて、馬に生まれ変わった父母が閻魔大王の前に引っ立てられ鞭打たれる。母親の声を聞いて杜子春が目を開けると、瀕死の馬が倒れて自分を悲しげに見ている。杜子春は、とうとう鉄冠子の戒めを忘れて、馬に駆け寄り、「お母さん」と一声叫ぶ。

 杜子春は必死になつて、鉄冠子の言葉を思ひ出しながら、緊(かた)く眼をつぶつてゐました。するとその時彼の耳には、殆(ほとんど)声とはいへない位、かすかな声が伝はつて来ました。「心配をおしでない。私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰(おつしや)つても、言ひたくないことは黙つて御出(おい)で。」それは確に懐しい、母親の声に違ひありません。杜子春は思はず、眼をあきました。さうして馬の一匹が、力なく地上に倒れた儘、悲しさうに彼の顔へ、ぢつと眼をやつてゐるのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思ひやつて、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む気色(けしき)さへも見せないのです。大金持になれば御世辞を言ひ、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何といふ有難い志でせう。何といふ健気な決心でせう。杜子春は老人の戒めも忘れて、転(まろ)ぶやうにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん。」と一声を叫びました。……

 そして、以下は、第六章(最終章)の全文である。

 その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでゐるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。「どうだな。おれの弟子になつた所が、とても仙人にはなれはすまい。」片目眇(すがめ)の老人は微笑を含みながら言ひました。「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかつたことも、反(かへ)つて嬉しい気がするのです。」 杜子春はまだ眼に涙を浮べた儘、思はず老人の手を握りました。「いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けてゐる父母を見ては、黙つてゐる訳には行きません。」「もしお前が黙つてゐたら――」と鉄冠子は急に厳(おごそか)な顔になつて、ぢつと杜子春を見つめました。「もしお前が黙つてゐたら、おれは即座にお前の命を絶つてしまはうと思つてゐたのだ。――お前はもう仙人になりたいといふ望も持つてゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」 杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が罩(こも)つてゐました。「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇はないから。」 鉄冠子はかう言ふ内に、もう歩き出してゐましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、「おお、幸(さいはひ)、今思ひ出したが、おれは泰山の南の麓(ふもと)に一軒の家を持つてゐる。その家を畑ごとお前にやるから、早速行つて住まふが好い。今頃は丁度家のまはりに、桃の花が一面に咲いてゐるだらう。」と、さも愉快さうにつけ加へました。

「杜子春伝」と「杜子春」


 芥川龍之介の「杜子春」は、唐代伝奇「杜子春伝」の翻案である。
 翻案とは、「小説・戯曲などで、既存の作品を原案・原作として、新たに別の作品に作り替えること」であるが、芥川の場合、何処を如何にして作り替えたのであろうか。

 以下、便宜上、唐代伝奇「杜子春伝」を「伝奇」、芥川龍之介「杜子春」を「芥川」と略称する。

 「芥川」では、時代が南北朝末期から唐代に、季節が冬から春に、場所が長安から洛陽に、道教の聖地が華山から峨眉山に書き替えられ、また老人の正体も道士から仙人の左慈(号は鉄冠子)になるなど、かなり多くの設定や小道具を変えているが、物語の大筋は変わっていない。

 しかしながら、「芥川」の最終章に至って、両者が、文学作品として本質的、根本的に大きく異なることが明らかになる。

作品のテーマ

 作品のテーマ、そして、それが最も凝縮されているキー・フレーズを比較してみると、以下のようになる。

【伝奇】
 作品は、仙道の修行がいかに困難であるかを説いている。
 テーマは、「仙人になること」である。
 キー・フレーズは、道士のセリフで、「仙才の得難きや」である。

 仙才は、仙人になれる才能・素質のことをいう。

 前掲の『抱朴子』の「対俗篇」に、「仙道は成ること遅く、禁忌する所多し。自ら超世の志、強力の才無くんば、之を守ること能わず」とあるように、仙道を成すには、世を超越する強靱な意志と才能が必要とされる。

 「仙道を成す」とは、仙人となって永遠の命を得ること、有限の俗界から無限の仙界へと存在のステージを上げることである。そのためには、世俗のこと一切、人の情の全てを超越しなければならない。

 杜子春は、仙道の修行に失敗し「其の誓いを忘れしを愧じ」て去る。

 仙人失格は、杜子春にとって、取り返しのつかない挫折であった。

【芥川】
 作品は、この世の中で人間がどう生きるべきかを説いている。
 テーマは、「人間として生きること」である。
 キー・ワードは、杜子春のセリフで、「人間らしい、正直な暮しをするつもり」である。

 人である以上、人の世で人間らしく生きることが、何よりも価値あることであるとし、仙人になろうとすることは、妄想・野望として、否定的に書かれている。

 杜子春は、仙人になれなかったことを「反つて嬉しい気がする」と言う。

 仙人失格は、杜子春にとって、新たな明るい人生への転機であった。

杜子春の人物形象

【伝奇】
 杜子春は、もともと遊び呆けて資産を食いつぶした放蕩者である。
 老人は、そうしたダメ男の杜子春を「仙才」のある男と見込んだ。

 真面目で立派な人間よりも、杜子春のように、ずぼらで成り行き任せで、世俗の臭みのない人間、つまり儒家的な意味では望ましくない人間の方が、仙才があるとされた。

 社会的常識、つまり俗世間の価値基準ではむしろダメ人間の方が、無欲、無頓着で、富や名誉に執着がなく、超俗的素質があるとされたのである。

 ところが、結局、「愛」を超越することができず、仙人失格となった。

 物語の中で、杜子春は「敗北者」である。

【芥川】
 杜子春の人物形象は、基本的には「伝奇」と同じで、もともとはダメ男であった。

 ところが、最後に「愛」に目覚め、人として生きることの意味を悟り、人間不信に陥り厭世的であった杜子春は、真面目人間になる決意をし、精神的に立ち直る。

 物語の中で、杜子春は「更生者」である。

老人の目的

【伝奇】
 老人は、仙薬を練り上げようとしている道士である。
 金丹を精錬する上で、精神面での役割を分担させるために杜子春を必要とした。そのために、杜子春に幻の試練を与えて、老人の技術面での作業と合わせて、仙薬を完成させようとした。

 老人は、杜子春を「利用」したかったのである。

【芥川】
 「伝奇」の老人に当たる鉄冠子は、やはり幻の試練を与えた。
 ところが、最後に「もしお前が黙つてゐたら、おれは即座にお前の命を絶つてしまはうと思つてゐたのだ」と言う。
 幻の試練は、実は、仙人になるための修行でも何でもなく、杜子春に愛の大切さを教え、人間らしさを取り戻させるための手段であった。
 
 鉄冠子は、杜子春を「教育」したかったのである。

「愛」の意味

【伝奇】
 「伝奇」で杜子春が忘却できなかったのは「愛」であった。
 子供が殺されるのを見て、とうとう「噫(ああ)」と声を上げてしまう。

 ここで言う「愛」は、肉親に対して、とりわけ母親が子供に対して抱く盲目的な、どうしても断ち切ることのできない宿命的な、絶対的な愛執の念である。

 七情の中で最も断ちがたい「愛」さえも断ち切れ、忘却せよ、というのが、老人の杜子春に対する要求だった。

 「愛」は、最大の障害物とされているのである。

【芥川】
 「芥川」は、「伝奇」とちょうど逆で、子の母に対する「愛」である。
 馬にされて鞭打たれている母親を見て「お母さん」と声を上げてしまう。

 幻の試練の中で杜子春が発した一言によって、人間にとって何が大切か、という問いかけに答を与えている。

 「愛」は、人の世で最も価値あるものとされているのである。

文学ジャンル

【伝奇】
「伝奇」は、道教に基づく説話文学である。
 したがって、宗教的色彩が強い。

【芥川】
「芥川」は、ヒューマニズムに基づく児童文学である。
 したがって、教育的色彩が強い。

「芥川」は、大人の知識人を対象とした説話文学を、少年少女を対象とした児童文学として書き改めている。

 子供の頭が割れて血が飛び散るシーンは、年少者に読ませるにはあまりに残酷なので、教育的配慮からプロットを書き換えている。

 物語は、倫理的に美しい童話に仕立てられ、子供向けの教訓を盛り込んだハッピーエンドで終わる。
 杜子春は、家と畑を与えられ、「今頃は丁度家のまはりに、桃の花が一面に咲いてゐるだらう」という鉄冠子の牧歌的なセリフで幕を閉じる。

 これは、「真面目に生きれば必ず明るい未来がある」というメッセージであり、「金持ちになったり、仙人になったりという特別なことを追い求める必要はない。平凡な暮らしの中にこそ、真の幸せがあるのだ」という価値観の提示でもある。


『杜子春・くもの糸』(偕成社文庫)

    
 以上のように、芥川龍之介の「杜子春」は、物語の大筋は、唐代伝奇の「杜子春伝」とほぼ同じで、細かいプロットもおおよそ原作に沿っているが、最後の章に至って、両者の文学的傾向がまったく違う方向を向いていることが明白になる。

 但し、これはあくまで両者の違いを言うものであり、優劣を論じるものではない。児童文学が、文学として価値が低いとは言えない。

 芥川は、漢籍に精通していた。原作のテーマを読み違えて子供っぽくしてしまったわけではない。原作のテーマは百も承知で書き換えをしている。

 とりわけ最後の部分では、道徳的で前向きな生き方を促すメッセージが込められているが、これは儒家的な価値観に沿ったものである。

 江戸時代に朱子学が官学となって以来、明治・大正時代における学童の道徳教育では、儒家の教えを規範とするところが多い。芥川の作品には、こうした時代背景も少なからず反映されている。

 そして、今日では、小中学校の国語教科書にしばしば採録され、学芸会や文化祭での出し物にもなっている。

 かくして、杜子春の物語は、印度から中国へ、そして中国から海を渡って日本へと伝わるにつれ、西域の民間伝承から唐代の伝奇小説へ、そして近代日本の文豪芥川の児童文学へと、長い歳月を経て、ダイナミックに変貌を遂げてきたのである。


劇団め組の演目「杜子春」


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