魏晋南北朝時代、「六朝志怪」と呼ばれる怪異小説が盛行しました。
その中から、東晋・干宝撰『捜神記』に収められている「王道平」の話を読みます。
志怪小説の中には、死者が生き返る話がとても多く見られます。
蘇生が起きるのは一種の奇跡ですが、古代中国人が考えた奇跡のメカニズムは、「天人感応」でした。
「王道平」の話の末尾に、
とあるように、天が人の「精誠」(純粋な真心、至情)に感じて、その人に代わって奇跡を起こす、というメカニズムです。
古代の中国人は、人間の生命は、「神」(精神)と「形」(肉体)の結合体であると考えていました。
精神を司るのが「魂」、肉体を司るのが「魄」です。
人が死ぬと、魂は肉体から遊離しますが、魄は死後も肉体がある限りそこに留まります。
死んでも、抜け出た魂が再び身体に戻ってくれば、蘇生が起こりうると考えられていました。
「王道平」の話は、死後すでに3年も経っている娘の魂が王道平の至情によって呼び戻されるという奇跡を語ったものです。
もう一つ、蘇生の話を読んでみましょう。
『幽明録』に収められた「おしろい売りの女」の話です。
概して、文言小説でも白話小説でも、古典小説の中で、男や女はすぐ簡単に死んでしまいます。
「王道平」の話では、女が男を思うあまり、悶々として死んでしまいます。
「おしろい売りの女」では、男が女と逢い引きし、喜び勇んで死んでしまいます。
この他にも、怒りのあまり憤死したり、びっくり仰天して死んでしまう場合もあります。
仏教が伝来する以前の中国人の死生観では、あの世とこの世の断絶感が稀薄でした。
泰山に死後の世界があるとされていたのですから、あの世はこの世と地続きになっていて、理屈で言えば、歩いて辿り着ける場所です。
ですから、そもそも、生の世界と死の世界との間の往来が容易なので、すぐに死んだり生き返ったりということになるのかもしれません。