見出し画像

『捜神記』「王道平」~生き返った花嫁

魏晋南北朝時代、「六朝志怪」と呼ばれる怪異小説が盛行しました。
その中から、東晋・干宝撰『捜神記』に収められている「王道平」の話を読みます。

秦の始皇帝の時、長安出身の王道平おうどうへいという男がいた。

若い頃、幼名を父喻ふゆという少女と結婚を約束していた。

父喻は、同じ村に住む唐叔偕とうしゅくかいの娘で、玉のように美しかった。

まもなくして、王道平は徴兵されて遠征し、南方で転戦し9年間帰ることができなかった。

父喻の両親は、すっかり年頃になった娘の姿を見て、帰ってこない王道平の代わりに、劉祥りゅうしょうという男に嫁がせることにした。

父喻は、王道平と固く将来を誓っていたので、嫁ぎ先を替えるのを拒んだが、父母に迫られて仕方なく、劉祥の妻となった。

嫁いで3年の間、父喻は気が抜けたように鬱々として楽しまず、来る日も来る日も王道平のことを想い、憤懣の情を募らせ、ついに憂いのあまり死んでしまった。

父喻が亡くなって3年が経って、ようやく王道平は帰還した。

隣人に、「わたしの許嫁はどこにいるのでしょうか?」と尋ねた。

隣人は答えた、「あの娘は、ずっとあなたのことを思い続けていましたよ。親に無理強いされて、仕方なく劉祥という人に嫁いだんだけどね、今はもう死んでしまったよ」

王道平が、「父喻の墓はどこですか?」と聞くと、隣人は墓まで案内してくれた。

王道平は、悲しみの声を上げてむせび泣き、何度も父喻の名を呼びながら、墓の周りを徘徊しながら悲嘆に暮れ、どうにも気持ちを抑えられなかった。

王道平は、墳墓に向かって祈りながら訴えた、
「わたしはそなたと夫婦となり生涯添い遂げることを天地の神に誓いました。図らずも兵役に駆り出されて離れ離れになってしまい、そなたの父上母上は、劉祥のもとにそなたを嫁がせてしまいました。初めの志に叶うことなく、この世とあの世に永遠に隔たってしまいました。もし神霊の力があるならば、もう一度生前の姿を見せてはくれまいか。もし無いのであれば、もうこれで永遠のお別れとしよう」

そう言い終わると、またはらはらと哀しみの涙を流した。

ほどなくして、父喻の霊魂が墳墓の中から出てきて、王道平に言った、
「いままで何処にいらしたのですか?わたしたち久しく離れ離れになってしまいました。あなたと夫婦になり終生添い遂げると誓いましたが、父上母上に迫られて、やむなく劉祥の妻となりました。この3年の間、日夜ずっとあなたのことを想うあまり、怨恨が結ぼれて命を亡くし、こうして冥界に身を置いております。それでも、あなたは昔年の情を忘れず、こうしてわたしのもとにおいでくださったのですね。わたしの身体はまだ損なわれておりませんので、生き返って夫婦になれましょう。すぐに墓を掘り起こし棺を開けてください。中から出してくだされば、わたしは生き返ります」

王道平は、父喻の言わんとすることを悟り、墓を掘り起こし、父喻の亡骸を手でさすっていると、果たして生き返った。

父喻は身なりを整え、王道平に連れられて家に帰った。

劉祥は、このことを聞いて驚き訝り、地方の役所に訴えた。

役所はこの件を審理して裁こうとしたが、このような案件に該当する法律はなかったので、状況を記して朝廷に審理を求めた。

朝廷は、父喻を王道平の妻とすると判決を下した。

その後、夫婦は共に130歳まで生きた。

誠に、2人の変わらぬ至誠に天が感応し、このような奇跡を起こしたのだ。

志怪小説の中には、死者が生き返る話がとても多く見られます。

蘇生が起きるのは一種の奇跡ですが、古代中国人が考えた奇跡のメカニズムは、「天人感応」でした。

「王道平」の話の末尾に、

まことに謂う、精誠せいせい天地に貫きて、感応を獲ること此くの如し。

とあるように、天が人の「精誠」(純粋な真心、至情)に感じて、その人に代わって奇跡を起こす、というメカニズムです。

古代の中国人は、人間の生命は、「しん」(精神)と「けい」(肉体)の結合体であると考えていました。

精神を司るのが「魂」、肉体を司るのが「魄」です。
人が死ぬと、魂は肉体から遊離しますが、魄は死後も肉体がある限りそこに留まります。

死んでも、抜け出た魂が再び身体に戻ってくれば、蘇生が起こりうると考えられていました。

「王道平」の話は、死後すでに3年も経っている娘の魂が王道平の至情によって呼び戻されるという奇跡を語ったものです。

もう一つ、蘇生の話を読んでみましょう。
『幽明録』に収められた「おしろい売りの女」の話です。

裕福な家の一人息子が、ある時、市場をぶらついていて、おしろい売りの娘に一目惚れした。
しかし、なかなか言葉をかけることができず、男は毎日娘に会うためにおしろいを買った。
こうしたことが長く続いたので、娘が男に尋ねた、
「お客様は、おしろいを何に使われるのですか」
そこで、男は告白した、
「君のことが好きなのだけど言い出せなくて、おしろいを買うのにかこつけて姿を拝ませてもらっていたんだよ」
娘は心を打たれて、とうとう逢い引きを承諾した。
次の日の夜、約束通り娘がやってくると、男は興奮して喜びのあまり死んでしまった。
さて、葬儀になり、男の持ち物に大量のおしろいがあったので、娘が疑われて役所に訴えられた。
娘は、今一度遺骸に対面して最後のお別れをさせてほしいと頼み、男の屍体をさすりながら、声を上げて泣いた。
すると、男は突然生き返り、事の次第を一部始終話した。
そうして、2人は夫婦となって、子孫繁栄した。

概して、文言小説でも白話小説でも、古典小説の中で、男や女はすぐ簡単に死んでしまいます。

「王道平」の話では、女が男を思うあまり、悶々として死んでしまいます。
「おしろい売りの女」では、男が女と逢い引きし、喜び勇んで死んでしまいます。

この他にも、怒りのあまり憤死したり、びっくり仰天して死んでしまう場合もあります。

仏教が伝来する以前の中国人の死生観では、あの世とこの世の断絶感が稀薄でした。

泰山に死後の世界があるとされていたのですから、あの世はこの世と地続きになっていて、理屈で言えば、歩いて辿り着ける場所です。

ですから、そもそも、生の世界と死の世界との間の往来が容易なので、すぐに死んだり生き返ったりということになるのかもしれません。

『捜神記』(平凡社)

この記事が参加している募集

#古典がすき

4,155件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?