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「愚」の文人精神


はじめに

 中国古代の文人精神について、これまで「狂」と「痴」を中心に考察を重ねてきた。本稿は、これらと通底する概念である「愚」に関して、その系譜を考察するものである。

 「狂」と「痴」は、文字通り、元来は貶義の概念を表す語であるが、特殊な思想的、文学的文脈に置かれる時、貶義は褒義へと転換され、古来、文人たちの思想傾向や処世態度を顕示するものとなってきた。

 しかしながら、字義の褒貶の転換は、無条件に行われるわけではない。
 原義が貶義であっても、褒義に解することのできる要素をその文字自体が内包している場合、あるいは、その文字の古い用例にプラス価の含意が与えられている場合にのみ、褒貶の転換が許されたのである。「狂」と「痴」は、その典型であり、「愚」もまた同様である。

 「愚」字は、『説文解字』巻十「心部」に、

 戇(おろ)かなるなり、心に従い禺に従う。禺は、猴の属なり、獣の愚かなる者なり。

とあり、「禺」を愚かな猴の属としているが、白川静『字統』は、

 禺は水神の名とされることが多いが、その実体は明らかでなく、字形からみて、頭部の大きな爬虫類であろう。

とあるように、別解を示している。

 段玉裁『説文解字注』には、

愚者は、智の反なり。

とある。「愚」は、「智」と相対する語であり、才智が働かないこと、智恵・分別の無いさまをいう。

 いずれにしても、「愚」字そのものの成り立ちを見る限りでは、これを褒義に解釈できる要素はなく、先秦の文献における用例に、その端緒を探っていかなければならない。

『説文解字』

一 儒家における「愚」

 『論語』には、「愚」の用例が六カ所に見られる。
 「陽貨」篇に、次のようにある。

 仁を好みて学を好まざれば、其の蔽や愚。知を好みて学を好まざれば、其の蔽や蕩。信を好みて学を好まざれば、其の蔽や賊。直を好みて学を好まざれば、其の蔽や絞。勇を好みて学を好まざれば、其の蔽や乱。剛を好みて学を好まざれば、其の蔽や狂。

 「仁」「知」「信」「直」「勇」「剛」の六つの徳目において、これらを好むも学問を好まないと陥りがちな弊害として、「愚」「蕩」「賊」「絞」「乱」「狂」を挙げている。

 「愚」は、学問をしないことにより、智恵を欠き、是非の判断ができず、愚昧無知であることをいう。

 同じく「陽貨」篇に、

唯だ上知と下愚とは移らず。

とある。最上の知者と最下の愚者は、変わりようがないとするものであり、「下愚」は、教育の対象から切り捨てられた存在である。

 ここでの「愚」もまた「愚蒙」「愚劣」をいう貶義であり、「愚」の原義そのもので用いられている。

 次に、「為政」篇に、孔子が顔回について語った一節が見える。

 吾、回と言うこと終日、違わざること愚なるが如し。退きて其の私を省みれば、亦た以て発するに足る。回や愚ならず。

 ここでは、「愚」字そのものは貶義で用いられているが、孔子第一の高弟顔回について語られている言葉であるゆえに、原義を超えた意義が含まれている。

 貧困の中で道を楽しむ顔回について、孔子は「賢なる哉、回や」(「雍也」篇)と讃えている。

 饒舌に議論を挑むことなく、寡黙であたかも愚か者のように見える人物が、実は真の賢者であるところから、後世、この一節は、表面的な「愚」が内なる「賢」を秘めていることを語る際の典拠とされるようになる。

 また、「公冶長」篇に、衛国の大夫甯武子について語った一節がある。

 甯武子は、邦に道有れば則ち知、邦に道無ければ則ち愚。其の知は及ぶべきも、其の愚は及ぶべからざるなり。

 孔安国の注に「愚を佯(いつわ)りて実に似たり、故に及ぶべからずと曰う」とある。

 漢・荀悦「王商論」に「甯武子は愚を佯り、接輿は狂と為る」とある。
 甯武子の「愚」は、「佯愚」すなわち「愚」を装うものであり、「佯狂」と同じく、明哲保身の処世態度をいうものである。

 「愚者」や「狂者」として振る舞うことは、時勢を見据えて臨機応変に行動し、賢明に出処進退を見極めて災禍を避ける、という意図の所作であり、乱世における知識人のしたたかな智恵であった。

 さらに、「陽貨」篇には、太古の民が保持していたものを今の人々が喪失してしまっていることを孔子が嘆いた場面がある。

 古の狂や肆、今の狂や蕩。古の矜や廉、今の矜や忿戻(ふんれい)。古の愚や直、今の愚や詐のみ。

 「狂」「矜」「愚」は、いずれも人の気質における偏向や欠損をいうものであるが、孔子は、これらを必ずしも否定はしていない。

 同じ「狂」でも、「蕩」(勝手放題)ではなく「肆」(自由奔放)なものであれば、それは良しと認めている。

 「愚」についても、「直」(まっすぐ)なもの、すなわち「愚直」な性格であれば是認しており、人間の本来あるべき姿として、むしろ肯定的に捉えている。

 こうした状況は、孔子が弟子たちを評した場面にも見られる。
 「先進」篇で、次にように語っている。

柴や愚、参や魯、師や辟、由や喭(がん)なり。

 孔子は、弟子の高柴、曾参、子張、子路をそれぞれ「愚」「魯」「辟」「喭」と評している。

 いずれも、基本的には貶義の評語であり、弟子たちの欠点を指摘したものであるが、孔子は彼らを譴責しているわけではない。これらは、各人の性格上の特質であり、短所ではあるが、見方によっては長所ともなりうる。

 高柴の「愚」については、何晏『論語集解』は、「愚直の愚」と解釈している。また、朱熹『論語集注』は、「愚者は、知足らずして厚余り有り」と注釈している。

 つまり、愚かではあるが、「愚蒙」「愚昧」というわけではなく、馬鹿正直なまでに真っ直ぐであることをいうものであり、智恵はやや劣るといえども、人としての敦厚さに富むことをいうものである。

 孝行を以て称される曾参を「魯」(鈍い)と呼んでいるのも、ただ機転の鈍さを貶しているわけではなく、そうした「魯鈍」な性格の中にこそ、質朴で篤実な人間性を見ているのである。

 『論語』において「愚直」「魯鈍」であることに肯定的な評価が与えられるのは、裏を返せば、そうでない人間、つまり利発で能弁な人間が、聡明であるがゆえに、往々にして狡猾で功利的であることに対する反撥でもある。

 「巧言令色」を嫌い「剛毅木訥」を好んだ孔子自身の性癖に拠るところも少なくないであろう。

孔子

二 道家における「愚」

 『老子』には、「愚」字の用例が三カ所に見られる。
 第三十八章に、次のようにある。

 夫れ礼は、忠信の薄にして、乱の首(はじめ)なり。前識は、道の華にして、愚の始めなり。

 この章句全体の主旨は、「仁」「義」「礼」「智」を唱える儒家に対する批判であり、ここでの「愚」は、道家的な意味で「道」を悟らない人間の「愚蒙」をいうものである。「愚」字の字義としては、原義である貶義のままで用いられている。

 次に、第二十章には、以下のような一節がある。

 衆人は煕煕として、太牢を享(う)くるが如く、春に台に登るが如し。我独り泊兮として其の未だ兆さざること、嬰児の未だ孩(わら)わざるが如く、乗乗兮として帰する所無きが若し。
 衆人は皆余り有り、而るに我独り遺(とぼ)しきが若し。我は愚人の心なる哉、沌沌兮たり。俗人は昭昭たり、我独り昏きが若し。俗人は察察たり、我独り悶悶たり。忽兮として海の若く、漂兮として止まる所無きが若し。
 衆人は皆以(もち)うる有り、而るに我独り頑にして鄙に似たり。我独り人に異なりて、母(みち)を食(もち)うるを貴ぶ。

 ここの「愚人」は、「道」を体得した聖人をいうものであり、「衆人」や「俗人」と相対する。

 儒家の学問・教育、ひいては文明そのものを否定する道家の価値基準において、「愚」は、そうした文化的、文明的な毒素に染まらない状態をいうものであり、いまだ笑うことすら知らない嬰児のごとく、淳朴自然で、本質的、根源的な人間の在り方を象徴する。

 文中で「愚人」の心態を形容する「沌沌」は、分別のない混沌とした無知のさまをいう。「衆人」「俗人」たちが「煕煕」として浮かれ楽しみ、「昭昭」「察察」として明るくてきぱきと振る舞うのとは対照的に、「遺」(とぼしい)、「昏」(くらい)、「悶悶」(ぐずぐず)、「頑」(かたくな)、「鄙」(つたない)などの語で形容される「愚人」は、世俗の眼からすれば、役に立たない無能者である。

 しかしながら、そうした「愚」なる生き方こそが、「道」に順った人間本来の生き方であるとするのが、老子の言わんとするところである。

 本章句の「愚」字は、儒家が重んじる学問知識や礼教道徳を末梢的なものとして退ける老子の思想によって裏打ちされ、道家流のパラドックスを以て褒義に解釈されている。

 三つ目の用例は、第六十五章に、次のようにある。

 古の善く道を為(おさ)むる者は、以て民を明らかにするに非ず、将(まさ)に以て之を愚にせんとす。民の治め難きは、其の智多きを以てなり。
 故に智を以て国を治むるは、国の賊なり、智を以て国を治めざるは、国の福なり。

 「愚」字について、王弼注に「愚は無知を謂う、其の真順自然を守るなり」とあり、河上公注に「朴質にして詐偽ならざらしむ」とある。

 ここは、「愚にする」という動詞であるが、その意味内容は、上に挙げた第二十章に見える「愚」と基本的に等しく、民を無知で淳朴な状態に置くことをいう。

 第二十章は「道」を得た特別な存在である聖人の心態を語ったものであるが、老子は、一般の民衆もまた同様の心態に至ることを理想としている。

 「愚」を肯定するのは、第八十章の「小国寡民」に見えるような無知無欲の非文明的共同体を人間社会本来の在り方とする道家の政治理念に基づくものであり、「百家の言を焚き、以て黔首を愚にす」(『史記』「秦始皇本紀」)といういわゆる愚民政策とは異なる。

老子

 『荘子』には、計二十四個の「愚」字の用例がある。
 大半は「愚蒙」「愚昧」を意味する貶義のものであるが、以下のように、道家的価値観を以て褒義に用いられる例も見られる。

 日月に旁(なら)び、宇宙を挟み、其の脗合を為し、其の滑涽に置(まか)せ、隷を以て相い尊ぶ。衆人は役役たるも、聖人は愚芚、万歳に参(まじ)わりて成純に一たり。万物尽く然り、而して是れを以て相い蘊(つつ)む。(「齊物論」篇)

 性修まれば徳に反(かえ)り、徳至れば初めに同ず。同ずれば乃ち虚、虚なれば乃ち大なり。喙鳴を合し、喙鳴合して、天地と合を為す。其の合は緡緡として、愚なるが若く昏なるが若し。是れを玄徳と謂い、大順に同ず。(「天地」篇)

 南越に邑有り、名づけて建徳の国と為す。其の民愚にして朴たり、私少くして欲寡(すくな)し。作るを知りて蔵するを知らず、与えて其の報いを求めず。義の適(かな)う所を知らず、礼の将(おこな)う所を知らず。猖狂妄行し、乃ち大方を蹈む。(「山木」篇)

 「愚」字を以て聖人の心をいい、「道」の混沌たるさまをいい、淳朴無知な民がその「道」を踏み行って生きるさまをいうものである。

 いずれも『老子』第二十章、第六十五章に見える「愚」の意義を踏襲し、さらに敷衍したものである。

荘子

三 二人の「愚公」

 中国の古い文献には、「愚公」の名で呼ばれる老人が二人登場する。
 一人は、『列子』「湯問」の中で、次のような故事に見える。

 老人愚公が、往来の障碍となっている太行山・王屋山の二山を他所へ動かそうと土を運びはじめる。その愚かさを嘲笑されても、愚公は一向に怯むことなく、天帝がその誠意に感じ、山を移し地を平らにした。

 これを典拠とする四字成語「愚公移山」は、弛まぬ努力により困難を克服し大事業を完遂させることを語る言葉として用いられる。

 しかし、こうした教訓的な解釈は、この故事の本来の主旨ではない。
「愚公移山」は、元来、道家思想に基づいた寓話であり、話の主眼は「愚」と「智」の対立にある。

 「愚公」の行為を冷笑する人物として「智叟」が登場するが、この二人について、晋・張湛は、それぞれ次のように注を付している。

俗に之を愚と謂う者は、未だ必ずしも智に非ざることなし。
俗に之を智と謂う者は、未だ必ずしも愚に非ざることなし。

 世のいう「愚者」は実は「智者」であり、世のいう「智者」は却って「愚者」であるとしている。

 「愚公」の行為は、常識では想定できない発想、時間を超越した遠大な構想を象徴するものである。

 一方、それを愚かとして冷笑する「智叟」は、道家的尺度の世界観を理解できない世俗の人間、もしくはその世俗の既成の価値観を形成している儒家思想を代表するものである。

『列子』

 もう一人の「愚公」は、斉の桓公が出会ったという老人である。
 劉向『説苑』「政理」篇に、「愚公谷」の説話が収められている。

 桓公が猟に出て山谷に入り、老人から谷の名の由来を聞く。子牛を売って子馬を買ったら、若い男に難癖をつけられ子馬を奪われてしまい、土地の人が老人の愚かさにちなんで、その谷を愚公谷と呼んだのだという。
 桓公が管仲にこの話を告げると、管仲は裁判の不公正を伝えようとした老人の真意を悟る。

 そして、管仲は、次のように語っている。

 此れ夷吾(管仲)の愚なり。尭をして上に在り、咎繇をして理を為さしめば、安(いずく)んぞ人の駒を取る者有らんや。若(も)し暴せらるること是の叟の如き者有るも、又必ず与えざるなり。公は獄訟の不正なるを知り、故に之を与うるのみ。請うらくは退きて政を修めん。

 この説話の中の「愚公」は、ただの愚かな老人ではない。世を避けながらも時の政治を諷諫する隠者である。

 桓公は、その正体を見抜くことができず、老人を「愚蒙」と見なすが、管仲は、谷の命名の話も、牛や馬の話もすべて虚構であり、これに仮託して当世の裁判制度が公正でないことを諫めようとした老人の意を悟る。そして、「我こそ愚なり」と襟を正すのである。

 中国の隠者は、必ずしも山奥にこもって俗世と没交渉になるわけではない。多くの場合、世俗と距離を置きながら、時の政治を厳峻かつ辛辣に諷刺する。

 この老人が、自らを「愚」と称するのは、表面上は謙称であるが、決して自己を卑下しているわけではない。それは、賢明さを秘め隠す韜晦の所作であり、また孤高な自負心の裏返しでもある。

 この説話を典拠として、後世の詩文において、「愚公」は隠者をいう語となり、「愚公谷」(略して「愚谷」)は、俗世を離れた隠棲の地を喩える語となる。

『説苑』

おわりに

 「愚」字は、基本的には、原義である貶義で用いられるものである。
 「愚蒙」「愚昧」「暗愚」「庸愚」など、他者について言えば侮蔑や譴責の意となり、自身について言えば自嘲や自卑の謙称となる。

 一方、「愚」字が褒義にも用いられることについては、先秦諸子の言説の中にその素地を見ることができる。

 そもそも「愚」という人物形象は、ある意味で、孔子の好みでもあった。
 利発で狡智な「巧言令色」型の人間よりも、質朴で敦厚な「剛毅木訥」型の人間を評価する視点からすれば、「愚直」「愚拙」「愚鈍」などは、必ずしも悪しき性質ではなく、不器用で小賢しさを欠くがゆえに、むしろ誠実で淳朴な性質として肯定的に評価されていたのである。

 道家においても、知識や智恵を否定する立場から、「愚」はしばしば褒義に解釈され、聖人の心を表し「道」を体現する概念として捉えられている。

 中国の精神文化の上で培われてきた「愚」の一つの典型は、「愚に似て愚に非ず」という形象である。

 こうした形象が好まれる背景には、「大智如愚」(大智は愚なるが如し)という逆説的発想がある。

 この成語は、蘇軾の「賀歐陽少師致仕啓」に「大勇は怯なるが若く、大智は愚なるが如し」とあるのを直接の典拠とする。

 こうした発想は、『老子』第四十五章に「大直は屈するが若く、大巧は拙なるが若く、大弁は訥なるが若し」と見え、また『史記』「老子韓非列傳」にも「君子は盛徳ありて、容貌は愚なるが若し」とあるように、中国では、古くから慣れ親しまれてきたものである。

 「愚」が自嘲から自負へ容易に反転する所以は、こうしたパラドックスを時として精神的な支えとしてきた中国古代の知識人の思考様式にある。

 「愚公」「愚谷」が隠者と関わる語であり、「愚」が世俗的な価値観と対峙する概念として用いられることとも相俟って、古来、文人たちが反俗的な姿勢を誇示したり、世を達観した境地を言明したりする際に、彼らは敢えて「愚」を以て自任したのである。



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