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「瘋癲」という生き方~映画『芙蓉鎮』に見る文革期中国知識人の保身術


映画『芙蓉鎮』

 『芙蓉鎮』は、1966年から1976年までのおよそ10年間、中国全土を狂気の渦に巻き込んだ「文化大革命」を正面から扱った最初の映画である。

 1987年に公開され、中国国内の二大映画賞である「百花賞」と「金鶏賞」の主要部門を独占した。

 監督は、中国映画界の巨匠謝晋、脚本には作家の阿城が加わった。
 主演女優は、胡玉音に扮する劉暁慶。そして、秦書田に扮する男優には、新人の姜文が抜擢された。

謝晋

 原作は、古華の同名の長編小説(1981年刊)で、第一回茅盾文学賞を受賞している。

 原作の小説と映画との間には、若干の相違が見られるが、本稿では、主に映画のプロットに沿って管見を述べることにする。

動乱の世に生きた庶民の人間模様

 この映画は、1963年、中国湖南省南端の町、芙蓉鎮の定期市で人々が賑わうシーンで幕を開ける。

 50年代後半の大躍進運動の失政による疲弊からようやく立ち直り、自由化政策によって村や町は活気を取り戻していた。

 しかし、その背後では、四清運動が、次第に階級闘争の様相を呈するようになり、党中央では、経済の安定を優先する劉少奇の路線と、階級闘争による急速な変革を推進する毛沢東の路線との対立が顕著になる。

劉少奇批判

 やがて、毛路線が主導権を握り、66年にプロレタリア文化大革命が発動され、その後10年間にわたって、中国全土に政治の嵐が吹き荒れる。

文革のスローガン「造反有理、革命無罪」

 その荒波は、芙蓉鎮のような田舎町にまで容赦なく押し寄せてきた。
 映画『芙蓉鎮』は、文革を間に挟んだ動乱の世に生きた庶民の人間模様を描いたものである。

 物語のあらすじは、以下の通り。

 芙蓉鎮で一番の美人胡玉音は、夫桂桂と共に、米豆腐の店を開いている。夫婦で身を粉にして働き、ようやく店を新築することになった。
 ところが、政治工作班の班長李国香に睨まれ、資本主義的ブルジョワジーとして政治運動の槍玉に挙がってしまう。玉音は、家も財産も失い、李暗殺を企てた桂桂は処刑される。
 1966年、文革が始まり、芙蓉鎮にも権力闘争が波及して、町の様相は一変する。「新富農」の玉音と「右派分子」の秦書田には、早朝の道路清掃が罰として科せられた。
 歳月を経て、二人は、石畳の上で愛情を育み、やがて、玉音が懐妊する。書田は、党に結婚の嘆願をするが、これが犯罪扱いされ、書田は10年の刑に服し、二人は引き裂かれてしまう。
 3年の刑が、大衆監視下での執行猶予となった玉音は、谷燕山らの温かい人情に助けられて、男児を出産する。
 79年、文革が終結した3年後、名誉回復されて芙蓉鎮に帰ってきた書田は玉音と再会する。書田には、県の文化会館館長の役職が用意されていたが、これを断り、玉音と共に町で暮らすことを決心する。

 一般的な映画評から言えば、主役は、ヒロインの胡玉音である。激動の時代に翻弄されながらも、強く逞しく生き抜いた、善良で純朴な女性の姿は、中国内外の観衆を魅了した。

 しかしながら、この作品に托された制作者のメッセージを考えてみる時、胡玉音という存在は、一途に懸命に生き抜き、その生き様が観る者の共感と同情を得ることはあっても、原作者や監督の思想や主張を担う役ではない。その役を担っているのは、町で唯一の知識人である秦書田なのである。

 秦書田は、もと県の歌舞劇団で、脚本・演出を担当していた。57年の反右派闘争の際、彼の採集改編した歌舞劇が、反社会主義の作品と見なされ、反動右派分子と認定されたために、公職から追放され、郷里の芙蓉鎮に送還されて、大衆の監視下で思想改造のための労働をする身となっている。

 むろん、秦書田は、反社会主義者でも、反動右派分子でもない。知識人であるというだけの理由で標的になり、各機関毎に一定数の「敵」をノルマとして摘発するという理不尽な階級闘争の犠牲者となった人間である。

 四清運動による粛正が始まり、夜の政治集会で、秦書田が吊し上げられるシーンがある。

 人民公社前の広場で、秦書田が壇上に呼び出され、李国香から厳しい批判を浴びる。

「この男こそ、芙蓉鎮で悪名高い秦書田、瘋癲の秦であります!この男は、党と社会主義を凶暴に攻撃した、極めて罪の重い右派分子であります!」 

 李国香にこう罵倒されると、秦書田は、ヘコヘコと何度も頭を下げ、その戯けるような仕草に、大衆がどっと笑い出す。

 李国香の尋問が始まると、秦書田は、口ごもりながら、のらりくらりと受け答える。

 「瘋癲」は、字幕では「ウスノロ」としているが、原文では「癲子(ティエンツ)」である。気のふれた精神病患者のことをいう。

 映画では、秦書田の瘋癲的行為を逐一紹介してはいないが、原作の小説では、彼の奇行・狂態の描写が、随所に盛り込まれている。

 例えば、紅衛兵に「悪党の舞い」を踊るよう命ぜられ、腰を落として左右の足を交互に踏み出し、片手に飯碗、片手に箸を持って「牛鬼蛇神様、もう一杯お恵みを」と歌い、周囲の者を抱腹絶倒させる、という挿話がある。

 秦書田は、なぜそのような瘋癲の真似をするのか。知識人でありながら、ことさら間の抜けた愚者のように振る舞うのは、一体なぜなのか。
 その人物像の裏にある思想的背景について、少々、深読みしながら探ってみたい。

「佯狂」の系譜 ~箕子と接輿

 秦書田が瘋癲として描かれているのは、単に人物形象に風変わりな味付けをしようとしたためではない。

 秦書田の愚かしい振る舞いは、乱世を生き延びるために必要とした知恵である。それは、戦乱の絶えない中国の大地で、遥か大昔から、知識人の間で受け継がれてきた「佯狂」という伝統的な処世術である。

「佯狂」とは、狂気を装うことをいう。病理学的な意味での狂気を持たない者が、あたかもそうであるかのように偽装することである。

「佯狂」は、有徳の者や志を抱く者が、困難な状況において、韜晦的な手段として用いる保身の所作であったり、不如意な事態に陥った際に、それを回避するための方策であったり、あるいは、俗世を離れた高雅な境地を狂態によって示そうとする文人精神であったりする。

 その淵源は、何千年も昔に遡ることができる。
「佯狂」の系譜の最初に位置するのが、箕子と接輿である。

 殷王朝の末、紂王の暴政下で、それぞれ異なった道を選んだ三人の臣下、微子・比干・箕子らを孔子は「三仁」と称えた。

 微子は、王の無道を諫めたが、聞き入れられず、国外へ亡命した。比干もまた、自らの命をかけて王を諫めたが、怒りを買い、胸を抉られて死んだ。 
 そして、箕子は、比干の末路を見て恐れをなし、狂人を装って奴隷の身となった。

箕子

 亡国の悲運に遭遇した臣下の身の処し方として対比される三つの典型であるが、『史記』「宋微子世家」は、箕子が「狂」を装ったいきさつについて、次のように記している。

「紂王が初めて象牙の箸を作った時、箕子は、その奢侈がエスカレートするのを危惧した。酒食に溺れる紂王の荒淫無道を諫めたが、聞き入れられず、ついに髪を振り乱し、狂人の真似をして奴隷の身となった。」

 一方、接輿は、春秋時代の楚の人。乱世を避けて、狂人の真似をしている隠者である。

 乱世に道を説いて回る孔子の前を通り過ぎ、

「鳳よ、鳳よ、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諫むべからず、来る者は猶お追うべし。已(や)みなん、已みなん。今の政に従う者は殆し」

と放歌し、今の世で政治に携わるのは危険である、と孔子を諭している。

「明哲保身」の処世術

 狂人を装って世を避ける、という箕子や接輿の生き方は、乱世における「明哲保身」の処世術にほかならない。

「明哲保身」という言葉は、『詩経』「大雅・烝民」に、「既に明にして且つ哲、以て其の身を保つ」とあるのに由来する。

 世の大勢に逆らわず、賢明に物事を処理し、我が身を災禍から守る、という生き方は、古来、政治に携わる者がしばしば選んだ道であった。

 中国人の伝統的な処世観からすると、こうした生き方は、時勢を顧みず、頑なに自己の主張を貫き通す生き方よりも、むしろ評価される傾向にある。古来、比干よりも箕子の方が称賛を得ている所以である。

 こうした処世の法は、接輿に諭された孔子自身が、己の生き方として良しとしていた道でもあった。『論語』「泰伯」篇で、孔子は、

「危邦には入らず、乱邦には居らず。天下に道有れば則ち見(あら)われ、道無ければ則ち隠る。邦に道有るに、貧しく且つ賤しきは、恥なり。邦に道無きに、富み且つ貴きは、恥なり」

と語っている。そして「公冶長」篇の中では、さらに甯武子に言及し、

「甯武子は、邦に道有れば則ち知、邦に道無ければ則ち愚。その知は及ぶべきも、その愚は及ぶべからざるなり」

と述べて、その「明哲保身」の生き方を讃えている。

孔子

 甯武子の「愚」については、漢・荀悦「王商論」の中で、接輿の「狂」と並べて、次のように言う。

「口を閉ざすとも誹謗を獲る、況や敢て直言するをや。身を隠し深く蔵ると雖も、猶お免るを得ず。是を以て甯武子は愚を佯り、接輿は狂と為る。困の至りなり。」

 口を閉ざしても、身を隠しても禍が及ぶような世の中にあっては、「狂」や「愚」を装うのが、唯一残された道であるとしている。

 爾来、中国の長い歴史の中で、とりわけ魏晋の際や明末清初など、政情の不安定な動乱の時期において、中国の知識人たちは、自らの身を守るために「佯狂」を拠り所としてきたのである。

 これは、決して消極的な生き方ではなく、戦乱の絶えることがない中国において、危うい時代を生き抜くために知識人たちが培ってきた知恵である。

 いわば「折れるよりなびけ」という考え方である。正義を振りかざして、ぽっきり折れてしまうよりも、流れに逆らわずに、我が身を安全に保つ方が賢明である、とするのである。

 このように、世の中を達観し、柔軟に立ち回って自らの進退を見極める、という処世術は、芯の太い強靱な生き方として、古くから中国の人々が認めてきたものである。

*「佯狂」と「明哲保身」については、以下の記事参照。

「瘋癲」という選択 

 さて、話を『芙蓉鎮』に戻そう。
 秦書田のしたたかな生き方は、まさに中国古代の知識人たちが何千年にもわたって受け継いできた乱世を生きる知恵を、そのまま銀幕の上で実践したものである。

 文化大革命は、一個人がどうあがいても叫んでも、どうにもならない災難であった。

 中国人は、そのような災難が、この国では常に繰り返し起こること、そして、それがまったく抵抗を許さないことを経験的に知っているのである。

 そこで、秦書田は、無駄な抵抗を試みずに、狂気の時代を生き抜くために「狂」を装い、世の中がまともになるのを待つことを選択したのである。

 のらりくらりとして臆病で愚昧なようでいながら、実は、これが最も強く賢い生き方であるとされる。秦書田は、映画の随所で、その図太さの片鱗を見せている。

 黎満庚が、政治運動のスローガンを壁に書くよう命じると、

「文字は宋朝体にしますか、ゴシック体にしますか?」

と字体を尋ねるシーンがあるが、黎がそのような字体の専門用語を知らないことを承知の上で、わざと聞いているのである。

 唯々諾々と何でも上の指示に従っているように見えるが、なかなかの曲者である。

 ただ逃げ隠れするばかりではなく、俗物に対しては容赦なく辛辣な嘲笑を浴びせるという攻撃的な一面は、魏晋の阮籍や嵆康らに代表される、反俗的な文人に見られる処世態度と相通じるところである。

 秦書田の生き方を中国の伝統思想の中において捉えると、これは典型的な老荘流の生き方である。

 『荘子』では、「役に立たないがために、木樵に伐られず、巨大に成長した神木」の話など、さまざまな喩えを駆使して「無用の用」を説いている。

 狂者として乱世に生きることは、いわば「無用の用」に徹して、不必要な禍を自ら招かないようにすることである。

 天寿を全うすることに最大の価値を置くとすれば、無用であるがゆえに生き延びた者は、その無用性こそが真の有用性ということになる。

荘子

 秦書田が自らを「瘋癲」に見せかけているのも同じことで、これは一種の自己防衛である。「狂」や「痴」を装うことで、自らを無用者として顕示し、自分に対する政治の荒波を避けようとしたのである。

 「狂」は古来、時として、危難を逃れるための免罪符のようなものになりうる。狂者に対しては罪を問わない、という暗黙の了解があり、罪を犯しても情状酌量されるのである。

 狂者は、普通の社会生活を送ることができない者として、倫理秩序の外に置かれる。元来、「狂」「瘋」「痴」は、疾病の一種であり、これを患う者は、人間社会の枠から弾き出されるが、同時に、そのことによって、正常な人間に適用される倫理的準則や法的罰則が、適用されなくなるのである。

「生き抜け! ブタになっても生き抜け!」

 早朝の道路掃除を共にしていた秦書田と胡玉音は、歳月を経て、次第に、心を寄せ合うようになる。

 そして、玉音の懐妊で、秦書田は結婚を決意する。「結婚嘆願書」を書記の王秋赦に手渡しながら、

「オンドリとメンドリだろうと、雄牛と雌牛だろうと、雄犬と雌犬だろうと一緒になるじゃありませんか。だから、人間だってそうしていいじゃないですか」

と自虐的な喩えで自らを卑下しながら、精一杯の演技を試みる。

 しかし、「新富農」と「右派分子」が、労働改造中に恋に落ち、ましてや党の許可が必要な結婚もせずに子どもを作ったとなれば、とんでもない大罪である。

 この件が、芙蓉鎮を牛耳る班長、李国香の逆鱗に触れ、胡玉音と秦書田は逮捕され、大雨が降りしきる中、人民公社の広場で公開裁判が挙行される。

 二人に罪状が言い渡されると、秦書田は、心の中で玉音に向かって、

「生き抜け! ブタになっても生き抜け!」

と叫ぶ。原文では「活下去、像牲口一様地活下去」というセリフであるが、映画がぐっと盛り上がるクライマックスである。

 とにかく死なずに生き抜くことが何よりも大事という「生」に対する執着の強さは、中国の民族的特質の第一に挙げてよいかもしれない。

 儒家は、元来、現世のみを問題にする倫理道徳思想であり、死後のことは語らない。不老長生を説く道教は、いわば現世を永遠に引き延ばそうという発想であるから、執着の度合いで言えば、その最たるものである。

 「生」を全うすることができさえすれば、あとはなりふり構わず、虐げられても辱められても、死なずに済めばよい、というのであるから、至極単純明快な哲学なのである。

 「一対黒夫妻、両個狗男女」と書かれた白い対聯を門に貼るよう命じられるが、秦書田は、「反革命だろうが、畜生だろうが、夫婦と認められたのだからめでたい」と喜ぶ。

 ものにとらわれず、形式にこだわらない、世俗のしきたりや常識に拘泥しない、という老荘流の自由闊達な生き方も、元を正せば、こうした「生」に対して唯一絶対の価値を置く哲学的志向に由来するのである。

真の「癲子」は誰か?

 文革の動乱が過ぎ去って、世の中が平穏になると、「狂」を装う必要のなくなった秦書田は、真っ当なインテリ本来の姿に戻る。

 名誉回復して帰郷する途中、フェリーの上で李国香と再会するシーンがある。今や省の幹部にまで出世し、近々結婚するという李国香に「何か自分にできることがあれば」と尋ねられた秦書田は、

「どうか落ち着いて、自分の家庭を築いて下さい。少しは庶民の暮らしを学んで、彼らを困らせるようなことばかり考えずにね。彼らの暮らしも、容易なようで、そう容易なものではありませんから」

と静かな口調で答える。

 これは、もはや狂者の言ではない。まさしく世の中を達観した知識人が、庶民の願望を代弁した威風堂々たる正言であり、中国の指導層に対する謝晋監督のメッセージそのものでもある。

 一方、賑わいを取り戻した芙蓉鎮の町中では、気の狂った王秋赦がボロをまとい銅鑼を叩き、「運動だ!運動だ!」と叫びながら、人混みの中を通り過ぎてゆく。

 王秋赦は、貧農であったために、土地改革の際に、家屋と土地をもらい受けた無教養・無節操の男で、政治運動のお先棒を担ぐ町の嫌われ者である。
文革中は、支部書記として跳梁したが、運動が終熄して身の置き場がなくなると、気がふれてしまう。

 王秋赦の姿を眺めながら、谷燕山が、こう呟く。

「世の道理は面白いもんだな。瘋癲と呼ばれた奴は、狂ってなんかなくて、瘋癲じゃないつもりの奴が狂っちまった」

 偽の「癲子」と真の「癲子」との皮肉な対比を以て、映画は幕を閉じる。


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