中国古典インターネット講義【第8回】李白~詩仙、酒杯を挙げて月と戯る
李白の経歴
李白(701~762)は字を太白、号を青蓮居士といいます。
太白は、金星のこと。母親が太白星を夢に見て生まれたので、字を太白としたと伝えられています。
「詩仙」と呼ばれるにふさわしく、その生涯の経歴は謎に包まれ、未詳の点が多く残っています。
出生地については、従来は、蜀(四川省)の綿州と言われていましたが、近年の研究では、西域の砕葉(今のキルギス共和国トクマク)に生まれ、5歳の頃、蜀の地に移り住んだとされます。
李白の父親は、富裕な交易商でした。家系は漢民族ではなく、西域の異民族であるという説もあります。
李白は幼い頃から百家の書を読み習い、年少にして優れた文才を発揮したとされます。
その一方で、剣術を好み、侠客の仲間に加わり、自由奔放な生活を送っていました。道士たちと交遊して岷山に隠れたり、峨眉山に登って道教の修行をしたりもしています。
李白は科挙を受けた形跡がありません。広く人材登用を謳った唐王朝ですが、当時はまだ家柄が重んじられていて、誰もが科挙の試験を受けることができたわけではありません。商人の子孫には受験資格がありませんでした。
中国の旧社会では、役人になることだけが男としての出世の道であり、李白もまた官途を志したわけですが、彼が役人になるには、有力者に才能を売り込んで、科挙とは別ルートで官吏に推挙してもらう道よりほかにありませんでした。
「峨眉山月歌」
開元13年(725)、立身出世を夢見て、25歳で故郷の蜀をあとにします。
その頃に歌われたのが、七言絶句「峨眉山月歌」(峨眉山月の歌)です。
――峨眉山の上に掛かる半月、
その月影が、平羌江の川面に映って流れる。
夜、清溪から船出して三峽に向かう。
君を思えど君は見えず、舟は渝州に下っていく。
「峨眉山」は、今の四川省峨眉の東南にある山。「平羌江」は、峨眉山の北を流れる青衣江の古名です。
「清渓」は、今の四川省漢源県。「三峡」は、四川省奉節から湖北省宣昌の間にある三つの渓谷。「渝州」は、今の重慶市です。
「君」が何を指しているのかは、両岸の崖に遮られて見えなくなった月とする説、故郷に残してきた友人(あるいは恋人)とする説があります。
こうして、青年李白は、期待と不安を抱きながら、長江を舟で東へと向かいます。
蜀を出た後、安陸(湖北省)で名門の娘(元宰相許圉師の孫娘)と結婚します。
その後、約10年ほど、仕官の手づるを求めて、湖北・湖南から江蘇・浙江に及ぶ長江流域の各地を転々と巡ります。
のちに、太原(山西省)を経て山東へ移り、徂徠山に隠棲し、「竹渓の六逸」と号して、孔巣父ら土地の名士たちと詩酒の集いに明け暮れたとされます。
その後、会稽(浙江省)で道士の呉筠と出会います。唐王朝の歴代皇帝は道教の信奉者が多く、玄宗もまたそうでした。
旧説(正史『唐書』の記載)によれば、天宝元年(742)、玄宗に召されて都長安(今の陝西省西安)に上った呉筠の推薦によって、李白も宮中に召し出されることになりました。
近年の説では、友人の元丹丘の力添えで持盈法師(女道士となった玄宗の妹玉真公主)の推薦を得て上京したとされます。
いずれにしても、李白にとって千載一遇の好機が訪れたのです。李白42歳の年でした。
まもなく、李白は、高名な宮廷詩人賀知章と面会する機会を得ます。
賀知章は、李白が差し出した詩に目を通し、「蜀道難」(蜀へ入る道の険しさを歌った詩)に読み至ると、その才能に感嘆して、李白を「謫仙人」(天上から下界に流された仙人)と評し、翰林供奉(詔勅を起草する侍従職)に推挙しました。
こうして、李白の宮中での生活が始まります。
李白は、玄宗の傍らに侍して詩を作り、都の名士たちと交わる機会に恵まれます。
ところが、彼の豪放磊落な性格は、ややもすれば傍若無人、高邁不遜と見なされ、時の権力者たちから反感を買うようになります。
門閥豪族と科挙出身の官僚が勢力争いをしていた時代、李白は貴族でも進士でもありません。
周囲の目には、商人の家に生まれ、コネで官職を手にした胡散臭い馬の骨にほかなりません。しかも傲慢で無遠慮な男ですから、宮中では忌み嫌われて当然です。
やがて、同僚の役人たちからも中傷や讒言を被るようになり、親しく酒を酌み交わす相手もいなくなってしまいます。
長安に滞在することわずか2年余り、天宝3載(744)、讒言によって都を逐われ、その後約10年間、再び各地を放浪する歳月を送ります。
この間、洛陽で11歳年下の杜甫と知り合い、短い期間ながらも親交を結んでいます。
天宝14載(755)、安史の乱が勃発し、唐王朝を揺るがします。賊軍が都に攻め入ると、玄宗は蜀に逃れます。
乱が起きた当時、李白は宣城(安徽省)にいましたが、翌年、廬山(江西省九江市)に移ります。
同年、李亨(粛宗)が帝位につき、元号の改まった至德元載(756)、李白は永王(李璘、粛宗の異母弟)に招かれて幕僚となります。
ところが、永王は兄の粛宗と不和を生じ、永王が統率していた軍隊は反乱軍と見なされ、討伐を受けることになります。
永王の軍は敗れ、李白は捕らえられて潯陽(江西省)の獄に繋がれます。
のちに、夜郎(貴州省)への流罪になり、長江を西へと遡りますが、夜郎へ赴く途中で恩赦に遇い、無罪放免となります。
「早發白帝城」
七言絶句「早發白帝城」(早に白帝城を発す)は、ちょうどこの時、思いがけず自由の身となって長江を下る際に歌った詩です。
乾元2年(759)、李白59歳の作です。
――朝陽に赤く染まった雲がたなびく白帝城に別れを告げ、
遥か千里彼方の江陵まで、一日のうちに帰っていく。
両岸から猿の鳴き声が、どこまでも途絶えることなく続くうちに、
軽快に下る舟は、すでに幾重もの山々の間を一気に通り抜けていった。
「白帝」は、白帝城。今の四川省奉節県の古城です。
長江の三峡は、上流から順に、瞿塘峡・巫峡・西陵峡と続きます。白帝城は、瞿塘峡の西の山上にありました。
「江陵」は、今の湖北省江陵県。北魏の地理書『水経注』に「朝に白帝を発すれば暮れに江陵に宿す、其の間千二百里」とあります。
この詩は、舟の上で即興で作られたものであろうと言われています。快調なテンポで、臨場感、躍動感に溢れる詩です。
舟が三峡の急流を瞬く間に下っていく壮快なシーンと、恩赦に遇って晴れ晴れとした李白の爽快な気分とが見事にマッチしています。
喜び勇んで長江を下った李白ですが、その後は重用されることなく、江南の地を転々と寓居する生活を送ります。
最後は、当塗(安徽省)の県令をしている親類の李陽冰を頼って老病の身を寄せ、宝応元年(762)、62歳で没しました。
その死因については、実際には病死であったとされていますが、「長江に舟を浮かべて遊び、酒に酔って、川面に浮かぶ月影をすくいとろうとして、舟から落ちて溺れ死んだ」という伝説があります。酒と月を愛した詩人李白を象徴するかのような伝説です。
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