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友人とタイミング

「中学校でできた友達っていうのは、きっと一生ものになるから。」

小学校卒業の日、クラス担任の先生の言葉だった。

だからこれからも一日一日を大切に、このクラスの仲間と一緒に、頑張っていって欲しい。そんな締めくくりだったと思う。

私たちの小学校は市立で、学年で数人程の中学受験組を除いて、ほとんどがそのまま市立の中学校にあがる地域だった。中学校では、市内の3つの小学生たちが集う形になる。

周りの友達を大事にしつつ、新しい出会いにも積極的になって欲しい。今思うと、そんなメッセージが込められていたように思う。

当時の私は、ふうんそうなんだ、くらいに受け止めたのを覚えている。

先生が今でも一番親しく、心から信頼し気が合う友人が中学校でできた友人とのことだったけれど。そんなものは人と環境に寄るんじゃないの、と思っていた。

小学6年生って見た目よりも子供じゃない。

でも、先生の持論には一理あって、それは“なるほどな”と思えるものだった。

曰く、幼児保育ではまだ自我が形成されていない上に記憶も曖昧で、その後もつながり続けるほどの繋がりはできにくい。

また、小学校で当時に気の合う友達がいても、アイデンティティの形成途上のためつきあいが続くことは少ない。

そして高校では、学力など一定の縛りで区切られた集団の中で過ごすため、環境も性格もなにもかもちがうけど気が合う、という根源的な出会いの確立が少ない。

更に大学以降は、好みとは無関係なつきあいが増えたり、社交辞令が必要だったりで、もっと確率が減る。

だから、心から「気が合う」友達は、

①自分のアイデンティティをある程度形成した状態で、

②家庭環境や学力やその他諸々が異なる同年代の他人と、

③社交辞令や利害関係抜きで接することができる中学生という期間に見つかる可能性が高い、という訳だ。

小学生相手だったから、もっとわかりやすい言葉で説明してくれたけれど、おおまかにはこんな説明だったと思う。

とても納得したのを覚えている。この先生には物申したいことがいくつかあったけれど、総合的には好きだった。子供のことを考えて動いてくれる良い先生だった。

ここで、自分の場合について考えてみる。結果から書くと、当たらずも遠からず。

幼稚園での繋がりだけで続いている友人はいない。小学校からの友人も然り。高校でも根っこが合うと感じる友人はいない。社会人の今も、いない。

中学校の友人に…いた。

性根が天邪鬼なのでなんかすごい悔しいけど、いた…。いつも3人でつるんでいて、性格も好みも家庭環境も価値観も違うけど、なんだか合う、根っこの部分が合う、友人。いた…。

でも当たらずも遠からずなのは、大学時代の友人にも根源的に気の合う友人が2人いること。家庭環境も性格も好みも違う。だけど、根っこの部分が合う。

この結果は、自分のアイデンティティ形成が遅かったからかな、と個人的には思う。

大学の友人とは、お互いの考え方と価値観がとても近い。中学校の友人とは比べものにならないくらい。それは、自分自身をより深く知り理解した大学生というタイミングで、気が合う友人になったことが大きいかな、と思うのです。

自分の考え方や価値観や興味のあることを把握し、自分という人間をはっきり自覚した段階で出会えた友人だからこそ。

きっとこの先、人生の選択肢で悩むことがあったときは、中学時代の友人よりも大学時代の友人に相談するだろう。それは信頼の度合いとかではなくて、より自分に近い選択をしそうで、つまり自分の悩みへの理解度が高そうだから。

対してもし、自分以外のところで悩むことがあったら、大学時代の友人ではなくて中学時代の友人に相談するだろう。これも親しさ云々ではなく、根っこ以外はほとんど違う人だからこそ、自分の想像力や理解の及ばないところの意見をしてくれそうだから。

まあ、いつでも会いたくて、何時間でも話せて、無言の時間が続いても気にならなくて、楽しくて大切でしょうがないのは、どの友人も同じ。

ということで、

「中学校でできた友達っていうのは、きっと一生ものになるから。」

という言葉には、

当たらずも遠からずでしたよ、

と答えたい。

きっと時代や環境や本人の成長云々によって変わる。

賛成はしかねますが、こんな視点をくださって、ありがとうございます先生。

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