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非決定論的視点から読む“MEMENTO”

*扉絵:コグニティブ・フォートトーク、ビジョンクリエーター生成
*以下の論考には映画“MEMENTO”のネタバレが含まれる。

クリストファー・ノーラン監督の最新作“TENET”の元ネタであり、監督の出世作でもある“MEMENTO”は、“TENET”が そうであるように決定論的視点で読むのが妥当だろう。時間の順行と逆行を編集によって擬似的に再現した“MEMENTO”と、時間と空間の順再生と逆再生を織り込んで映像作品とした“TENET”の進化がある。そして“TENET”は順再生と逆再生が混在している時点で決定論以外に解釈が成立しないのだが、“MEMENTO”は冒頭の一区間のみが逆再生であり、順再生と明確に分かれているので非決定論的解釈が可能となる。

そこで、一つのお遊びとして非決定論的視点から“MEMENTO”を読み解いて行きたい。

非決定論的視点を取る上で、登場人物の意図が重要になる。この物語は「順行するモノクロ」の時間軸と「逆行するカラー」の時間軸がレナードの企図に収斂していく。企図とは何か。それは物語の最後、モノクロからカラーに移行する区画でレナードが「書き換える」一連の行動だ。

“Do I lie to myself to be happy?  In your case, Teddy, yes I will.”

レナードは「与えられた」虚構を忘れてもう一度謎解きをしようと企図する。標的は、ジミーが犯人であるという虚構を作り出した、レナードが生きる世界の創造主とでも言うべきギャメルである。そしてレナードの行動は、ギャメルが制御する虚構を越えて影響を及ぼし、謎解きの帰結として最終的に「神」は死ぬ。「神」なき世界にあるのは未規定性と、それを引き受けて生きる人だ。

「順行するモノクロ」と「逆行するカラー」の対比は「閉ざされた生」と「未規定性に開かれた生」である。レナードがジミーの服に着替えつつ、インスタントカメラのフィルムが像を表すにつれてモノクロからカラーへと変わる場面は、ギャメルによって制御(支配)された世界から制御無き未規定の世界へ生まれ変わる過程となる。

“I have to believe in the world outside my own mind. I have to believe that my actions still have meaning, even if I can’t remember them. I have to believe that when my eyes are closed, the world’s still there. Do I believe the world’s still there? Is that still out there? Year. We all need mirrors to remind ourselves who we are. I’m not different. Now... where was I?”

車の中で思考するレナードは、自分の外の世界を信頼する。忘れたとしても行動には意味があり、見えなくとも世界は存在する、と。彼は未来を企図し、記録として書き残し、それが成就すると信じる。決定論において、時間は過去から未来へと流れる。過去に成したことの積み重ねが現在を形作る。しかし非決定論において時間は未来から過去へと流れる。未来はやってくる。この真逆な様を言い当てた台詞が、モーテルのフロント係であるバートの言葉だ。

“That must suck. It's all backwards, isn’t it. Like… maybe you got an idea about what you wanna do next, but you won’t remember what you just did. I mean, I’m the exact opposite.”

「やりたいことはわかるが、やったことはわからない」レナードに対して、バートは「全く逆だ」と言う。バートは、やったことはわかるが、やりたいことがわからない。決定論的世界を生きる人にとって、非決定論的世界を生きる人は時間の観念が逆行しているように見える。

そしてこの物語は冒頭より時間軸が結末から起点へと逆行し、モノクロの過去は順行する。“MEMENTO”は、決定論的視点から、非決定論的世界を生きる人の「逆行」を描いた作品と言える。

1/17  決断を企図に修正。

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