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【第70章・賢女の献策】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第七十章  賢女の献策

 甲府藩主の正室・近衛熙子。彼女は公家社会の頂点・五摂家筆頭近衛家の長女として生を受けた。近衛家は長年にわたり皇室と縁を結んできたが、その中でも熙子は特別な存在であった。すなわち、祖父の近衛信尋は後陽成天皇の第四皇子、母は後水尾天皇の第十五皇女・品宮常子内親王なのである。

 徳川家康は天下を取ると、京都に所司代を置いて公家の動きを監視した。さらに禁中並びに公家諸法度を定め、朝廷を縛った。
 ただ、武士は所詮武士。天下の覇者たる将軍も、帝から位を授けられなければ将軍として存在し得ない。この国では、自立して新王朝を立てるという発想の飛躍には至らない。理由は諸説あるが、日本人の気質としか言いようがない。しかし、王朝交代の例など世界を見渡せばゴロゴロあるから、今となっては、このユニークでロマン溢れる歴史を紡いでくれたことを先人に感謝したい。

 ともかく、幕府としては帝の権威を抑えたいが利用もしたい。時の帝は後水尾天皇。卓越した政治感覚を備えたこの帝は、様々な想いを飲み込みつつ、幕府に協力する道を選んだ。二代将軍秀忠の娘を后に迎え、その間に生まれた女一宮・興子内親王に譲位。一代限りの女帝とは言え、徳川の血の引く帝を許したのだ。これにより徳川将軍家は天皇の外戚となった。源頼朝や足利義満でさえ得られなかった栄誉である。

 幼少期、熙子は日常的に御所に出入りしていたという。天照大神の生まれ変わりと称えられるほど美しく聡明な少女であった彼女は、すでに法皇となっていた祖父の後水尾天皇、弟に譲位して上皇となっていた叔母の明正天皇に殊のほか愛された。

 そして、そのことが彼女の人格形成に多大な影響を与えた。法皇と上皇の御望み、それは唯一、国家の安寧。しかし、朝廷に力なく、幕府に頼らざるを得ない。太平の世を守るためとあらば、譲りもしよう、我慢もしようというお姿を間近に見てきた。

 なればこそ、公武の架け橋となるべく、自分が関東に嫁いで来てやったのではないか。にもかかわらず、今の幕府の体たらくときたら・・・。
 熙子にすれば、征夷大将軍とは、帝のために弓矢を取って朝敵を討ち滅ぼす者であり、血の穢れを厭う将軍など本末転倒、笑止千万であった。

 さて、話を元禄十五年(一七〇二年)十二月十四日に戻そう。

 その未明、元赤穂藩士の浪人集団が本所松坂町の吉良邸に押し入り、同家の隠居・上野介義央を討つという驚天動地の事件が発生。

 吉之助を含む甲府藩の面々は、藩主夫妻の御前で引き続き状況把握に努めていた。すると、前夜の内に別働隊を率いて出ていた江戸家老・安藤美作が戻って来た。御成書院の畳の上にどっかと腰を下ろす。髷も崩れ、ひどい姿だ。

「美作、大儀。早かったな」
「はい。内藤家のご隠居様が馬を貸して下さいました。それより殿。私が出る直前、四谷の御犬屋敷跡地を見張らせていた者が来て申しました。川越藩の者たちが、五人から十人の小部隊に分かれて江戸市中に散って行ったと。もはやあの場所には誰もいない、とのことです」

「出羽守の意図は何だ? 何をしようとしている?」と綱豊が首を傾げる。
「狩野、どう思いますか」

 突然熙子に意見を求められた吉之助が姿勢を正す。
「はっ。恐らく、ご府内の出入り口を押さえる各番所の警備強化のため、差し向けたのでしょう」
「どことどこじゃ?」
 吉之助は、品川、千住、板橋、内藤新宿を含む、俗に江戸十三ヶ所と呼ばれる地点を地図上に指し示した。

「つまり出羽守は、浪人たちが江戸から逃散すると考えているのですね」
「恐らく」
「愚かな。逃げる気なら揃って泉岳寺には向かうまい。出羽守は所詮、平時の小役人に過ぎぬな」

 熙子が地図から顔を上げる。そして、両の鳳眼の光をさらに強くして命じた。
「間部、内藤家下屋敷に伝令を。兵を直ちに、ここに移動させなさい。急ぐのです!」

 彼女が指した場所は高輪の南西。そこには綱豊の同母弟・越智吉忠の屋敷があった。

 兄弟の母親は身分の低い女中であった。兄の綱豊を身籠った後、外聞を憚った父・綱重により当時の甲府藩上屋敷から出された。故に、さらに後に生まれた吉忠は、女の追放先に綱重が通って出来たことになる。そのため、綱豊が跡継ぎとして家に戻された後も、吉忠は外に放置され続けた。
 吉忠が日の目を見るのは、綱重の死後、兄の綱豊によってである。ただ、彼は甲府松平家には入らず、旗本越智家の養子となった。禄高も五百石ほどである。

 しかし、吉忠という人は、それを全く不満に思っていない。よく言えば無欲、熙子などに言わせれば、覇気のない男であった。無論、ここでも熙子は吉忠に何の期待もしていない。

「お照、何を?」
「殿。考えがございます。ここはわたくしにお任せ下さいませ」と言うと、熙子は静かに目を閉じた。

「ご注進! 赤穂の浪人ども、永代橋を渡った後、鉄砲洲にて奥平家、酒井家などから屋敷周辺の通行を拒否され若干迷走している様子。現在、さらに南に向け、道を探しております」

「やはり、大名衆は浪人たちを賊徒と見ているのですね」と熙子が呟くと、「当たり前だ」と綱豊が応じた。

 ほぼ同時に別の報せが届く。
「ご注進! 旗本津軽家の兵、およそ三十、本所松坂町吉良邸に到着。負傷者の救護に当たっております。なお、さらに浪人たちに追い討ちをかける気配あり!」

 間部が驚いて半立ちになった。
「何と! 出羽守様は上杉に使者を遣わし、軽挙妄動に出ぬよう釘を刺したとのことであったが、津軽家への手当てを怠ったか」

 すると、熙子がひどく醒めた声音で間部に問うた。
「津軽と吉良の関係は? 当主はどのような者ですか」
「はい。旗本津軽家は大名津軽家の分家で四千石。ご当主は、津軽采女正様。奥方が吉良上野介様のご息女という関係です。武道に熱心で、極めて剛毅なご気性として知られております」

 吉之助も表情を強張らせる中、横から竜之進が小声で言ってきた。
「津軽家には山鹿流兵法の伝承者・山鹿政実先生がいますよ。赤穂藩も山鹿流だったはず。同門対決とは、これは見ものですね」
「馬鹿なことを」

 一方、上段では熙子が思わず笑みを漏らす。
「ふふふ、やはり殿には天運がついておりますわ」
「お照、何をする気なのだ? 頼む。言ってくれ」

 そこで熙子は顔を横に向けると、綱豊ときっちり目を合わせた。
「殿、我が君、よろしいですか。津軽が浪人たちと闘争に及べば、一網打尽、まとめて討ってしまいましょう。しばらく経てば、お城から大番衆なども出張って来るでしょうが、今この瞬間、まとまった兵を動かせるのは元々戦準備をしていた殿だけです。殿の御手でご府内の騒乱を鎮めるのです」

「それで兵を吉忠の屋敷に?」
「はい。この浜屋敷に百、吉忠殿の屋敷に百。泉岳寺に向かう浪人たちは築地の近くを通るはず。それを津軽の者たちが追います。追いつくのは、恐らく、この浜屋敷の南、三田の辺りではございませんか。挟み撃ちにするのに絶好の場所です」
 熙子を除く皆が、一様に息を飲む。

「さあ、殿。お下知を」
「うぅん、し、しかし・・・」
「殿、大丈夫です。必ず上手く行きますわ。さあ、お下知を」

 熙子は綱豊を安心させるよう、殊更に穏やかな笑みを見せつつ、夫に決心を迫る。熙子の気迫に抗し切れず、綱豊が決断の一言を発しようとした正にその時、吉之助が主君の前に膝を進めた。

「し、しばらく、しばらくお待ちを!」

「き、吉之助か。な、何じゃ? 何事か」
「はっ。御前様の神算鬼謀には恐れ入るばかりでございますが、何分、風が悪いと存じます」
「風? どういうことか」

「はっ。今は冬、風が江戸湾からお城の方向に吹き込んでおります。しかも朝餉の時間帯。町家の多くで火を使っているはず。万一、市中で乱戦となり、火事となれば・・・」
「城まで燃え広がると申すか」
「少なくとも高輪から麻布、お城の南側一帯は、焼け野原となりましょう」

「黙れ! 焼けた家屋敷など、建て直せばよい!」と、熙子が色をなす。

「されど、町が焼ければ人が死にます。人の命は取り返しがつきません。殿、殿には、勅額火事の折の、あの惨状をお忘れですか」
「・・・」
 綱豊は黙って目を閉じ、下を向いた。

「殿、迷ってはなりません。ご城下でこのような騒乱を許したこと。これは、柳沢ら幕閣一同の油断に他なりません。あるまじき失態、その罪軽からず。されば、浪人どもを討った余勢を駆って、お味方の大名旗本を糾合し、柳沢らを一掃してしまうのです。さすれば、将軍職も自ずと殿の御手に帰しましょう」

 綱豊はしばらく考えていたが、やがて顔を上げた。
「うん、そうかもしれぬ。しかしな、お照、此度は自重しよう」
「何と!?」
「まあ、聞いてくれ。予はな、予自身の身を危険に晒すのは構わぬ。必要とあらば戦いもしよう。されど、民を危険に晒してはならん。民の家を焼いてまで、権力を握ろうとも思わぬ。民を犠牲にして得る将軍職に何の意味がある? そうではないか。お照、分かっておくれ」

 熙子は綱豊の顔をまじまじと見つめ、そして小さくため息を吐いた。
「承知いたしました。殿のご決断に従いましょう」

「そ、そうか。お照。予を、予を意気地のない男と思うか」
「いいえ、決して。わたくしこそ、浅慮でございました。我が夫は誠、天下万民の守護者たる器でございます」
「お照・・・」

 熙子は綱豊にひとつ優しく頷くと、次いで吉之助に顔を向けた。彼女の鳳眼は、綱豊に対する慈母のような眼差しから、見る見る、鋭く厳しいものに変わって行く。そして吉之助に強く命じた。
「狩野吉之助。そなた、直ちに本所松坂町に赴き、殿の御名をもって津軽を止めて参れ。己の言葉に責任を持て。よいな!」

「ははぁっ。承りました!」
 吉之助がそう叫んで御成書院の畳に額をこすり付けたとき、江戸湾を覆う空がようやく白み始めていた。

次章に続く


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