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【第7章・出府命令】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第七章  出府命令

 元禄九年(一六九六年)十月初旬、甲府盆地を囲む山々が赤や黄に色付き始めた頃である。幸い、梅雨から夏にかけての雨量も控え目で、塩山地区の山廻与力・狩野吉之助は、例年よりのんびりした秋を迎えていた。

 その日の午後、吉之助が役宅で甲府の藩庁に提出する報告書をまとめていると、大庄屋の高木治兵衛がやって来た。

「狩野様、ご在宅ですか」
「ええ、居ますよ。どうぞ中へ」
「お仕事中でしたか」
「いや、構いません。さ、こちらへ」と招じたが、治兵衛は上がらず、土間との段差に腰を下ろした。仕方なく、吉之助は筆を置いて立ち上がる。

「志乃、庄屋殿にお茶を頼むよ。それで、今日は何用ですか」
「はい。先程、甲府の御山奉行様から狩野様宛に書状が届きました」

「奉行から私に? はて、何であろうか」
 山廻与力の上司は甲府にいる山奉行であるが、職務上の命令や連絡は、勝沼に駐在する筆頭与力を通して達せられる。吉之助が作成中の報告書も、奉行に直接送るのではなく、周辺の与力が作成したものを勝沼で取りまとめ、奉行に提出される。

 従って、奉行から直接書状が届くなど、初めてのことであった。

 書状には特に機密扱いの注意書きもないので、吉之助はその場で封を開き、中身を確認した。すると、中にもう一通、別の書状が入っていた。それは、奉行のさらに上、藩政を預かる城代家老の署名の入った命令書であった。

「私に江戸へ行け、とある」
「江戸ですか。随分と遠くへ。ご出立はいつですか」
「早々に後任を差し向ける故、引継ぎを終え次第、とある。しかし、これだけではよく分からんな」

 二人のやり取りに、志乃が表情を曇らせた。
「大丈夫でしょうか。今、江戸のお殿様のお側にいらっしゃる御用人様は、ほんの少しの失敗も許さない厳しい御方と聞きます。しかも、方々に密偵を放って、江戸の藩邸だけでなく、こちらのご領内の隅々まで監視しているとか・・・」

 それに対して、「そうですな。昨年も、甲府のご重役が一人、突如江戸に呼び出され、即日切腹を命じられたと聞きました」と、治兵衛が真顔で受けた。

「庄屋殿、物騒なことを言わんで下さい。あれは多年にわたり藩の公金を横領していたという話だ。こっちは田舎の小役人。横領する金なんてありませんよ」

「そう言われれば、そうですな。この辺りには、賄賂を贈るような分限者もおりませんしな」
 治兵衛は、塩山周辺の数ヵ村を統括する大庄屋であり、十分分限者と言える。しかし、私財を投じて新田開発や治水事業を進める一方、余力があれば、若年から凝っている薬草研究にあるだけつぎ込んでしまうという人であった。

 吉之助は、いまだ不安顔の志乃に言う。
「書状には、家族帯同で、とある。お前も一緒に行くんだよ」
「わたくしも、ですか。出張ではなく、江戸藩邸への転属ということでしょうか。甲斐にはもう戻れないのでしょうか」

 彼女の心配は当然だ。姓は同じ狩野でも、志乃の家は、三代ほど前、戦国末期に土着し、以来、甲州武士として生きてきた。江戸から婿に来た吉之助とは、土地に対する思い入れが違う。

「それも分からん。いずれにせよ、藩命とあれば是非もない。いつでも動けるよう、準備だけはしておこう」
「そうですね。承知いたしました」

 藩命の一語で瞬時に覚悟を決め、しっかりと頷いた志乃は、さすが武士の妻である。江戸という地名に対する懐かしさと嫌悪感。吉之助は思った。自分こそ覚悟せねばなるまい、と。

次章に続く

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