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【第49章・釜無川の戦い(前段)】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第四十九章  釜無川の戦い(前段)

 その日、始業に際し、藩庁の書記が日誌に一行書き加えた。

 元禄十二年(一六九九年)五月八日、晴天。御用人間部様、釜無川ご視察。ご一行、無事、定刻に出立せり。

 釜無川(富士川)の治水事業は、武田信玄以来、甲斐の領国統治の象徴とされる。この日、間部は藩主・松平綱豊の名代として今も続く治水工事の作業現場を視察し、その後、周辺住民と面談することになっていた。

 間部の行列が釜無川の河川敷に到着したのは昼四つ半(ほぼ午前十一時)。そこは、甲府城から西へ一里半(約六キロメートル)の場所で、少し北には渡し場もあった。現代で言うと、信玄橋と呼ばれる鉄筋コンクリートの大きな橋が架かる付近である。

 狩野吉之助、島田竜之進の二人も行列の中にいた。他の江戸組は勿論、藩庁から中老一名、治水工事を指揮する作事奉行、民政・農政担当の郡奉行も同行している。その下僚と荷物持ちの人足を加えると、一行は六十名を超える大所帯であった。

 釜無川に着くと藩庁の役人たちが視察の場を整える。毎年、春と秋には城代家老の視察があるので、皆、慣れたものだ。一時待機の江戸組は、間部と共に堤に上がった。

 雨季の前なので川の水量は多くない。川幅は三町(約三百三十メートル)を超えるが、砂利が露出した面積が大きい。水は十間(約十八メートル)ほどの流れが二筋、その間に大きな中州がある。流れはゆったり。そして、川の両側には「信玄堤」と呼ばれる堤防と常盤色の水防林が延々と続く。

 そこで吉之助らは揃って下流に目を向け、感嘆のため息を吐いた。雲ひとつない青空の下に甲府盆地を囲む山々。真正面には、稜線から上半分を出した富士が鎮座する。富士の頂上付近はまだ白い雪で覆われていた。

「何と雄大な眺めでしょう。城から見るより富士がひと回り大きく見える」と間部。
「本当に見事だ。一枚描きたくなります」
「狩野殿、是非描いて下さい。殿にご覧いただきましょう」

 すると、作事奉行が配下を連れて間部の前に来た。
「御用人様、どうぞこちらに。まず、信玄公時代の治水事業についてご説明します。その後、各作業場を回り、現在進行中の工事について説明いたします」

 吉之助は、周囲の景色と視察の様子を写生するために懐から矢立を出した。紙は配下の駒木に持って来てもらっている。

 釜無川の河川敷は大きく三地域に分けられる。川辺の砂利部分、盛り土した堤、そして、堤の背後の草地と水防林から成る地帯である。

 武田信玄以前、釜無川と御勅使川の合流地点であるこの場所は、毎年のように大規模な水害に見舞われていた。信玄の治水事業は、偉業と呼ぶに相応しい。長大な築堤、「聖牛」と呼ばれる水流を弱めるための工作物の設置などもそうだが、特に見事なのは、流域全体として治水を考えた点であろう。

 すなわち、緊急時、部分的な溢水を許容し、予め準備した地帯に水を引き込んで人の居住地や田畑への被害を局限しようとした。そのため、堤の後方に広々と草地を作り、根を深く張る欅の木を植えたのである。

 今、その欅林に身を隠し、間部の首を狙っている者たちがいる。言わずと知れた川越藩の襲撃部隊である。

 結局、逃亡者は出なかった。重傷者一名を隠れ家に残置。動けても近接戦闘には使えない二名が支援部隊として別行動。従って、林の中には七人。彼等は二組に分かれていた。最初に斬り込む組の先頭は、萌黄色の伊賀袴に根結いの垂髪、顔の下半分を手拭いで覆った水分嵐子である。

 仕掛けの時機は、彼女に任されている。

 嵐子は、今朝、この襲撃作戦の指揮官であり、彼女が主と仰ぐ青柳厳四郎こと柳生厳四郎に言われたことを思い出す。

 殺すな、ということだ。

 不満顔の嵐子に対して厳四郎は丁寧に説明してくれた。手加減しろというのではない。むしろ逆だ。死体は戦闘が終わるまで放置できる。しかし、負傷者には手当てが要る。搬送にも人手が必要となる。また、怪我人はうめき、泣き、叫ぶだろう。その苦痛や恐怖が周囲に伝染する。視察の人数はほとんどが武士だろうが、役方の者(文官)を多く含むはずだ。斬り合いの経験など、まずない。嵐子たちの任務は、阿鼻叫喚の修羅場を作り出し、相手を混乱させ、敵の戦力を分散させることなのだ、と。

 嵐子はちらりと横を見た。隣の欅の根元で三人の若侍が姿勢を低くして出番を待っている。
「飛び出したら、あたしは一人で走り回る。あんた達は、最初は手当たり次第。相手が対応し出したら三人一組で戦う。いいね。厳四郎様の指示を忘れないで」
「わ、分かっている。し、しかし、大丈夫だろうか。相手は何人くらい・・・」

「心配無用。何人いようが関係ない。今の世の侍なんて、木偶人形同然さ」

 若侍たちはちょっと嫌な顔したが、嵐子は気にもしない。彼女の心は平静そのもの。高揚感もなければ恐れもない。厳四郎のため、目の前の敵を斬る。それだけのことだ。

 目を閉じる。草の香り、水の流れ、爽やかな川風、そして、可愛らしい鳥のさえずり。しばらくすると、二、三人が近付く気配。周辺警戒の人員だろう。かっと目を開けた彼女は、最初の犠牲者とすべき人間を見定め、腰の後ろに差す愛用の脇差に手を掛けた。
「さあ、行こうか」

次章に続く

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