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【第46章・暗号文書】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第四十六章  暗号文書

 吉之助と竜之進が山を下り、甘草屋敷に帰り着いたのは夕方七つ半(ほぼ午後五時)であった。この時期、外はまだ明るい。

 吉之助はまず、勝沼と石和の代官に対して状況を通報する書状をしたため、大庄屋・高木治兵衛の家人に走ってもらった。もっとも、すでに農繁期に入っており、山狩りなど出来ない。宿場の警戒を少し強化するくらいだろうが、しないよりはましである。

「物騒なことですな。ともかく、今夜はゆっくりご休息ください」
「助かります。ところで庄屋殿。この辺りに腕のいい表具師はいなかっただろうか」
「表具師は勝沼や石和に行けばおりますが、腕のいい、となると。この後甲府まで行かれるのでしたら、善光寺さんに寄ることは出来ませんか。甲斐善光寺様の御用を務める表具師なら、腕も一級でございましょう」
「なるほど。それはいい」

 吉之助と治兵衛が話をしていると、先にひと風呂浴びた竜之進が座敷に入って来た。
「お先に失礼。いやぁ、生き返りましたよ。ほんと、下手したら死んでた。生きてるって有難いなぁ」
「はは、何を悟ったようなこと言ってんだ」
「では、狩野様もどうぞ。その間にお食事の準備をしておきましょう」
「かたじけない」

 夕飯は旬の山菜料理。この近くで長く暮らしていた吉之助にとって山菜自体は珍しくないが、たらの芽の天ぷらが出てきたのには驚いた。上から酢橘を絞り、塩をちょっと付けるとこれがひどく美味い。大皿に山盛りあったのを、竜之進と二人、ぺろりと平らげてしまった。そして食後、母屋の北側にある離れに向かった。

「美咲さん、駄目だよ。ご飯残しちゃ」
「さすがに多過ぎます」
「ちゃんと食べないと元気にならないよ」
「では、わたくしも頑張っていただきますから、おりんさんも言葉遣いとお箸の持ち方、しっかり守って下さい」
「うん。あ、違う。分かりました、お師匠様」
「ふふ、よく出来ました」

 屋内から漏れ聞こえる明るい声に、吉之助と竜之進は顔を見合わせた。
「あの二人、上手くやってますね。割って入るのも悪いな」
「何だ? 美咲殿に話があるんだろ」
「そうですけど・・・」

「しかし、いいのか。修羅場をくぐって、平常心を失っているんじゃないか」
「それはあるかも。勝沼からこっち、大変でしたからね。ただ、つくづく思いましたよ。生きている内にやりたい事をやっておくべきだと」
「そうだな。まあ、好きにするさ」

「随分と物分かりがいいですね。会ったばかりだし、反対されるかと」

「武士の結婚なんてそんなものだよ。私が志乃の顔を見たのは婚礼の夜が最初だからな。初対面だろうが、惚れ合った者同士だろうが、上手く行くときは行くし、行かないときは行かないのさ」
「なるほど」
「ただし、無理強いはするなよ。今は、お前さんの方が圧倒的に強い立場にある。言い方にはくれぐれも気を付けろ」
「分かってますって」
「そうだ。おりんには母屋に来るように言ってくれ。あ奴のこれからの事も話しておかないといけないから」

 翌五月一日、吉竜両名は朝餉を取るとすぐに甘草屋敷を発った。まず石和宿へ。信玄以前、長い間、石和が甲斐の中心であった。笛吹川の船着場としても重要な場所であり、江戸時代、甲州街道上の物流拠点として大いに栄えた。ちなみに、石和が温泉地として開発されるのは二十世紀半ば以降のことである。

 二人は遠回りを承知で塩山から西に進み、笛吹川に出てから川沿いに石和を目指した。典膳たちが逃走した経路をなぞり、何か痕跡などあればと思ったが、収穫なし。その夜は石和の代官所に泊めてもらった。そして、翌日の昼前、甲斐善光寺の門前町に到着。

 目当ての表具屋は予想以上に立派な構えで、すぐに分かった。
「御免」
「こ、これはお武家様。お出迎えもせず、失礼しました。何か御用で?」と若い店番。居眠りしていたらしく、頬に変な跡が付いている。
「店の主人と話をしたい」

 すると、奥から一人の小柄な老人が出てきた。髪も顎髭も真っ白。しかし、妙に血色のいい童顔で、どこか仙人めいている。
「ほっほ、何ですかな?」
「これを見ていただきたい」と言って、吉之助は覚隆の居室から持ってきた富士図を渡した。

「ほう、百年は経ってますな。悪くない。中回しの周囲に浮きが。ここらの修復をご希望で? それとも全体をやり直しますか」

「いや、そういうことではありません。そこ、本紙の厚みが変でしょう。一度表具を外して本紙の裏を確認したいのです」
「何か事情がありそうですな」
「出来ますか」
「ほっほっほ、勿論出来ます。しかしながら、現在、善光寺様から仏画の修復を頼まれておりましてな。十日後で如何ですか」

 十日も待てるわけがない。吉之助はここで自ら名乗り、併せて主君の名前を出した。間部もすでに甲府の藩庁に入っているはずだ。疑念があれば、藩庁に問い合わせてくれ、と付け加える。

「ほっほ、お殿様の御用となれば、最優先でやらせていただきましょう。表具を外すだけでよいのですな」
「左様。外した状態を確認したい」
「では、二時(四時間)いただきます。善光寺様でも見物してお時間を潰しておいて下さい」

「無理を言って済まぬが、よろしく頼む。なお、この件は他言無用。この画は勿論、表具を外した状態のものも、余人の目に触れぬように頼む」
「ほっほっほ、承知いたしました」
 白髪白鬚童顔の老店主は、吉之助の警告に対し、恐れるよりむしろ興をそそられた様子で、目を輝かせながら頷いた。

 甲斐善光寺は、戦国時代、武田信玄・上杉謙信の両雄による川中島周辺の争奪戦が続く中、信玄が信濃善光寺の本尊を甲斐に移したことに始まる。これを保護と見るか強奪と見るかは立場によるが、ともかく、この寺は、信玄の庇護下で大いに栄えた。武田家滅亡後一時衰微したものの、江戸時代になると勢いを取り戻し、この日も多くの参拝者で賑わっていた。

 吉之助と竜之進が諸堂の参拝を済ませ、茶店で手打ち蕎麦をたぐりながら話をしていると、境内の大鐘楼が時を告げた。夕の七つ(ほぼ午後四時)である。表具屋に戻る。二人は老店主にいざなわれ、奥の作業場に進んだ。

「へえ、見事にバラバラになってますね」と竜之進。
「ほっほ、普通なら糊を剥がすだけで一昼夜はかかるところですが、コツがありましてな。それはともかく、面白いものが出てきましたぞ。おっと、御手を触れぬように願います。慎重に扱わぬと破れてしまいますからな」

 吉之助と竜之進は作業台の上に覆い被さるようにして、例の富士の画の横に並べられた一枚の紙を見た。
「これは何かの文書ですか」
「般若心経か。いや、一行目だけか。二行目以降は滅茶苦茶だな。何だ、これは?」

「ほっほっほ、武田家が用いていた暗号文書ですよ」と老店主。
「なぜ分かる?」と吉之助。

「当家は百五十年もこの場所で表具屋を商っております。絵画や書だけでなく、公文書から私的な手紙まで、様々扱って参りました」
「なるほど。暗号というからには、この滅茶苦茶な部分が、他の文字に置き換わるということだな」
「ほっほ、その通りです」

「すると、文字の置き換えには、換え字帳が必要だな。あるのか?」
「まさか。お家の最高機密でございますよ。武田家が滅びたときに焼かれておりましょう」
「それもそうか」

 肩を落とした吉之助に構わず、老店主が話を進める。

「しかも、この暗号文書は、二重に鍵が掛かっております」
「二重の鍵? どういうことだ?」

「末尾を御覧ください」
「二十八? 海? 何かの符号か」
「二十八ではなく、片仮名のニと数字の八でしょう。これは複数ある換え字帳の内、どの換え字帳を使うかを示しているものと思われます」
「つまり、本文を読む換え字帳と、使う換え字帳を特定するための指示番号を読み解く換え字帳が必要ということか」
「ほっほっほ、ご明察」

「では、海、は何だ?」
「それは、真田家を示す印だと思われます」
「なぜ?」
「ご存知ありませんか。真田家は、元は海野氏の出なのです」
「それがなぜここに出て来る?」

「ほっほっ、つまりですな。暗号文書は、当然、限られた者しか使用を許されていません。信玄公は、山県、馬場、高坂など、特に信用する数名の重臣に命じて他家に対する諜報活動を行わせていましたが、暗号文書は、その報告用に使われていたのです。この印は、報告者を識別するためのものです。もしかしたら、報告者ごとに異なる換え字帳を用いていたのかもしれません」

「真田もそうした重臣の一人だったということか」
「ほっほ、恐らく。弾正幸隆様、安房守昌幸様、二代続けて信玄公の側近でしたからなぁ」
「なるほど」

 そこで、竜之進がポンと手を叩いた。
「あっ、吉之助さん。私の父の遺した手習いのお手本があったでしょ」
「ああ」
「何の関係もないと思っていたけど、改めて考えると、一冊、妙なのがあった。普通、手習い帳なら、いろは、一二三と覚えやすく順番に書かれているのに、いろはも数字も混ぜこぜで、意味不明なのがあった。もしや、あれが指示番号を読み解く換え字帳なのでは?」

「なるほど。あれは、どうしたっけ?」
「間部様に見せて、間部様が写しを取った後、原本は・・・。そうだ、こっちに来る前に返してもらいましたよ。私の部屋にあります」
「いずれにしても江戸か。竜さんのお父上が、指示番号の換え字帳を持っていて、覚隆の父親の太田正成がこの暗号文書を持っていた。残るは、典膳の父親の新見正信だ。彼は、本文を読むための換え字帳を持っていたのか。典膳はそれを受け継いでいるのだろうか」

「それは本人に訊いてみないと・・・」
「馬鹿なことを。結局、ここで行き止まりか」

 吉之助と竜之進は顔を見合わせ、同時に大きなため息を吐いた。すると老店主が、白い鬚をしごきながら楽しそうに言ってきた。
「ほっほっほ。では、真田家に訊けないのですか」
「は?」
「武田の重臣の家は多くが滅んだか、他国に出たかで、感状や所領の安堵状はともかく、機密文書の類は残していないでしょう。しかしですな、真田家は大名として生き残っております。お殿様から問い合わせることは出来ないのですか」

「なるほど。殿に、いや、まずは間部様か。いずれにせよ、伺ってみる価値はあるな」
「是非そのように」

 竜之進と頷き合った後、吉之助は改めて老店主に正対した。
「ところでご店主、出してもらおうか」
「ほっほ、何を、ですかな」
「写しだよ」
「写しなど取っておりませんが」

「ははは、嘘を吐くな。私も絵画に関係する家の生まれだが、こうした場合、写しを取らずにはいられないものだ。今出せば許す」

「ほっほっほ、お見通しでしたか。仕方ありませんな。そうですか。狩野様の狩野は、あの狩野で」
「まあな。ご店主、世話になった。請求書は藩庁に送ってくれ。急がせた分と口止め料を上乗せしてくれて構わん」

 吉之助と竜之進は表具屋を後にすると、間部にこれまでの経過を報告するため甲府の藩庁に向かった。
 藩庁、すなわち甲府城は甲州街道甲府柳町宿の中心にある。甲斐善光寺からは半里(約二キロメートル)もない。しかし、疲れもたまっている。吉之助には、その半里がひどく遠く感じた。

次章に続く

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