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【第58章・正義の人】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第五十八章  正義の人

 元禄十三年(一七〇〇年)の春である。江戸市中、紅白の梅が咲き揃い華やかな景色が多く見られる。直に桜も咲き始めるだろう。
 しかし、駒込の川越藩下屋敷だけはそれを楽しめない。後に六義園と名付けられる大庭園の造営工事が本域に入っているのだ。

 さて、園内に新たに設けられる茶室、横には小さな坪庭が付く。その作庭作業に汗を流す屈強な後ろ姿。誰あろう、かの新見典膳である。

 彼は傷を負っていたため釜無川では戦闘に参加せず、小舟の上から戦況を見ていた。その後、負傷者を回収して川沿いに離脱。しばらく川を下った後、一旦山中に分け入り、最終的に駿河(静岡県)に出た。それは事前に準備していた離脱経路のひとつで、東海道の三島宿で川越藩の手形を受け取ると、後は難なく江戸まで戻れた。

 しかし、帰還後、傷が膿んだ。しばらく生死の境を彷徨うほど悪化してしまった。年末には本復したが、上司である江戸家老が別件で多忙を極め、今はほとんど放置されている。

 米原の青厳院でかじった庭作り。枯山水の砂利を運んだり、石組を調整したりしていると思い出す。あの口の悪い禅師は達者だろうか。すると、背後から声が。
「新見様、ちょっとよろしいですか」
「おお、青山と十河か。二人揃ってとは珍しいな。何だ?」

 青山主馬(二十六歳)と十河平四郎(二十四歳)の二人は甲斐潜入部隊の生き残りだ。典膳と共に帰還した者としてはもう一人、竹之内甚助(三十二歳)がいる。

 三人とも藩士の家の次男以下で、養子先が見つからなければ家の片隅で一生飼い殺しという境遇であった。だからこそ命懸けの任務に参加し、そして、生きて帰った。
 川越藩江戸家老・穴山重蔵は約束を守り、彼等を揃って十人扶持の正規藩士に取り立てた。青山と十河はそのまま江戸藩邸の徒歩組に編入され、特に腕の立つ竹之内は川越で町奉行配下の与力となっている。

 典膳は汗をぬぐい着替えた後、二人に連れられて藩邸前の飯屋の二階に上がった。部屋の中央に一組の男女。
「驚いたな。幸田、貴様、生きておったか」
「はい」

 幸田友蔵(二十四歳)はやはり潜入部隊の一員で、笛吹川のほとりで狩野吉之助率いる甲府藩の一隊から待ち伏せ攻撃を受けた際、最初の射撃で重傷を負った者である。

「で、これまでどこにいた?」
「はい。皆様が釜無川に出陣した日の夕刻、隠れ家に例の商人が来まして、どうやら自分にも追及の手が伸びてきそうだと申します。それで私も覚悟を決めました。追手が来たなら潔く腹を切ろうと。ところが、待てど暮らせど来やしません。どうやらあの商人、口を割らなかったようで」
「そうか。町人ながら肝の据わった男であったからな」

「はい。その後、何とか歩けるまで回復したので逃げました。しかし、何やら侍奉公が嫌になってしまって。私は元々剣術より学問の方が好きなのです。そこで、水戸に行くことにしました。水戸藩では国史編纂という一大文化事業を進めており、身分を問わず、優れた人材を求めていると聞いていたので」
「ほう」
「甲州街道で江戸に入り、千住から水戸街道、そして松戸宿まですぐというところで、沙紀様に出会ったのです」

 その女は幸田の横で黙って座っている。二人並んでいると若夫婦という感じだ。二十代半ばと言ったところか。

「こちらは、水戸藩で家老職を務める藤井紋太夫様のご息女・沙紀様です」

 尾張・紀伊・水戸の徳川御三家の家臣は、陪臣と雖も陪臣にあらず。しかも家老となれば、その身分は大名相当と言っていい。
 しかし、藤井沙紀は一人の家臣も侍女も連れていない。髪も着物もほこりまみれ。だが、萎れてはいない。顔を上げ真っ直ぐ典膳を見ている。目が合うと、彼女は軽く会釈してから話し始めた。凛としたよく通る声で。

「父は罪なくして御老公より死を賜りました。あまりに理不尽。わたくしは弟を連れて国元の中山市正様に訴えようと水戸を目指しましたが、途中で弟が追手に捕えられてしまったのです」

 ちなみに、中山家は水戸藩の付家老である。付家老は幕府から派遣されている藩主の監督役で、特に中山家は徳川家康によって直々任命されたものであった。従って、その地位は極めて重い。

 幸田が説明を引き継ぐ。
「はい。千住の飯屋でお二人の姿を見掛け、気になっていたところ、しばらく行くと、数名の武士がお二人を囲んで争いに。これは捨て置けぬと加勢に入ったのですが、私の腕では、沙紀様お一人を逃すのが精一杯で・・・」

「それで、弟御の行方は?」
「水戸藩の下屋敷に連行されたに違いありません。どうかご助力を。一刻も早く救い出さねば、弟まで殺されてしまいます」
「主家に抗うと申されるか」
「はい。御老公のことは尊敬申し上げております。されど、此度のことは明らかな誤り。中山様なら御老公をお諫め下さるでしょうが、水戸まで戻っている余裕はございません。最早、天下の執権たる柳沢様におすがりするしかなく。かくは参上した次第。何卒、お口添え下さい」

 藤井紋太夫は、元々水戸老公・徳川光圀によって抜擢された男であった。

 主君の光圀は、厭離穢土・欣求浄土の旗の下、戦国の世を完全に終わらせた神君家康の孫として、その誇りと使命感から常に国全体のことを考え、蝦夷地の探索や国史編纂などの事業を進めてきた。
 しかし、どれも水戸一藩では手に余る大事業であった。さらに御三家としての格式を守るための出費も莫大。水戸藩は公称三十五万石。しかし、領内は山地が多く、実収は三十万石に届かない。故に、藩財政は早くから火の車となり、領民に重税を課す結果となっていた。

 藤井紋太夫は門閥ではなく、元は勘定方の一役人に過ぎなかった。それが実力を認められて家老にまでなった。
 主君が国家国民に対して責任を感じていたように、紋太夫は水戸の領地領民に対して責任を感じていた。彼は遂に決意し、老公肝煎りの各事業の幕府への移管と交際費などの大幅削減について諫言したのである。

 間違ってない。いや、正しい。しかし、場が悪かった。

 水戸者というのは議論好きな上に自己顕示欲が強い。時として過激に走る。紋太夫にもそういう気があった。彼は、数年ぶりに出府した光圀が小石川の上屋敷で催した観能会の場で行動に出た。
 光圀の息災を賀し長寿を祈念するため、現藩主綱條をはじめ水戸徳川家の親戚一同が勢揃いする中、「恐れながら」とやったのである。

 満座の席で恥をかかされ、光圀は、当然ながら激怒した。紋太夫を謀反人と断じ、その場で手討ちにしてしまった。それでも怒りは収まらず、藤井一族一人残らず捕えるよう命を下し・・・。

「なるほど。水戸家で何やら揉めていると報告があったが、そのことか」
 川越藩江戸家老・穴山重蔵、この一年、朝廷工作のために江戸と京都の間を何度も往復している彼は、少し疲れた顔でそう吐き捨てた。

 穴山の執務室には典膳が一人で来ている。
「ご家老、私にお任せ下さい」
「どうする?」
「藤井家の嫡男を救い出します。そして、これを証人とし、水戸藩に家中取締不行き届きの責任を問います」

「悪くない。相手が普通の大名ならな」
「水戸藩相手では?」
「無理だな。御三家とはそれだけ大きな存在なのだ。家臣を手討ちにした、だからどうした、と開き直られれば、どうすることも出来ん」
「中山という付家老は使えるのでは?」
「それも駄目だ。幕府に対し不穏な動きでもあれば別だが、所詮家中のこと。藩の体面を守る方に動くだろうよ。そうだな。典膳、ひと晩考えさえてくれ」
「しかし、急がねば」
「心配するな。捕まっているのは子供だろ。老公はともかく、当代の綱條公は温厚な人物だ。簡単には殺すまい」

「承知しました。ところで、藤井沙紀は如何いたしますか」
「部屋を用意させよう。侍女が必要だな。上屋敷から呼ぶか」
「お会いになりませんか」
「どんな娘だ?」
「気の強い、いえ、気丈で賢い娘御と見ました」
「ほう。まあ、やめておこう。場合によっては・・・。ともかく、後は明朝にしよう。その際は発端の三人組も連れて来い」

 典膳が去った後、穴山は文机の前で腕を組んで考える。彼は、こうした時間が嫌いではない。このところ生っ白い顔をした都の公家ばかりを相手にしていた。いい加減、飽き飽きしていたのだ。

 翌朝、穴山の執務室。典膳の右側に幸田、青山、十河の三人が並ぶ。日常、下級藩士が家老と直に話すことなどまずない。三人とも緊張で顔面蒼白。しかし、穴山が皆の前に一枚の絵図面を広げると、様子が変わった。それは、どこで手に入れたか、水戸藩下屋敷の詳細な間取り図であった。
「うん、これならやれる。今夜、みんなで乗り込もうじゃないか」
「よし、やろう」
「おう」

 穴山がちらりと典膳を見た。典膳も苦笑するしかない。穴山は視線を三人に戻すと、師が出来の悪い弟子を諭すように言った。
「愚か者。相手は御三家だぞ。屋敷に忍び込むなど、そんな荒技を使えるなら苦労せん。よいか。ここ、ここ、ここ、この三ヶ所を手分けして見張れ。何とか藤井の嫡男が水戸に護送されるように手を回してみる。その道中を狙うのだ」

「しかし、本当に水戸に移すでしょうか」
「無論、あっさり殺してしまう恐れはある。その時は諦めろ」
 穴山は迫力を外に出してくる男ではない。しかし、こういう時の凄味は尋常でない。三人が思わず息を飲む。

「よいか。奪い返すとしても千住を過ぎてからだ。忘れるな、お前たちが仕える殿は、江戸の治安を守らねばならないお立場にあるということを」
「はっ」
「また、顔を隠して素性を明かすな。無用な斬り合いは避けよ。そして、首尾よく藤井の息子を奪えたら、その足で川越に向かえ」
「ははっ」

「ところで、三人しれっと並んでいるが、幸田、そなたは脱藩したのではないのか」
「は!?」
 思わずフリーズした幸田をわずかに年嵩の青山が肘で小突く。幸田、慌てて平伏。
「も、申し訳ございません。私が間違っておりました。今後は心を入れ替え、終生御家のために働きます」
「調子のいい奴め。まあ、よい。この件が済んだら、そなたにも十人扶持くれてやる。学があるそうだな。川越の藩校で助教でもやれ」

 若い三人が退出し、典膳だけが残った。穴山が、ここからが本題だ、という顔になる。

「水戸藩に、水沼玄蕃という男がいる。こ奴は老公が隠居するにあたり当代のために残した側近で、なかなかの切れ者だ。今は藩主付きの用人をやっている」

 いきなり何の話だ? 典膳にはさっぱりである。

「藤井の息子を水戸に移すとなれば、こ奴が護送の指揮を執るに違いない。典膳、水沼を斬れ」
「それは構いませんが、都合よくその男が出て来るでしょうか」

「何事も自分でやらねば気が済まぬ奴がいる。水沼の性格までは知らんが、用人などという職に就く者は往々にしてその傾向にある。まあ、先ほども言ったが、そもそも藤井の息子が水戸に移されるとは限らん。さらに、移すとして水沼が関わらないことも十分ある。だがな典膳、そなたは引きが強いからな。そこに賭けてみるのも一興であろう」

「しかし、江戸の外であれば強硬手段も許されるというなら、いっそ、水戸に帰る途中の老公を襲っては如何?」

「はは、それは痛快だ。あの頑固爺には殿もさんざん煮え湯を飲まされてきたからな。しかし、その必要はない。何せもう歳だ。放っておいても早晩くたばる。大事なのは爺の死んだ後よ。今から水戸の力を削いでおきたい。出来れば、こちらの意のままに動く人間を水沼の後釜に据えたいのだ」
「なるほど」
「従って、もし水沼が姿を見せたら、藤井の息子のことは若い連中に任せ、典膳、そなたは真っ直ぐ水沼の首を狙え」

 不幸な姉弟を救う。そんな善行より刺客の方が自分らしい。横には反りの深い大刀一振り。甲斐から戻ったときは刃こぼれがひどかったが、すでに研ぎ直しも済んでいる。典膳は、出番を待つ愛刀に一瞥をくれた後、「承知」と短く答えた。

次章に続く


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