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【第59章・水戸光圀の死】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第五十九章  水戸光圀の死

 元禄十三年(一七〇〇年)師走初め、水戸郊外の山荘で一人の老人が世を去った。その老人とは、水戸黄門こと徳川光圀である。

 光圀は神君家康の孫であり、徳川一門の重鎮。将軍継嗣問題を含め、その死が各方面に与える影響は極めて大きい。従って、事前調整の必要もあり、水戸藩が光圀の死を公にしたのは半月後であった。同時に幕府は将軍綱吉の名で弔意を表し、江戸市中に対して二十日の間、飲酒及び歌舞音曲を禁じた。

 狩野吉之助が一日の勤めを終え、御長屋の自宅に帰ってきた。羽織を衣桁に掛けながら妻の志乃に言う。
「明日、殿が小石川の水戸藩邸まで弔問にいらっしゃる。私も御行列の一員として行くことになった。紋付を用意しておいてくれ。袴は鼠色の一番いい奴で頼む」
「かしこまりました」

 奥の部屋に目を転じると、おりんが畳の上に寝転がり、足だけを火鉢で温めながら何か読んでいる。
「また行儀の悪い。水戸老公の服喪中だぞ」
「知らないよ。あたし、会ったことないもん」
「馬鹿。私だってご尊顔を拝したことなどない。まったく。で、何を読んでるんだ?」
「読売(現代の新聞)。文竹先生の工房の前に版元があったでしょ。そこの最新版」
「ほう。あの版元、屋号は何と言ったか」
「風神堂」
「そうだったな。それで、何が書いてあるんだ?」
「そうそう、その水戸のご隠居さんのお話なんだよ」

 おりんは部屋の隅から座布団を一枚持って来ると、その上にちょこん座った。そして、件の読売を前に置き、パンとひとつ膝を叩くと得意満面に語り出した。

 曰く、神君御孫君、天下の副将軍たる御三家水戸藩第二代藩主、前中納言徳川朝臣・源光圀公が江戸から水戸に帰る道中、白昼にもかかわらず俄かな濃霧。次の瞬間、老公を乗せた豪華なお駕籠の側に一匹の鬼女が現れた。

 おりんはもう一度パンと膝を打った。

 続けて曰く、その様と言えば、口は耳まで裂け、振り乱した髪の奥には大蛇の眼。その鬼女は呪いの言葉を叫びつつお駕籠の扉に手を伸ばす。しかし、水戸は武勇のお家柄、しかも老公警護の士となれば一騎当千。一人の侍が、すかさずお駕籠と鬼女の間に割って入った。抜く手も見せず白刃一閃、確かな手ごたえ。さあっと霧が晴れて行く。

 パンパン、パンと打つ。

 その侍が鬼女のいたところを調べてみれば、路上を染める真っ赤な血痕。ただし、鬼女の行方は妖として知れず。その後、御行列は水戸城下に無事到着。しかし、しかし、皆が安堵したのも束の間、老公、その夜から謎の高熱を発し、三日の後、苦悶の内に息絶えた。これ正に、鬼女の呪いのなせる業。恐るべし、恐るべし。

 気付くと、志乃も横に来ておりんの話に聞き入っている。江戸人は、武士から町人まで、老若男女問わず、この手の話が大好きなのだ。

「おりん。お前、凄いな。絵師やめて辻講釈になるか」
「これ、読売を売る口上なんだ。工房の前でずっとやってるんだもん。覚えちゃったよ」
「それにしても、鬼女の呪いだと? 馬鹿なことを」
「でも、あなた、この画をご覧になって。誰かが現場を見たんですわ。そうに違いありません」

「確かによく描けてる。このおどろおどろしい雰囲気は岩佐又兵衛の絵巻のよう・・・。いや、ちょっと待て。何だ、文中には某大名家のご隠居様とあるだけじゃないか。これでは、この読売だけ見たら、水戸老公の話だとは分かるまい」

 すると、おりんが読売に描かれた大名行列の中央辺りを指した。鬼女と侍、そして・・・。
「ほら、その駕籠を見てよ」
「駕籠? これは家紋か。三つ葉葵、ではないぞ。裏紋にしても・・・」
「そこじゃないよ。お駕籠の扉って普通どうなってる?」
「扉? 何だこれ? 板戸のようなものが三枚」
「だ、か、ら」
「三枚の板戸、そうか。みと、か」
「やっと分かったの。先生、鈍いよ」

「くだらん。何より、水戸の御老公が鬼女の呪い如きにやられるものか」

「そうなの? 水戸のご隠居さんは鬼女より強いってこと?」
「当たり前だ。水戸の御老公はな、藩主時代、淫祠邪教を嫌い、領民から財を巻き上げる悪僧や怪しげな祈祷師を厳しく取り締まったと聞く。そういう合理的なお考えの持ち主だ。鬼女の呪いなど効くものか」
「いんしじゃきょうって何さ?」
「妙な迷信やインチキ宗教ということだ」
「ふぅん」

 光圀の死に不信な点はない。齢七十三、ごく自然な老衰であった。ただ、風神堂の読売もまったくの嘘かというとそうでもない。

 光圀は死の数ヶ月前、自ら催した観能会の場で家老・藤井紋太夫を手討ちにした。そしてその後、光圀が江戸から水戸に帰る際にもうひと騒動あったのである。

 光圀を乗せた駕籠が藩主重臣一同に見送られ、小石川の上屋敷を出た直後のこと。通りで平伏していた一人の若い娘が突然立ち上がり、光圀の駕籠に駆け寄った。

 彼女は、何かひと声叫ぶと、帯に差した懐剣を抜こうとした。光圀を害するつもりは毛頭ない。ただ武門の意地。父に対する不当な仕打ちに抗議し、その場で自らの喉を突いて自害しようとした。しかし、警護の侍はその暇を与えず、一刀のもとに彼女を斬り捨てた。即死であった。

 憐れ、その娘の遺体は路傍に置き捨て。通常、行き倒れなどの身元不明者の死体は辻々に設けられた番所に運び込まれ、引き取り手の出現を待つ。最終的には町名主の責任で葬られた。しかしこの場合、水戸藩に睨まれることを恐れ、誰も手を出せない。

 三、四日も経てば遺体は腐臭を放ち始める。町内揃って頭を抱えていたところ、五日目の朝、彼女の亡骸は消えていた。前夜、どこからともなく覆面をした四人の侍が現れ、遺体を板戸に載せて運び去ったのだ。
 目撃談がある。酒に酔った遊び人の話だから信ぴょう性は低いが、四人の内の一人が腰に差す大刀は、三日月のように反りの深いものだったという。

 そして年が明け、遂に、元禄十四年(一七〇一年)である。

 睦月の末、新見典膳は京橋の料亭にいた。上司である川越藩江戸家老・穴山重蔵の護衛で来たのだが、いつもと異なり座敷まで入るように言われた。

「ここの天婦羅は美味いぞ。昨年来随分働いてもらったからな。ゆっくりしてくれ。それに、これから来る男は水戸藩の新しい用人だ。そなたが水沼を斬ってくれたお陰でその地位に就けたわけだ。面くらい見ておけ」
「はっ」
「ところで、藤井紋太夫の息子、角兵衛だったか。あれはどうしている?」
「はい。川越で無事に過ごしています。姉の墓まで建てていただいたこと、大層感謝しており、一生かけて恩を返したいと」
「ほう、殊勝な」
「幸田の便りでは、学問も同年代の中ではずば抜けているとのこと」
「案外拾い物かもな。年頃から言って、吉里様の近習によさそうだ」

 柳沢吉保の嫡男・吉里はこの時十三歳。父親譲りの姿形のよさと聡明さに加え、素直で慈悲深く、家中全ての階層から慕われている。元服にあたり将軍綱吉から「吉」の一字を賜り、さらに従四位下越前守に叙されていた。

 穴山重蔵という男にとって、大名柳沢家は一生かけて作り上げる作品と言える。

 竹馬の友であり主君でもある柳沢吉保は存外ロマンチストな面があり、柳沢家に箔をつけるために主張してきた名将・武田信玄の遺臣という話を今や本気で信じている。自ら甲府城に入り「武田家の甲斐」を取り戻すことを本気で人生の目標にしている。それはそれでよいのだが、穴山はさらに上を狙っていた。

 すなわち、徳川一門に御三家があるように、譜代大名にも御三家を作らせる。

 徳川の天下が定まって以来、譜代衆の筆頭は酒井家と井伊家であり、この二家の当主のみが大老職に就ける。世間では、御三家の中で唯一定府である水戸家を指して副将軍と呼ぶ。しかし、そうではない。御三家は政に参加できない。大老こそが、将軍権力の代行者、副将軍と呼ぶに相応しい存在なのだ。

 今、穴山の主君は幕閣を率いる老中首座であり大老格とされるが、大老そのものではない。過去には松平信綱や堀田正俊など、二家以外からの大老もいた。しかし、皆一代限りである。恒常的に当主を大老の地位に据えるためには、柳沢家が酒井家、井伊家と並ぶ譜代筆頭の家格を得なければならないのだ。

 柳沢家から出る最初の大老は、吉里様こそ相応しい。穴山はそう考えている。

 彼は近年、主君の命を受け、将軍生母・桂昌院に女性として過去最高となる従一位の官位が贈られるよう奔走してきた。同時に己の夢への布石も打っている。すなわち、桂昌院叙位が実現すれば、主君への褒美として、吉里に松平姓を賜るということだ。そしてこれは、すでに成ったも同然。

 水戸の頑固爺が死に、甲府中納言は最大の後援者を失った。後は、あの丸顔の中納言と譜代衆の離間を図り、将軍母子の望み通り紀州後継の流れを固めてしまえば、柳沢家は安泰、吉里の将来には希望しかあるまい。

 殿ご自身に大老に就いてもらってもよいが、我らの手はすでに汚れ過ぎているからな。新しい盃には新しい酒を・・・。

 穴山がそんなことを考えてると、料亭の主人が来て座敷の端で平伏した。
「ご家老様、失礼いたします。ただいま、水戸藩の御用人様のお使いがいらっしゃいまして、ご主君の急な御用が入り、四半時(三十分)ほど遅れるとのことでございます。重々お詫びしておくようにと」
「そうか。分かった」
「どういたしましょう? お料理をお持ちしましょうか」
「いや、安田殿が来てからでいい」

 主人が手持ち無沙汰な感じの典膳の方をちらりと見て言う。
「では、軽く御酒とおつまみだけでも」
「そうだな。おお、それはそうと、隣は新しい店が出来るのか」
「はい。何でも本格的な京料理の店だそうです」
「それは楽しみだ。そう言えば、近頃桂昌院様が寵愛しているという新しい中臈。あれも京都の出であったような」
「は? 何か」
「いや、何でもない。とりあえず酒だ。早く持って来てくれ」

 どんな知恵者も世の全てが見えているわけではない。先々を読み、最善手を打ち続け、大いなる成果を得たと思っても、知らぬ間に他者にそれ以上の利を与えてしまっていることがある。そして、見えない敵ほど怖いものはない。
 今、千代田の城の奥の奥で、甲府藩や川越藩ばかりでない、武士の世そのものをひっくり返さんと企む、最凶の敵が動き始めていた。

次章に続く

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