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【第2章・吉之助の富士(前段)】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第二章  吉之助の富士(前段)

 笛吹川は、甲斐(山梨県)・武蔵(埼玉県)・信濃(長野県)の境にある甲武信ヶ岳(標高二千四百七十五メートル)などを水源とする河川である。奥秩父中央部から急峻な地形を流れ来て、甲府盆地南東地域を潤し、釜無川(富士川)に合流している。

 笛吹川が山間から甲府盆地に出てしばらく行ったところに塩山という地がある。源平合戦の時代から交通の要衝であり、現代においても市役所やJRの駅がここに置かれている。

 狩野吉之助の役宅は、その塩山の北の外れの小さな村にあった。

 山奉行配下の山廻与力は、林業を監督するために藩庁から派遣されている下級役人である。山から山、村から村を歩き回り、山林の調査及び林業従事者の監督に当たる。ただ、役人密度の低い地域であるから、ちょっとした諍いの仲裁から捕物まで、専門外の仕事を頼まれることも多かった。

 吉之助は当年三十五歳。十六年前に妻の家の婿養子となり、三十俵二人扶持の微禄と山役人の地位を引き継いだ。現在、役宅に妻の志乃と二人で暮らしている。

「志乃、戻ったぞ。怪我人がいる。湯を・・・」
「ああ、狩野様かね。御新造様なら留守だよ」と、村の老人・五平が顔を出した。
「どこ行った?」
「隣村のお産の助っ人だぁ。村の女ども連れて三日前から。怪我人のことは孫たちから聞いとる。寝床、用意しようかね」
「ああ。奥の間に頼む」

 役宅と言っても、造りは普通の民家である。入口の土間の横に台所と物置のスペースがあり、その奥に六畳が二間。村人の家とわずかに異なるのは、二間とも畳敷きであることだ。
 背中の男・西田春之丞は、御家人を自称する。御目見え資格がないとはいえ、天下の主・征夷大将軍の直臣であることに変わりはない。さすがに土間の横に寝かせるわけにはいかないだろう。

 翌朝、吉之助が奥の間に顔を出すと、西田はすでに目を覚ましていた。彼は、吉之助の顔を見ると、寝床に入ったまま上半身を起こした。
「いや、世話になった。お陰で痛みは引いたようだ」
「それは重畳。朝餉を準備させています。少々お待ちを」

 部屋には簡素な作りながら床の間があり、横長の掛け軸が一幅掛けてある。西田がそちらに目をやりつつ言った。
「こちらの富士図は? あまり見たことのない描き方のようだが」

 富士山を描いた絵画の代表と言えば、まず、画聖・雪舟の「富士清見寺図」がある。駿河(静岡県)の側から見た景色で、画面の左上に富士、手前に清見寺の塔、右中ほどに三保松原を配するという構図である。

 次いで、家康・秀忠・家光の三代に仕え、狩野派による画壇支配を確立した狩野探幽が、構図は雪舟に倣いつつ、筆致や余白の取り方を当世風に工夫して富士を描いた。以降、この探幽様式が基本となっている。

 しかし、床の間の掛け軸は、筆致は狩野派と思えるが、構図が全く異なるのである。

「ああ、それは私が描いたものです。この近くの高台から見える富士の姿ですよ」
「ほう。とても素人の筆とは思えないな。もしや、狩野殿の狩野は、あの狩野では?」
「はあ。私は、法印常信の次男なのです」

 西田は、吉之助の表情が僅かに曇ったのを見逃さなかった。
「常信と言えば、探幽の再来と謳われる御用絵師の代表格ではないか。公方様の覚えもめでたいと聞く。そのご子息がなぜ・・・」

 こんなところに、とか、こんな田舎に、と続くはずだが、流石に失礼と思ったのだろう。西田は途中で言葉を切った。

「まあ、いろいろありまして」

 西田は、口ごもった吉之助に対してそれ以上追求せず、話題を換えた。
「ところで、あの見事な槍さばきはどこで稽古を?」
「いや、あれは槍ではなく、杖です。杖術というものです」

「ほう、杖術?」
「ええ。何せ私は絵師の家の出ですから、武術の心得は全くありません。ここに赴任してから何とかしなくてはと思った次第で」
「それで杖術を」
「はい。剣術は、間合いだの呼吸だの、難しいでしょ」
「確かに」

「それで、ある日、近くの寺の住職に相談してみたところ、私の背丈や手足の長さを活かせる杖術はどうだろうかと。ちょうど村に心得のある山伏が来ていまして、基本の型を教えてもらいました。あとは朝晩の素振り千本、それだけです」
「なるほど。あれは、材質は何だろうか」
「赤樫です。そこらの山の木を削って作りました。正式には四尺二寸一分(約百二十八センチメートル)だそうですが、私はこの上背なので、勝手に五尺(約百五十二センチメートル)にしています」

 そこに、五平爺が朝餉の握り飯を盆に載せて持ってきた。
「ああ、杖の話かね。あれはおらが削ってやったんだ。堅い材だからねぇ。大変だった」
「そうだったな」
「しかしよぉ、狩野様がこの村に来たときゃ、こんな生っ白い若造、半年で逃げちまうと思ったけどね」
「こら」
「いや、褒めてるんですよ。こんなにごっつくなっちまって。今じゃ、山役人の見本のような御方だ。どれ」

 五平爺は立ち上がり、隣の部屋の書棚から帳面を二、三冊持ってきて西田の前に置いた。
「江戸の御方、ご覧なせぇ」
「おいこら、勝手に」
「いいじゃねぇですか。減るもんじゃなし」

 吉之助と五平爺のやり取りを横目に、西田は帳面の頁をめくった。そして、そのたびに彼の顔に驚きの色が浮かぶ。
「これは見事だ」

 それは、現代で言うところのハザードマップであった。吉之助が担当する地域で起きた災害、特に土砂崩れと河川の氾濫について、被災状況はもちろん、前兆と思われる事象や事後の処置まで、絵図面付きで克明に記録してある。

「狩野様のお陰で、毎年、早め早めに手が打てるようになってなぁ。まあ、災いを完全に無くすことは出来ねぇけんど、被害は随分と軽くなったよ」
「なるほど。記録を残し、将来のために活用すること自体は珍しいことではない。しかし、これだけ綿密に、かつ、継続して出来るというのは尋常ではない」

次章に続く

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