幻想的な白いバラ

小説『エミリーキャット』第15章  不思議なエミリー

ダイニングキッチンは現代的なシステムキッチンではなく機能的で無駄の無い造りではあるものの、ヨーロピアン風の漆喰塗りの白い壁に部分的に煉瓦で補強されたり、デザイン的にあしらわれたりしながらもガス台の下に古い竈(かまど)のような巨きなオーブンが備え付けられていた。日本人の彩から見てなんとなく古式床しくも感じられ、そのせいか欧米的であるにも関わらず何故か不思議な懐かしさもあった。

モダンではない為に全てきちんと収納されず手を伸ばせば届く位置にあらゆる什器類や小物類がぶら下げてあったり、木製の造り戸棚の中に並べてあったりした。
戸棚にはアンティーク硝子なのであろうか?表面が波打つ歪(いびつ)で碧みがかった硝子が嵌め込まれた中に整然と積まれた食器類がまるで水底(みなぞこ)に在るように透けて見えた。
そのキッチンにカフェエプロン姿で立つエミリーは一体歳は何歳くらいなのだろう?とか下世話であるが同時に当たり前な考えを何故か寄せ付けない不思議な浮世離れ感があった。
キッチンに立つ姿もキッチンにまるで馴染まず、まるでモデルじみた年齢不詳の不思議な女性が旧粧(ふるめか)しいキッチンに居るようで、酷くちぐはぐにさえ見えた。
しかもここは日本なのに…。

『長い脚だなぁ…』彩はやや渋めのラベンダーグレーのカラーボトムズを履いたエミリーの背中を向けた立ち姿をしみじみと見惚れて眺めた。
エミリーはややゆったりとしたボーイフレンドまではゆかないが、スリム過ぎず、ゆとりが程好くあるスリムストレート気味のボトムズを履いていた。
寝室もクリーンだったが廊下の隅々まで塵ひとつ無くキッチンも使いやすく、むしろ親しみやすいほど全てが目に見えてセッティングされてあるのにも関わらず、花屋のショーケースの中に咲いていた花と同じく何故かまるで映画のセットか舞台装置でも見ているかのように整然とし過ぎていて、美しくはあるものの同時にどこか覇気や生気が無かった。
夜中眠れなくてカップケーキを山のように作ってしまうことがしばしばあるという使い込んだキッチンにはとても見えない。
エミリー自身もまるでカフェのギャルソンのような小さなカフェエプロンを小粋に腰に巻きつけているとはいえ、毎日キッチンに立ちながら時にせわしなくバタバタと汗をかきながら調理に勤しむ姿なんてとても想像がつかない。
包丁など持てないのではないか?そんな貴族的な雰囲気すら漂わせている。
毎日、暖炉の傍でティーカップを片手に猫達と一緒に音楽を聴いたり、庭で薔薇を剪定して室内の花瓶に活けたり、日がな一日優雅に猫とのんびり遊んでいそうにすら見える。

どこか何故なのかは解らぬがエミリーには誰の家に行っても、また誰に逢っても良きにつけ悪しきにつけ必ずある、あのあって当然たるものがまるで抜け落ちたかのように無かったからだ。
それは『生活感』だった。


その『生活感の無さ』の中で不思議なエミリーはガス台の前に立ち、やや大ぶりの鉄鍋でミルクを温めていた。
それだけでもなんだか拍手を送りたくなるような一種ミステリアスさと、長身であったとしてもどことなく非常に幼く純真である事と隣り合わせに稚拙で無謀な少女と、聡明で教養の抽斗(ひきだし)の豊かな大人の女性とが、奇跡的に同居したかのような『辿々(たどたど)しさ』や『危なっかしさ』『奇妙さ』や『理解しにくいが故の強い蠱惑(こわく)』がエミリーの放つオーラにはあった。だがそれはそういった雰囲気を持つ人達には通常は無い透明感と輝きがあり、それらは何故だかオーロラの様々な色の翻(ひるがえ)りのようにエミリーの中に内包されている。
その為に一体あの人はどうやって暮らしているのだろう?
何をやってる人なのだろう?と彼女はよく人々から、もの見高い目で遠巻きに見物されたり、怪訝に思われたり、時に勝手な揣摩推測をされ、ありもせぬ噂を立てられたりするのではないかと彩は思った。
だがそんな人々の好奇心がまったく下衆(げす)でちっぽけなものであることをさながらたまにハイウェイの端にある卑猥で危険なものを売る怪しい店の袖看板のネオンの如く自分で自分の中身の醜悪さをわざわざ露呈して見せるようなものなのだと彩は周囲の『長』がつく目上の上役達の目下の者が自分とは社会的な力も天と地ほどの差があることを充分に知悉した上で、自分とは決して同等でない人間に自分の権力にものを言わせることが出来るポジションとそれに不随する影響力を存分に活かして相手をことあるごとに脅したり、それによって血路を塞ぐような真似を恥ずかしげもなくするといった醜悪奸邪なズル賢さを見てよく知っていた。
そして彼ら(彼女ら)の活躍は、なんの気づきも内省もなく、図太く連綿と続いていく。同時に彼らは地獄にも近づいてゆくのだと彩は思った。
そう思わないと、とてもやり切れないからだった。
地獄があろうが無かろうが天から見ている人はどこかには居るだろう。
普段、宗教や神仏がなんだだの、まるきり関心の無い彩は自分でも不可知論者だと大いに自認している。そんな彼女は日頃の行住座臥にまで密接した熱心な信心などとは無縁であるにも関わらず、都合のいい時にはいかにも日本人らしくふとそんな想いがこういう時に限って彼女の胸の内を過(よぎ)ったりした。
彩は会社がそんな醜悪な妖怪どもが犇(ひし)めく場でもあるから嫌いだった。
だが絵は好きだ。
絵に関わる仕事は続けてゆきたい、それでもやっぱり会社の中に居るとどうしようもない軋轢やストレスを彩は感じない日が無かった。
それに比べてここは一体なんという異空間で世界であろう、
ささくれ立って凍りついた心に不思議な安堵と癒しが拡がり、あり得ないとずっと思っていた凍て解け(いてどけ)さえ感じる。
エミリーはこの森を一歩出ると、どこの深窓の令嬢かマダムか、好意的な想像だけではない嫉妬混じりの賤しい好奇の目に囲まれるのかもしれない。
良きにつけ悪しきにつけ、彼女は目立ち過ぎるし着ているものもさりげないように見えて実はひとつひとつが高級なものであることは彩にも解った。
カラーパンツは恐らくフランスのシマロン、シマロンは彩でも一本持っていたので比較的まだ親しみやすかったがセーターはカシミアの中でも飛びきり上質のクラスのものであることは間違いがない。
漆黒のセーターがエミリーの躰の線に沿って滴(したた)るような艶めきを見せる。
胸に下げた碧いカメオはよくある横顔の貴婦人像ではなく白い猫のレリーフだ。それでも尚、彩はエミリーの生活水準など興味は無かった。
少なくとも自分とは違うだろう、だがそれだけだ、それよりもずっと心惹かれるのはエミリーの美しさと同時にエミリーを取り巻くこの周りの空間の奇妙なほど光を通す透明感と奇妙であると同時に神秘的なまでの違和感だった。

それは彩自身が言葉にした猫の奇妙な眼(オッドアイ)への『美し過ぎる為の違和感』とはまた違っていた。
むしろ周りと調和しようと彩が日頃、労(ろう)することの反対で調和しようとなどせず自分らしくあること、そうすることにより嫌われたり仲間外れにされたりも多々あるだろう。
だがエミリーを見ているとなんだかそんなことが些末なことに感じる。
たとえば絵画を観てそれに抗わず絵画が送る波に揺られていればよい、
船酔いなどしない、調和しようとするから酔うし苦闘する。
抗わず自分も共に揺らげばよいのだ。
樹々がざわめくように自分もざわめくのだ。
シンコペーションだから、ト短調だから、なんとなく不穏と感じるのはもしかしたらナンセンスなのかもしれない、
それはかなり風変わりなコンチェルトなのかもしれない、
セレナードではない、コンチェルトは不遜で勝手なのだ。
だがその癖、高貴さに満ち、何か追い詰められたかのようにファナティックでもあり同時にもの哀しくパセティックでもある。
そんなコンチェルトを好む人も居るだろう。
風に抗わずたわむのだ。なびくのではない、ざわめくのだからもっと起源(オリジン)の匂いがする。それは恐らく苦しむのではない、ざわめくのだ、
ざわめくことは苦しむことではない。なんという違いだろう?なんという魅力的な違和感なのだろう、
この違和感があるからこそ多分『エミリーは美しい』のだと彩は感じた。
だからこんな森奥で花屋をちゃんと切り盛りしていけているのだろうか?
など、どうでもよいことではないか?
そんな卑俗な目でエミリーを見ることは彼女をもしかしたら社会人として、どこかしら傲慢になって見下ろすことにはならないか?
そんな脂切った好奇心の滲む穢(けが)れた目でこの身長だけ成長して後は、まるで少女のまま止まってしまったかのような妙齢の女性の起居を、推し測るのは浅はかなばかりか、まかり間違えば悪意や妬みにまで自らを貶(おとし)める次元にまで潰(つい)えるのと同じなのだ。
彩はその意識を頭の隅に鎮かに置いておくか、全くそうでないかで人も自分も大きく枝分かれするのだと思惟(しい)した。




(To be continued…)

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