アンティーク風カップ

小説『エミリーキャット』第16章  チャイはいかが?

エミリーは彩の深い想いには微塵も気づかぬ様子で懸命に、まるで生まれて初めてのような真摯な様子でミルクを温め始めた。
彼女はやがてノンラベルの不思議な形の硝子瓶に入ったミルクをどこからともなく取り出すと、温まったそのミルクの中へと注ぎ足した。 


二つのミルクが充分に温まるとそこへ多めのキビ砂糖と紅茶の茶葉を直接スプーンで掬(すく)って入れた。
ミックスされた二種類のミルクが吹き零(こぼ)れそうになるまで彼女はまるで豆でも煎るように深めの持ち手のついた鉄鍋を揺すりながら温め、吹き零れる寸前に火から反らして鍋の表面がすぅっと鎮火するように落ち着くとまたミルクを火元へと戻した。
そしてまたミルクが沸騰してくると反らすを何度も繰り返した。
そのミルクの中に直接投じた紅茶の茶葉をさながらミルクの中でキャラメリゼするかのように彼女はミルクをじっくりと時間をかけて丁寧に温めた。


やがてこっくりとしたベージュがミルクに滲(し)み出しているのが沸騰し鍋から沸き上がる時にエミリーの背後に座る彩にも垣間見えた。
そして大きめの輝かしいような赤銅のミルクパンを隣のピカピカのガス台に置くとそのミルクパンの中にエミリーは薄いガーゼのような布を深張りし、そこへその熱い茶葉入りのミルクを投入した。
背後のテーブルについてそれをじっと見ていた彩はようやく訊ねた。
『何故二種類のミルクを使うの?
そのミルクは牛乳?』
エミリーはガーゼに開けた茶葉入りのミルクをさながら氷枕を閉じる口金を小さくしたような金具でガーゼの口をぴっちりと閉じ、更にそれをペンチのような金具で搾るようにして茶葉を完全にミルクに濾し切ってしまうまでエミリーは無言だったが、それを終えると彼女はやっと振り向いた。
変わらず笑顔であったので彩は安堵したがエミリーが彩をもてなす為のお茶をとても真剣に淹れているのだ、といった雰囲気がひしひしと伝わってきて彩はエミリーの思わぬ純真さに胸を突かれる想いがした。
『久しぶりなのよこのお茶を淹れるのは…少し緊張するものね、人前で淹れるのって』
『そうなの?でもとってもいい匂い』
と彩はわざと鈍感を装って言った。
エミリーは彩の問いにキッチンの壁の作り付けの戸棚から取り出した優美だが旧めかしいカップとソーサーを、調理台を兼ねた巨きな大理石のテーブルに並べながらこう答えた。
『ひとつは牛乳よ、二つ目に入れたのはゴートミルク』
『山羊のお乳なの?』
彩は驚いて目を見張った。
『そうよこれ、父直伝のインドのチャイの作りかたなの、グレートブリテンのお茶と違って作る行程がちょっと野趣でしょう?
それに物凄くシンプル、粗野なくらいシンプル、素っ気ないくらいシンプル、
でもそこがたまらない魅力なの、
チャイは野趣でシンプルじゃなきゃ美味しくないわ、
日本のカフェなんかで出されるチャイは、あんなのみんな日本人が後でゴテゴテ造り足したオシャレなチャイ風のフェイクよ』
『そうなんだ…確かに東京のカフェで飲むチャイはどことなく名前はチャイでも、日本人が日本人向けにアレンジしたものなのかもしれない…ところでエミリーのお父様ってインドの方なの?』
『まさか、インドは魅力的だけど…そんな風に見える?』とエミリーは楽しむように笑った。
『いいえ、正直言って全然見えない』彩もエミリーを模倣するように肩を小さくすくめて思わず笑うと『だってエミリーはまるで童話の氷姫か、白雪姫みたいなんですもの、いかにも欧米って感じだわ』
『父はイギリス人よ、父は独身時代の若い時に世界中あちらこちらを転々と旅したの、旅先でいろんなものを見て学んだみたい、
これもそのうちのひとつよ、
崇高なる人マハトマ・ガンジーの国で知ったお茶の美味しい作り方』
エミリーは乳白色の頬に紅茶の湯気で薄薔薇色に頬を蒸気させながらミルクパンから直接ティーカップへとざっくばらんにチャイを注ぎ入れた。
『インドでは多分全部山羊のミルクなんでしょうけどね、牛はあちらでは神聖な動物だから…でも私達はゴートミルクだけじゃね、牛乳も入れなくちゃ淡白過ぎて…さぁどうぞ召し上がれ、熱いから気をつけて冷ましながら飲んでちょうだい』


『嬉しい、私あんなに手の込んだお茶を淹れるプロセスを見たの初めてだからなんだかとても感激しちゃった』
彩は遠慮せずにふぅふぅ息をかけて冷ましながらチャイを飲んだ。
『すすったっていいのよ、私は半分日本人なんだから日本茶のように飲んでちょうだい』
彩のいかにも熱そうなおっかなびっくりの飲み方を見兼ねてエミリーは言った。
“ハーフだったんだ…”と彩は内心納得しながら『すすって飲んだほうが美味しそうね』と言った。
『そうよ、好きにしたらいいのよ、お行儀よくしなくて構わないわよ、チャイでもあるしインドの人は熱いチャイをソーサーに注いでフゥフゥ息をかけて冷ましながらそのままソーサーから飲むそうよ、少なくともイギリス式で飲む必要なんて無いわ』
彩はチャイの味に感動して
『わぁ甘くてリッチで凄く美味しい!
二種類のミルクの味もどっしりと存在感があって…これ、まるで飲むミルク・キャラメルかパンケーキかシュークリームかキャンディケーキか、後は…そうね、モンブランみたい、兎に角まるで飲んでいるけど凄く豊潤な砂糖菓子でも食べてるみたいだわ、お茶というよりまるで『食べる飲みもの』ね、
重厚でしっかりとコクとボリュームがあって、これだけでなんだかおやつを食べたみたいに充分にお腹が満たされそうだわ』
『今の素敵な言葉で私なんだか大好きな童話を思い出した』
『童話?どんな童話?』
『不思議の国のアリス、
アリスはラビットホールに落っこちて不思議の国に迷い込んだけど、
至るところで“私をお食べ”や“私をお飲み”ってラベルの貼ってある小瓶を見つけるの、知ってる?それを食べたり飲んだりしたらアリスの身体が巨人みたいに大きくなったり、小人みたいに縮んでしまったり、果てには虫みたいに小さく小さくなってしまったり』


『覚えてる!覚えてる!首だけがろくろっ首みたいにウネウネ伸びて、鳩に蛇と間違えられて“卵を狙ってる”って怒られるのよね』


『そうそうあれ可笑しかったわよね』エミリーは美しい歯並びを見せて清々しい笑顔を見せると『その私をお飲みって書いた飲み物を飲むと、凄く美味しくてアリスはこう思うの、“それはサクランボ入りのパイとカスタードとパイナップルと焼き七面鳥とキャラメルと出来立てのバタートーストを混ぜ合わせたような味だ”って』『え?そうなの?そうだったかしら、凄いわねエミリーは、そんな緻密なディテールまで記憶しているの?とても繊細なのね、私みたいな凡人にはちょっと考えられないわ』『あらご謙遜、彩が話す言葉には音があるわ、音符がね、“彩”だから色も感じる、どれも普通じゃないわ』
『…』
彩は何かは解らぬまま自分を見透かされたような気がして言葉が返せなくなった。


しかしそれにも頓着しないエミリーは独りで喋り始めた。
まるでずっと人と逢ったことが無く、人間の言葉を何年も人間と交わしたことすらなく、久しぶりに人と口を聞いてそれ事態がもう嬉しくてならないかのように見えた。
そんなエミリーはまるで堰を切ったかのようにひたすらお喋りだった。
まるで長く森奥で隠遁生活をしていて数年ぶりに人間と逢った、とても孤絶し切った人のように。
『日本人はダイエットを気にして紅茶を美味しく飲む方法をまるで無視してるみたい、ミルクは入れてもお砂糖は入れない?』
エミリーは小さく肩をすくめて続けた。『ミルクティもチャイも甘味(かんみ)は絶対必要よ、甘くないミルクティなんてあり得ないわ』
『そうかもしれない、確かに美味しく飲食ってことが二の次になってしまうことは大人になると健康の為とか、美容の為とか、何かにつけて段々に増えてゆくのかも…子供の時は甘いココアもミルクティも当たり前だったけど今じゃブラックの珈琲やミネラルウォーターばかり飲んでいるし』
『美味しいって感じることは心の栄養になるものよ、健康に留意することも勿論大切なことだけど…
時にはうんと甘いものもいいんじゃないかしら、
スコーンもいかが?こちらは甘さ控え目なの』
出されたスコーンはおおぶりで、重量感があった。
ずっしりと身の詰まった盛り土のようにその表面はゴツゴツとして、それでいてこんもりと心地好く隆起していた。
程よくしっとりとバターリッチな内側とは裏腹に、その渇いた表面が弾けたようにひび割れた、見るからに武骨なものだった。


『ごめんなさいねうっかり生クリームもジャムも切らしているの、でも多分チャイがしっかり甘いからスコーンはこれだけでも充分かも』
彩は正直、チャイだけで充分な感じがした。
が、エミリーへの礼儀として一応スコーンに手を伸ばした。
ひとつだけと思って食べ始めると彩は思いがけない、忘れていた久しぶりの空腹を感じた。ぐぅと小さく胃が鳴り彼女は気がつくとスコーンを三つも平らげていた。
三つ目に手を伸ばす時エミリーは彼女の食欲を喜んで、二杯目のチャイをカップに注いだ。

(To be continued…)

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