オレンジのマーガレット

小説『エミリーキャット』第17章・真夜中に咲くマーガレット

彩は食べながらふとキッチンの床にある非常にオールドファッションなペールグリーンの石油ストーブを見つけて、思わず囁く必要も無いのにこう囁いた 。
『このストーブ、イギリス製のアラジンのブルーフレームね、懐かしいわ…』


『そうね、よく似てるけどこれ実はそんなにいいものじゃないのよ、ブルーフレームは金属の上蓋の打ち抜きの型がもっとシンプルで小さいけれど、これは打ち抜きの熱気を逃がす孔(あな)にいかにもメイド・イン・ジャパンらしい繊細な細工というか、さりげないのにとても素敵なデザイン製があって…
だから…彩、ちょっと天井を見ててね』
と言ってエミリーは立ち上がるとキッチンの灯りを消した。
と同時に『あっ』と彩は小さく声を上げた。
ストーブの打ち抜きの孔により天井にまるで静止した花火のようなストーブの焔による明るい影絵ならぬ燈絵が大きく咲き誇っていた。
円を真ん中にひとつ、それを花芯になぞらえるように中心に据え置いて、後はさながら花びらのような細長い涙型の孔がバランスよく整然と円の周りを取り巻いていた。その為、キッチンの高くて暗い天井には柑子(こうじ)色の見るからに暖かみのある一輪の大きなマーガレットの花が咲き誇っているのが、彩の胸を打った。
『じゃあ…あれブルーフレームじゃなかったのかしら…』
彩は思わずまるで私語(ささめごと)めいて言った。
『私が幼い頃、施設で見たのもこれと同じ花だったわ…天井に咲いた大きなマーガレットの微かに揺らぐような焔の花…』


『彩、施設に居たの?』『ええ…でもあのストーブずっとアラジンのだと思っていたのにそうじゃなかったのかしら、施設だけじゃなくて私、色んな家庭に転々と預けられていたから…私の記憶が混じりあって曖昧になってしまっているだけなのかもしれないわ、苦しくて悲しくて、覚えているだけでも辛いことが沢山あって…ブルーフレームって記憶も何もかもが無数の記憶が私の中に今も癒えない傷口を無視して氾濫してしまっていて…でも…はっきりと覚えているの、
この暗い天井に咲くオレンジ色の焔の花だけは…』
彩はなんの自覚も前触れもなく頬を自分の泪が伝い落ちるのを感じて驚いた。
急いで泪を拭う彩の傍にエミリーが椅子を寄せて寄り添った。
ニャア…クリスが上手にドアを開けてキッチンへと入ってきた。
『おいで』と囁くように呼ぶエミリーの膝に飛び乗ったクリスを、寄り添った二人の女達はまるで酷く大切な宝物のように代わる代わる撫でながら、無言のままいつまでもその天井に咲く花を見つめて寄り添い続けた。
彩の肩を無言で抱き寄せたエミリーの首筋に彩は黙って顔を伏せそのセーターの首筋を泪で濡らした。
何故自分がこんなにも他人に抵抗なく素直になれるのかを彩は不思議に思った。
エミリーは彩の小さな頭を自分の顎の下に置くと彼女の髪をそっと撫でながら言った。
『その花が彩にとっては彩の心の中だけに生きるお母さんだったのかも…。
だから彩は今も血が流れ続けている報われなかった過去も、そして今も尚…心の中で他の人達のように自分の味方となって彩を庇ってくれたり、時にはひどい真似をする相手には強力な掩護射撃も厭わない、
そんな家族や母親を求め続けているのよ。
悔しくて悲しくてたまらなかったことも誰にも何も云えずに自分の中だけに封じ込めてきたんですものね、
誰からも労(ねぎら)われることの無かった気の遠くなるほどの痛みと心細さとも貴女は独りぽっちで闘ってきたし、それは何も大人になってからばかりではなくて、子供時代からそういった環境や経験はずっと続いていて…
今だってきっとそれはさして変わらない…、
だけど天井に咲いたあの花だけは、違っていた…。
あの花は彩の心の中でずっと暖かく咲き続けて決っして枯れることがなかった。
そして彩の中にある暗闇を照らし続けてきたんだわ…。
彩はそれを知っていたから心の奥底でそのことを忘れずにずっとずっと…あの花が消えないように、
枯れないようにと守り続けてきたのね…。


傷だらけになりながら、息も絶え絶えになりながら、貴女はずっとずっと何年間も幼い頃から闘ってきた…。
孤絶の極みでね…
でも周りは口先だけ大きくて、
言うことはさも清潔な正論で、その実、自分さえよければ後は野となれ山となれみたいな無責任な輩や環境しか出逢ったことが無かった…。
そんな中で一体どんな人なのか、
顔も身元も解らない母親を時には月を見て、時には花に、その面影や声を求めて涙するのも誰にも言えない自然なことだったのよ、
淋しい少女を宿したまま大人になった貴女はあの焔の花をずっと胸の奥で抱き締めてきたんだわ、
でもそれはね、
寂しい自分を抱き締めるのと同じだったのよ…きっと…』


慄然(りつぜん)と彩はエミリーを見上げたがエミリーが彩の髪を撫でながらやがて彩の肩を固く抱き寄せてしまうと何もかもがどうでもよくなってしまうような気がした。
ただ泪が彩の頬を次々と止めどなく伝い落ち二人の突き合わせた膝の上で組んだ互いの手の甲の上にそれはいつしか小さな小さな焔色の水溜りを作った。

 
彩は天井に揺れる灯影が作るオレンジ色の花を泪を一杯に溜めた瞳でいつまでもいつまでも飽かず見つめ続けた。

(To be continued…)

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