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小説『エミリーキャット』第18章 ドリーム・アフター・ドリーム

彩は再び目が覚めた。
自分が何故まるで意識を失うように、いつの間にか眠ってしまっているのかが解らなくて不安が昂じたが、自分がエミリーの膝枕で目覚めたことを理解して、安堵した。

『よほど疲れていたのね...
可愛そうに...』
エミリーの暖かい心地好い手が彩の躰を優しく摩(さす)る感触に、彩は十何年と遠く無縁だった深い平安と安堵とに思わず眠りに陥りそうになった。
天井には変わらずあの柑子(こうじ)色のマーガレットが、幽かに揺れながら昏(くら)く高い天井に在った。
彩の身体にはいつの間にか毛布が掛けられ、彩は自分がまるで生まれて初めて守られているかのような錯覚を覚えそうになった。
『...エミリー...私...ごめんなさい...』
涙が目尻を伝い耳の上から髪の中へと、とめどなく流れ落ちるのを彩は止めることが出来なかった。
『謝らなくてもいいのよ彩、ゆっくり休んで』
『でも私...何故ここへ来たのか...来れたのか...よく解らないの...でも...』
長い沈黙ののち、彩が嗚咽を必死で耐える、さながらバイオリンの弦のような息づかいと震えとが、暖まり切ったダイニングキッチンの空気を幽かに幽かに揺るがした。

『彩、そんなに耐えなくてもいいのよ。泣きなさい』
堰を切ったように、彩はエミリーの膝に顔を伏せて肩を震わせ号泣した。
と同時に高い天井に在るオレンジ色のマーガレットも風に吹かれるかのようにそよぎ、やがて
昏(くら)い天井全体に棚引くかの如く大きく揺らぎ始めた。
暖まり切った空気も天井も壁すらも呼吸するかのように脈打ち、やがてまるで巨きな楽器のように室(へや)全体が鳴動するのを泣きながら彩は感じ、こう思った。
まるで子宮の中に居るようだ、と…。

どれだけ時間が経ったのであろう。
再び目覚めた時には彩は、すっきりとしていた。
『私ったらごめんなさい...
初めて逢った人にこんなに迷惑をかけてしまって...』
『迷惑じゃないわ、彩が来てくれてどんなに嬉しいか...』
彩はふと中指でパジャマの袖を押し上げると腕時計を見て、既に丑三つ時になっていることに驚愕し『私帰らないと!こんなに長居していただなんて』
と、今までを忘れたかのように悲鳴のような声を上げた。
『このまま泊っていってもいいのよ』『いいえ、そんな...もう私帰らなくちゃ』

彩はエミリーの膝枕から眩暈(めまい)を圧して、無理矢理起き上がったが、起き上がってみると意外な程気分は快くなっていた。
『でもバスはもう無いわね...タクシー...来てくれるかしら...』
『大丈夫よ、帰る前にお茶を一杯、飲んで落ち着いてから帰るといいわ。
深夜でも大丈夫な馴染みのタクシーを私が呼んであげるから心配しないで』
『エミリー...私...あぁ...ごめんなさい』
思わず顔を覆った彩を、エミリーは強く抱きしめて言った。
『もう何も心配しないで、とにかくお茶を一杯飲んで帰りなさい』
エミリーの云う『お茶』は今度はハーブティーだった。カモミールティーに仄(ほの)かに蜂蜜の甘さがあった。
ティーカップを両手で包み込みながら彩は問うた。『クリスくんは何処へ行ったの?』
『いつのまにか何処かへ行ったみたい』エミリーは、ため息のような笑いを漏らすと『ロイのとこへでも行ったんじゃないかしら』
『ロイくんにも逢いたかったわ』
と彩は芯からそう言った。


ロイとこの家の外で初めて逢った時、硝子のドアーを開けろとあのまるで命じるかのような態度でロイが自分に向かって鳴かなかったら、
果たして彩はこの館に入ることが出来ただろうか?外からただ見とれていただけで中まで入る勇気など持てなかった筈だ。


ロイが大きな切っ掛けを作ってくれたような気が彩にはした。
彩はその時のことを思い出し、宙に視線を漂わせてしみじみと言った。
『ロイくんは一番最初に逢ってるの、多分あれはロイくんよ』
『声が低かったらロイだと思う』
『低かったわ、ぶにゃあぁって!』
と彩 はロイの不機嫌そうな鳴き真似をした。
彩のロイの鳴き真似は決して似てはいなかったが、どこか生真面目な少女が一生懸命、猫になり切って姉に再現して見せているかのような真剣さがあり、エミリーはそれが愉しくて身をよじって笑った。
笑った時に貌(かお)に乱れ落ちた長い髪を細長いどこか青年じみた、象(かたち)の指で掬うと耳に掛けて彼女は言った。


『ロイってまるで押し潰されたみたいな声でいつも凄く不機嫌そうに鳴くの、
でも本当に不機嫌なわけじゃないのよ、
もともとああいう声と態度なの、さも横柄そうだから身体も大きいけど態度も大きい猫ですねだなんて言う人も居るくらい、
でも本当はとても優しい子なのよ。
賢くて思慮深くて自分より弱いものには寛容なとこもあるわ、
それに勇敢だしね、
そりゃあクリスと違って社交性には欠けるかもしれないけど何度も逢っているうちに段々心を開いてくれるようになるわ、
ロイは私以外の他人に馴れるのは時間が少しかかるの、
だけど彼は人を見る目があるから彩とはきっとすぐに打ち解けると思うわ、
そしたらどんなにロイが魅力的な猫か彩にも絶対解るから、』
『…何度も…逢っているうちに?』
『そうよだって彩、また来てくれるでしょう?』
エミリーはまるでそのことが当然かのように言った。
彩は一瞬答えるタイミングを、さながら新鮮な食べ物を決してクリーンとはいえない状態の床に落としてしまったかのような一抹の喪失感と共に失った。
そこで仕方無く考えた。
下手な考え休むに似たりとは云うが、大人の世界の住人はいろんな類いの責任もある、後々起こるかもしれない、また不安定になるやもしれない出来事に対してきちんとした対処が出来ずに、途中下車することは不誠実になる場合もある。
だからこそ、考えないわけにはゆかないのだ。
彩はまたここへ来たいのも、エミリーに逢いたいのも、彩の中でそれは火を見るより明らかなのだが、一瞬の答えるべき、すぐさまの生きたタイミングを失うと、人は何故だかその言葉を咄嗟に飲み込んでしまい、答えられなくなってしまう。
何故ならそのタイミング自体がもう答えなのだ。
タイミングこそ問いであり答えであり会話でもあり、『声』でもあり『その人自身』なのだ。
そのタイミングを逃すと、言葉は一度齧った林檎のように同じ林檎である現実を、そのままにみるみる色褪せてゆく。
さながらプラスチックのように堅牢な話頭だけそのまま置き去りにして、僅かな温度差であってもその中身は不本意なまでに変色、変質していってしまい、新鮮さも伝えたかった温度も真意もスピードも空気と一緒に飲み下されて、胃酸で溶けて最初の意味や心情も全く違うものになってしまう。
飲み込まれて胃酸で溶かされるのは、何も食べ物だけじゃない。
言葉だってそうだ。
本当に答えたかった言葉を思わず飲み込んでしまった後から沸いてきた次なる言葉は、何故かいつも最初に伝えたかったことを糊塗するようなものばかりで、人々を小さく失望させるような水増しされてその本質が一体なんであったのかよく解らなくなってしまったような空疎な詭弁のような中身でしかなくなってしまう。
『もう来られないと思うわ』
と彩は心とは裏腹な常識的反応を云いかけた。が、彩のその僅かな僅かなタイムロスを、エミリーの言葉が彩の中に、ソーダ水の中に泡立ち沸き上がる微細な水泡にも似た様々な期待や不安や色とりどりの感情が、瞬時に『小さな失望』に慣れた社会人らしく彩の中でそれらが落ち着き、やがては生ぬるい澱のように沈澱しようと鎮まりかけていた。

その時だ、エミリ―の思いもかけない言葉がいきなり冷たい銀のマドラーのように投入され彩の内部を掻き立てた。
それは彩の鎮まりかけて最初の気持ちとは、すっかり違うものになろうとしているのを止めてしまう行為だった。
止めたというよりそれ以上にまで事態の鮮度を上げてしまったのだ。


『彩が初めて我が家に来てくれた時私、花影からそっと貴女を見てこう思ったわ
‘’森で迷子になったのかしら、なんて可愛いバンビがうちへ迷い来んで来てくれたのかしら''って』
『バンビ?』
うつむき加減にエミリーから視線をずらせていた彩は、思わず顔を上げて問うた。『ええこの牝鹿はとても綺麗だけどなんだか怯えてどこか傷ついている、でもそれを隠して、隠して生きてきた、だけどもう隠し切れずに助けを求めてやってきたのかもしれないって』
『……』
『だからもう少しとどまっていて欲しくって、その可憐な牝鹿に私は一杯のお茶を飛びっきりのカップに淹れてその労をねぎらい、もてなそうとしたのだけど…』
彩はエミリーを見つめたまま固唾を飲むかのように、その言葉の続きを待った。
『愛くるしいその牝鹿は多分食器に対して目利きなのかもしれないわ、カップには一瞬目を奪われたようだったけど…ますます怯えてうちから森の奥の暗闇へと飛んで逃げてしまったの』
彩は少し震える指先で思わず自分の唇に触れると迷いがちな瞳でエミリーを見てこう言った。
『ねぇエミリー?貴女、今の会話のフレーズの中で…そのう…可愛いとか綺麗とか…しかもとても綺麗だとか、可憐なとか愛くるしいとか…貴女私に一体何回言ってくれた?』
『さぁいちいち数えてないから解らないけど彩が美しいのは本当のことよ』
『いやだわ私、こんなに誉められたこと今までの人生で初めてだからどう反応していいんだか…なんだか恥ずかしい』
彩はそう言って色白の頬を赤らめたが、どうしても自分でも莫迦なんじゃないのかと思うほど態度も顔も何もかもクネクネと微酔したかのように、正直に悦びを表してしまうのを彩は止めることも出来ず、また止める気がしなかった。
『ねぇ彩、美しいと言われたらただありがとうと云えばいいのよ
そんなことないですとか、でももう若くないからとか日本人は必ず謙遜するけど
私は素直に受け取ってありがとうって喜べばそれでいいと思う』
彩はクネクネと髪をエミリーの真似をするかのように、指で掬って耳に掛けたり肩を一方だけ吊り上げてその耳を肩先にくっつけてみたりしていたが、その言葉を聴いてふっと我に返り急にエミリーをじっと見た。
何故だか一瞬緊張した彩はこう言った。
『ありがとうエミリー』
『You’re welcome 彩』
『…』
彩はもう緊張などしていなかった。
零(こぼ)れるような微笑みがただ泉のように湧いてくる。私、またここに来たい、
来てエミリーとこうしてふたりで過ごしたい、
彩 はそう思ったが同時にそれが言葉となっていつの間にか出ていることに気づかなかった。
『ありがとう彩!!
こちらこそありがとう!
じゃまた来てくれるのね?嬉しいわ』
そう言ってエミリーが自分を抱き締めた瞬間、全てを遅れて理解した彩はまるで魔法にかかったみたいだと思った。


不思議な多幸感に包まれて、彩はまたエミリーのタートルネックに包まれた水鳥のように長く優美な首筋に、涙をこぼしそうになったが、はたと気がつくと既にエミリーはキッチンに立つ後ろ姿と化していて彩はまた夢から覚めたような奇妙な感覚を味わった。
だがそれと同時に彩の目の前に次の瞬間差し出された見覚えのあるティーカップから漂う甘い薫りに彩は一瞬、波立ちかけた不安感がたちまち凪いで穏やかになるのを感じた。
『はいエミリー特製のハーブティーよ、
蜂蜜をちょっぴり入れたからほんのり遠くに甘さを感じるかも』

エミリーの言う通りだった。
カモミールティーだが、彩がよく寝しなに飲むカモミールティーよりずっと深みがあり口に含んだ時に感じるコクと優しい甘さは飲み込むと同時に暖められたどこかパウダリーな花蜜の薫りと甘味とが一体となり、彩の口の中を一杯にし、やがて鼻腔に抜けて花の薫りは余韻となって数秒残った。『今夜は彩の体調に合わせてピンクの花を選んだの』
『えっ?』
『ピンクの薔薇から採れた蜜を入れたお茶よ』
『そうなの?』
何故か彩は浮き浮きと問うた。
『気分や体調によって薔薇の蜜は色を変えて使うの、彩は今夜はピンクがいいわ、そのほうがきっとよく眠れるし、不安感から解放されると思うから』
『本当にいい匂い…ああなんだか淡いピンクの薔薇の花びらに身体中、包まれているみたい、…ふんわりしていい気持ち』

『ええだって実は蜂蜜だけが隠し味じゃないの、
こっそりほんのりブランデーをカクテルしといたから』
『ええっそうなの!?
おかしいわね、全然お酒を感じなかったわ、それに私
ハーブティーにほんのりブランデーを垂らしたくらいじゃ少しも酔わないくらいお酒には強いんだけどこれはなんだか…』
と眠くなってきた彩は思わず瞼を閉じかかって言った。
『とても…眠気を誘引されるというか…』
『でしょう?
だから今夜の彩はぐっすりよ、もちろん怖い夢も見ないわ』
『怖い夢…何故知っているの?』と聴きかけた時、彩の額にエミリーが音を立ててキスをした。
その感触を彩はまるで肌で美味しいものを食べたような感覚になって、思わず目を閉じたまま幸せそうに屈託無く笑った。
『くすぐったい』
するとエミリーの声が今度は何故か遠くから響いてくるように聴こえた。
その声はどこか深い哀しみをたたえていて切なげで、ひたすら一心に請い願うかのようで、今までのエミリーとは違う脆弱さを彩は何故か強く感じた。
『彩、また来てね、
ロイもクリスも私と一緒に貴女をここで待っているから…。
私が彩を待っていること、どんなに彩が忙しくてもどうか忘れないで、
またきっと来てね、
きっとよ
きっとよ
どうかお願い
私を忘れないで、
忘れないで彩、
私は貴女を待っている、
ずっと、
ずっと待っているわ』

彩は瞳を閉じたまま、酔ってヘラヘラと笑いながら答えた。
『ええ約束する、絶対来るわ、だって私、来たいの、
またエミリーに逢いたいんですもの、
エミリーを忘れられるはずがないわ、
だってエミリーのような素敵な人に出逢ったの私、生まれて初めてなんだもの、
私、貴女に惹かれているし、魅了されてしまったんだと思うわ、
エミリーはきっと魔法が使えるのねだって私、
いつもならこんなに思ったことを素直に言えたりしないのよ、
素直になる、自分に正直でいられるって小さな子供の時以来だわ、
ずっと自分に嘘をついて自分を殺して心に蓋をして生きてきたの、
だから…あぁ…今夜はなんて素敵なのかしら、
まるで解き放たれたみたいよ、
エミリー、貴女のお陰ね、私、貴女が大好きになってしまったわ…
やだわ私ったら
今夜は本当にどうかしてるのね、こんなこと言ったりして…あぁなんだか恥ずかしいな』
『恥ずかしい?』
『ええ』
と笑いながらふと彩は目を閉じたまま異変を感じた。急にエミリーの声が変わったような気がしたからだ。目を閉じたまま彩は身を固くして、辺りの気配を感じようとした。
カッチカッチカッチカッチと規則正しい奇妙な音がする。
奇妙と感じるのはエミリーの家に居るからなのだが、彩にとってはそれは割りと日常的に耳慣れた音でもあった。
背凭(もた)れしている革のシートの感触と特有の匂いがますます彩を困惑させた。
『恥ずかしいなんて言葉、酔ったオネエチャンから、めんこく言われちゃったりしたらなんだかおじさん、こっちまでちょっぴり恥ずかしくなってきちゃうべ?』
『!?』
瞳を驚愕の余り、大きく見開いた彩の眼前に拡がるのは狭いタクシーの中だった。
『…ウソ!』
彩は驚愕のあまり見開いた瞳を閉じることが出来なくなった。
運転手の人懐っこい声には聴き覚えがあった。おまけに東北の訛りがある。
まさか…と彩はシートの上でフリーズしたまま思った。
すると運転手は運転席から後部座席に向かってぐいと上半身を大きく反らして振り返ると、満面の笑みを見せてこう言った。
『オネエチャンまた逢ったな!?
エミリーさんに頼まれてるから、
なぁも心配いらねぇだ、おらがちゃあんとオネエチャンの家まで無事、送り届けて上げるべさ!』
『…エ、エミリーに…頼まれた?』
『んだぁ、エミリーさんたっての頼みだからオネエチャンからはお金もおら取らね!』
『…』彩は奇妙なことばかりが起きる夜に変ではあったが少し慣れてきていた。
『…運転手さん病院の前で私を乗せてくれた人よね?』
『んだぁ、おんなじオヤジだべした、よぉく解ったな?』
解らないわけないだろう??と彩は思った。
『さぁこれからオネエチャンの棲む世界へおらがきっちり帰してやっから、
暫しの見納めにこの世界も車の窓から楽しんでゆくがいいぞ』


固まったままの彩を乗せたタクシーは砕氷のような小雨が虹色に光輝きながら降る赤紫の濃霧立ち込める闇路を、僅かに一瞬ふわりと宙に浮き上がると、そのまま滑るように走り去って行った。

(To be continued...)

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