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小説『エミリーキャット』第34章・マジック

食事が終わって彩は通された2階のゲストルームの浴槽に浸かり天井を眺めたまま、ぼんやりとしていた。
でも頭の中にはいろんな考えが次々と芽ぐみ出すのを止められなかった。


こんなことが自分の人生に起きるだなんて今まで考えたことがあっただろうか?と彩は思った。
エミリーと出逢うこと事態全く想像だにしていなかった。
‘’森の中に棲む人”だなんて童話ではあり得ても、現実でそんなことは絶対に無いと決めつけていたし、
増してや日本で、そんなライフ・スタイルを持つ人と出逢い、しかも出逢うだけではなくこんなにも親密になるだなんて…。
しかもただの親密ではない。
ふたりはもう恋仲である。
その上、女同士だ。
彩はこんなことは初めてであり、
もっと自分に衝撃や戸惑い、疑問や軋轢など感じたとしてもおかしくない筈なのに不思議とエミリーと居ると、
むしろ気持ちが安らいだ。
弾むような恋心ももちろんあるが、それ以上にエミリーが自分を誰よりも求めてくれていること、必要としてくれていること、自分に寄せてくれている信頼を感じられるのが、嬉しいからなのかもしれない。
その信頼や自分をかけがえがなく唯一無二に必要としてくれている気持ちを簡単には無下にしたくないし、出来ない約束や安易で無神経な言動で失望させたくもない。
信頼されているからこそ、自分もまたそれを感じて安堵が出来るのだからその気持ちを傷つける不用意で軽率なことはしたくはない。
とはいってもお互いの間に秘密が無いわけでは無論無い、だがそれもいずれは自然と分かち合える時が来ることは彩はなんの証左も無く確信していた。
何故そんな強い確信が自分の中にあるのか解らなかった。
でもそれは彩の中に根をおろし、
しっかりと在るのだ。


分かち合い、信頼され、自分も信じている、そして何よりも必要とされているし、自分もまた必要だ、
言葉にすれば簡単だが、
そこに支配が無いことが実は一番、簡単ではない。
たとえ安泰であったとしても、支配はされたくないと彩は常日頃から思っていた。
そして自分もまた支配といったマウントじみた関係性に頼らずとも、
無論、エミリーの力にはなるし、
それに関しては絶対に安心してもらいたいと彩は思った。
そして自分もまたそういう稀有な安堵が求めずとも自然と発生し、それに浴することが出来ればどんなによいだろう


…と彩は猫足の付いた白い陶器のバスタブの中で、長々と寝そべりながら思った。
‘’わずか数ヶ月前の私はただただ毎日が憂鬱で、でも忙しさにかまけて自分の人生を見つめる余裕なんて全く無くて…
婚約していても幸せなんだかそうではないのか…
自分のことではないかのようにどこかいつも心は渇いていて…
そんな渇きのあることがとても悲しかった…


こんな渇いた女は本当に人を愛することも、愛されることも、もう真には無いのではないかしら?と彼女はよく思った。
純粋な、とか優しい、とかいう言葉を周りの人々はよく簡単に使う。
それに対して彩は口に出して何か言う訳では無かったが、純粋な、等と一体何を指してそう言っているのかよく解らなかったし、たとえ子供でも純粋なんてあり得ない、と思っていた。
彩は自分の子供時代の頃をよく覚えていたが子供は残酷だし、良い意味でも悪い意味でも強(したた)かだ。
だが周りの沢山の子供達の打算的で立ち回りの巧いことや、それ故の愛され上手も大人達からは癒し系などと呼ばれ、不器用な子供達は逆に大切にされなかった。
そういった意味では幼い頃から生きることにいち早く大人並みの技巧を身につけた子供達は、それを存分に活かすセンスにも生まれつき長けていた。
確かに癒し系であったとしてもそこにその技巧が働いていたとしたら、それは機知があり敏くはあっても少なくとも純粋では決して無いと彩は幼な心に感じていた。
人間はある程度成長するとその過程において生きてゆく為のあらゆるプラスになるか
マイナスになるかの損得勘定を身をもって覚えてゆく。


それは狡猾になってゆくと同時に、生きる上で絶対必要なスキルでもあるのだから悪いこととばかりは言い切れない。それどころかむしろ当然の発露なのだから否定すべきものではない。
狡猾さがスキルアップに増し加えられたとしても、それは生理現象と同じくらい自然なことでもあるのだ。大人は尚更である。
頭ではよく解っている積もりなのに彩は時にどうしようもなく虚しくなることがあった。


そのことに''キツい虚しさ"を感じずに済む巧みな人々と一体どう接したらいいのか彩は時々解らなくなる。
会社でもプライベートでもそうだった。
そんな時、彩は失声症になり筆談していた時を思い出す時があった。
筆談そのものが辛く、手指が疲れるのでと詭弁を盾に彩は医師とも真哉とも必要最小限のやりとりしかせず、後はただニコニコ笑っているだけに徹した。
すると医師も真哉も『手術やその後の鬱で失声症にはなってしまったものの、当人のストレスはそれほどでもなく最初は葛藤も見られたが、
今はむしろ良好なくらいだ』
と見なしてしまった。
彩が実はとても苦しんでいると気がつく人は一人もおらず、それは真哉ですらもそうだった。
彩は仮面化してしまった笑顔の下で『本当は辛いのではないか?
まだ苦しんでいるのではないのか?』などと思弁を巡らせればキリが無いから、彼らは苦しんでいる彩の為にではなく彼らの楽さの為に、そう思うことにしたのだと密かに思った。
メンタルクリニックの医師は『最近大人しくなったね、私に抗弁しなくなった』と上機嫌で、真哉は『笑顔が多くなって元気になってよかった、後は失声症さえ治ればいいだけだね』と言い、それ以上を何も聴こうとはせず『みんなこのままにしてしまいたいのよ、それは私の為じゃなくて貴方達にとって都合がいいからでしょう?メンドクサクないほうが誰だっていいものね』
と彩は心の中では毒づいてはいたが
医師にもそれ以外の医療スタッフにも真哉にすら暗黒の胸の内、自死を思い詰めながらもそれを尾首(おくび)にも出すことはなかった。
その後、彩は"公園のベンチ事件''が起こり生死を彷徨うことになったが退院してからも、彩の仮面癖は治らなかった。
以降、彼女は笑顔という仮面の下、真哉にも紅美子にも誰一人、真実をその僅かな切れ端すら話さなくなった。彩はよく思った。
私の仮面はもはや仮面なんかじゃない、生きてゆく為に人は多かれ少なかれ仮面を被るというが、程度差があるのではないか。
私の仮面はいつの間にか血肉となりもはや仮面ではなくなってしまった…。
しかしそう諦観しながらも、彩はそのことが途轍もなく悲しかった。


これも技巧なのだ、カメレオンや昆虫の擬態のようなものなのだ、
人間だって擬態するのだから…と彩は思い、
それでよいのだ、お陰で周りに迷惑をかけなくて済むのだから、としながらもやはり誰かに心の内をそっと打ち明けたかった。
打ち明けるだけでなく共感してもらいたかった。
ただひたすらに笑顔と『大丈夫』
しか言わぬ彩は次第に失声症にもなり、円型脱毛症にもなりながら真哉からも医師からも、『本当に''大丈夫"なのか?』との言葉はとうとう聴かれなかった。
やがて『彼女は優しいから鬱や失声症になった』とされ、彩は抗いたい気持ちに更に耐え、笑顔が増すのとは裏腹に病いは水面下で悪化していった。
優しいという言葉は安易に使われるが、その言葉通りの場合もあれば、全く的外れな時にそれを糊塗する為の便利な言葉としても乱用されることもある。
だが『そんな人々』に向かって、『そんな人々』があの人は純粋ね、とか優しいわね、善良ね、といった言葉しか持たないことを彩は内心、薄く軽蔑していた。
優しい?
そんな人は居ないし、ある意味で優しく感じられたとしてもそれはすぐに消え失せ変質する、安物の発泡酒の中の泡のようなもので、三日と長続きするようなものではない。
優しさなんてこれほどいい加減で稀薄な言葉は無いし、あっても言葉だけがポケットティッシュさながらに気安く分配され、残酷なくらい乱用されているだけだ。
お陰でこの世の中はいい人だとか純粋な、とか親切なとかいう言葉と同じくらい優しさというどこか曖昧な概念にも溢れ返っている。
そしてその優しさは時として上から目線で附与されるものであり、
教え、諭そうとするかの如く、施そうとする側の桁違いな勘違いから生まれる食傷するほど押しつけがましいものでもある。
それらは大抵の場合、他者の為というよりは自身が気持ちよくなる為にしていることでしかなく、傍迷惑な自己満足だったりもする。
だがそのような人々はあくまでもそのことへの自覚は一生無い。
そうあることがそういった人々の脆い生き甲斐だからだ。
先生と呼ばれたり、いやいやそうではないと謙遜しつつも満更ではなく教祖のように何故だかなってしまっているような心の寒い輩はどこにでも腐るほど居る。
さながら『ごっこ遊び』の如く、
みだりに、また無駄に使われる優しさや親切もそういった輩と同じくらい恐らく山ほど世の中には溢れている。
まるで一年中どこでもかしこでも『店じまいセール』をしている店のように『優しさ』『善い人』だなんだという言葉は常に大安売りされている。
だから世の中は‘’優しい人々”や''善い人"だらけだ。
そこには不言実行や人知れず行われるものは無い。
その癖その優しさだのなんだのというしろものには常にフラジールの表示が貼付されている。
いとも簡単に壊れるものだからだ。
そして瞬時に色褪せ、変質するものでもある。
少なくとも血縁や家族間ではいとも簡単に変質とはゆかないとしても、それらの背景を全く持たない人間にとってはフラジールの優しさや善意などかえって受けるのが恐ろしいほど移ろいやすく、不誠実の極みへと真逆のベクトルへ向かって終わることもあるのだから要心が必要だ。
無論、大安売りの優しさや親切やいろんなものをばら撒かれて、それが偶然とても有り難い結末を招くことだってある。
だが、そのほとんどは真には相手の為にではなく自分を満足させたり、仕方無く義務的に行われるものであり、その為に表とは違って、決して美しくはない裏表紙が後から露呈してしまうのを彩は幾度となく見てきた。
『お身内が全くいらっしゃらないんですってね?
管理人さんから聴いたわ、
天涯孤独でいらっしゃるようだって、
困ったことがあったらいつでもなんでも言ってね、同じマンションのよしみでもあるし、困った時はお互い様って言うじゃない?
出来るだけ力になりたいと思ってるの、だから本当に困った時は、独りで我慢していないで、
遠慮なく助けを求めてね、勿論、私も出来る範囲でしか助けられないとは思うけど…。』
と、自ら電話番号を書いた紙を、彩とそう年端の変わらない人妻から、頼みもしないのに、
しっかと握らされたことが彩はあった。
家の中で倒れ、体調が酷く悪く、
高熱の為、どうしても薬を街の薬局へ取りに行けず、それを彩は当時まだ上郷と別れたばかりで慎哉や頼れる人も周りに居なかった為、いつもは仕方無く具合が良くなるまで耐え忍んでいたものの、ふとあの若妻の顔が当時の彩の心の隅に浮かんだ。
その若妻に電話で息も絶え絶えに、薬の受け取りを頼んだことがあった。
が、即断られ
『ごめんなさぁい、
困ったことがあればいつでもなんでも言ってねなんて言っちゃったけど、私も家族のことでいっぱいいっぱいなのよ、
だからああは言ったけどやっぱり、あれは撤回させて、
無かったことにしてもらえる?
独りでも大丈夫よ、世の中独りの人なんて幾らでも居るんだから負けないで頑張って、
じゃっ、そういうことだから。』


と明るく電話を打ち切られた時、
高熱で何日も家の中を這うようにして苦しんでいた彩は妙にネタネタとして熱い手でしっかりと手渡され、握らされたその夫人の電話番号を書いた紙を細かく粉微塵に引き千切りマンションの8階の窓から1階のその女性の住む家の庭に向かって撒き散らすように棄てたことがあった。
その時、8階のベランダから見た空が切り裂かれたような冷たい色をしていて、ふと彩は『凍て玻璃(いてはり)』という言葉が頭に浮かんで離れなかった。
まるで空が真冬の寒気に凍りついた窓硝子のように見えたからだ。
平素、使うわけでもないそんな日本の旧い季語が何故その時急に彩の脳裡に浮かんだのか、彩には解らなかったが以前本か何かで偶々読んで、記憶の隅に残っていたものなのだろう。
彩は空を見つめながら小声で『凍て玻璃…』と声に出して呟いてみた。
彩は今もそのことを痛みを伴って強記していた。


その女性でなくとも、たとえ誰かに何かをどうしてもやむを得ず頼み、それが叶えてもらえた場合も『ああして上げたのに』などと言うほとんど悪罵に近い言葉を全然関係の無いシチュエーションで後々人は発してしまうこともある。
場合によってはお金を貰ったわけでも無いのにボランティアでやってあげたのに、助けてやったのに、といった類いの言葉も石礫(いしつぶて)のように飛んでくることもある。
自ら提案して助力を呉れた場合でも『してやった、』
『やってあげた』
という醜悪な言葉はよく人間は身寄りの全く無い人間や事情により孤立無援に近い人間には平然と安易に使う。
彩にもし家族といった背景が僅かでもあったなら、そんな言動への家族からの反撃や苦情を怖れてやたら安易に言い棄てたりは出来ないはずだ
と彩は思った。
…こんなものだ。
むしろこんなことは人間は正常な範囲なのだからうっかり期待したり信じてはいけない、むしろ信じるほうが莫迦なのだから、と彩は思った。
私も優しいわけではないし、誰も皆、そうだ、それで構わない、
それを受け入れることは辛くても、諦めて生きることは出来るはずだ、
そう思って諦観の中で生きてきた。

そんな私の人生に突然エミリーは天災のように現れた。
お陰で優しいだなんて空疎で気味の悪い死斑の浮かんだ言葉を私は使いたくなってしまってきているし、
つい口をついて出たりもするようになってしまった。
全ては"エミリー・マジック''にかかってしまったからなのだ。


魔法だなんて子供の時には信じていたお伽噺の中でしか存在しない言葉が、彩の心の中でこの頃ではたびたび出てくるキーワードのひとつとなった。
そんな言葉すら忘却の彼方へ消えていた筈の今頃になって彩は本気で『魔法はあるのかもしれない』
と感じるようになっていた。
それはあまりにも自分が変わってゆくからだった。


もう一度、人を信じたくなり愛したいし愛されたくもある、それだけではない、
私は本気で愛するひとの助けになりたいのだ。口先だけで終わり、青写真だけで結局建たなかった家のような悲しい約束などもう信じることは無い。
人は悪意がたとえ無かったとしても夢想を語りまるでその時はそれが叶うかのような気持ちでいるのかもしれない。
だが彩は自分もまたそんな自分のままで人生を終わらせたくないと感じた。語るだけ語り、不完全燃焼のまま燻りながら生きるくらいなら消えて無くなりたいとすら思った。
一度でいいのだ。
本当に愛するひとの為に真実を問いたい、そして相手から問われたら、たとえ誤っていたとしても恥ずかしがらずに精一杯、応えたい。
それがそのひとの為になる小さな力の一端になればどれだけ私も幸せだろう、
だがそれがなかなか思うようにはすぐにはゆかなかったとしても、その時、あるいは後々『してやったのに』とまるで施(ほどこ)してやったのだと言わんばかりの他者を見下ろす立場はとりたくない、それは結局は自分が選んだことで相手が唯々諾々とはならないからといって、
さながら強者の如く見下ろして発する言葉は相手を情けない思いに突き落とす以外のなにものでも無い。


そもそも人の為になるなどというような大仰なことを考えているわけではない、
ただ愛するひとから逃げたくはないと彩は思った。
逃げるが勝ちとよく人は言う。
確かにそうだと思うし論理的には真を突いた言葉であり、実際、そういったスタンスは生き抜く為の知恵であり、ごく自然な防御策だと思う。
そうでなければ自分が守れなくなる場合もあるからであろう、
自分の神経がズタズタになってしまっては基もこもない、その理由は誰もが認め、誰もが行ってきているし無論、悪いことではない。
むしろ当然の事なのだろう。
でも…と彩は思った。
もともこもないことを逃げずにしてみる莫迦もこの広い世の中でたった一人くらいは居てもいいのではないか?


だけど…と彩は思った。
確かに時々不安感が自分のもともと薄い心の平安を簡単に破る通り魔のように襲ってくる、
今の私は衝動的過ぎて賢くはない、そんなことは百も承知だ。
私になんの保証も味方も居ないのだから…。
賢い人達が生き抜く為にさながらスマートフォンのように肌身離さず、持参して暮らしそしてPayPayを使うよりも高い頻度ですぐにでも提示することの出来るその簡便な免罪符ひとつ持たないこの様な行為は危険ではあっても、愚かで悲惨に終わる可能性は大きい。
彩は生まれてすぐに棄てられて、その後、幼いうちからいろんな場所やいろんな人間達に当然のようにあらゆる理由で何度でも棄てられた。
時には法律に乗っ取り、時には壊れた玩具の如くあらゆる機関や家庭をたらい回しにされた挙げ句、法律のギリギリの枠の中で遺棄されても、それらは全て世の中では認められる『合法』だったのだ。


その際、心に生涯かけても治らないほどの深い傷を心身に負ってはいても、彩のほうの言い分はほとんど聴いてなどもらえなかった。
言おうとしても言わせてさえもらえなかった。捨て子という差別用語は今はもう無いという。
だが本当はあるのだと彩は思った。
捨て子には何かを言う権利はありそうで実は無い、他の誰もが当たり前のように持つ権利が私には無かった、彩は心の中で誰とも知れず叫ぶことがあった。
出自が解らない、それだけでも苦しいのにその上、公然と傷つけられる出来事は彩の子供時代から青春時代にかけて、いやそれ以降も執拗に続いた。

でもそんな私だからこそ…と彩は思った。
他の人々には決して出来ない生き方が出来るかもしれない、他の人々には出来なくて当然のように思われていることを私はむしろ選ぶかもしれない。
むしろなんの得にもならないと人からは軽侮され無益で愚かと呼ばれる道を選んだとしたら…。
また選ぶことは誰にでも出来るが、それを真に貫くことが出来るのかどうか?と…もしかしたら私は今、問われているのかもしれないと彩は本気で思った。
その問われている何か判然とはしないものが仮にもし『愛』というものだとしたら…?
その歯の浮くような言葉に彩は今、自分の全てを賭けようとしているのかもしれなかった。
それがどんなに甘くて愚直で子供じみていても彩はそれを幼い頃から、ずっと探し続けてきたのだから…。


すると''優しい"エミリーが浴室のドアをノックした。

彩は乳白色のお湯に浸かってはいるものの思わず鼻先までそのお湯に深くざぶんと浸かって身を隠した。
エミリーは両手に驚くほどの花束を抱えている。薔薇ではない、
するとエミリーは彩の心をまるで読んだかのようにこう言った。


『薔薇風呂ならうちはいつだって入れるわ、今日は特別の花が手に入ったから彩の為に…』
『金木犀??』
と彩は湯の中で泡(あぶく)を立てながら喋った。
エミリーが金木犀の枝を彩の傍へ近づけると彩はその枝に鈴生りに咲く小花に鼻を近づけてそのどこか女性の脂粉に似たようなパウダリーな甘い芳香を楽しんだ。
しかし普通の金木犀よりやや香りが柔らかくあまり濃くはない。
『わぁ秋の花だものね、
でもまだ咲いているの?
街の金木犀はとうに散ってしまったのに、それにこの金木犀…
色が違うし少し花も若干、大きめな感じがする』
『そうなの、この金木犀は新種の花で普通の金木犀は秋の初め頃にオレンジいろの可愛らしい小花を咲かせるけど、これは晩秋から初冬にかけて咲く金木犀で香りは基本、そう変わらないけど、濃度が低いかな、
でも色が淡いレモンイエローで可愛いでしょう?
花時も普通の金木犀よりは少しだけ長いのよ、』
そう言ってエミリーは溢れるほど抱き抱えていた金木犀の花をバスタブの縁に座ったまま、湯の中へ持っている枝を軽く振るようにして小花を次々落としてゆく。


淡い檸檬いろの金木犀は湯に落ちると、湯の温度で普通の金木犀のようなオレンジいろにたちまち染まり、2、3秒すると今度はオレンジを通り越して瑪瑙のような目の覚めるような真っ赤に染まり、その時に非常に高い芳香をバスルームいっぱいに放った。
エミリーが金木犀の枝を振れば振るほど金木犀は次々とパラパラと星屑のような檸檬いろの小花を湯に雪のように舞い散らせ、花房をどんどん湯船の中で真紅に変え、その高い香りをむせるほど放ちながら彩の胸元や腕の傍、背中周りへと流れ寄ってくる。
赤ピンクに染まった金木犀はまるで湯に浮かんだ金平糖のようだ。
彩は赤ピンクから更に血赤珊瑚のような真っ赤に染まるその香り高い小花達を両手のひらにミルクいろの湯と共に掬い上げそれに頬を当てた。
『凄いわ、香水風呂に這入っているみたい、
まるで妖精の這入るお風呂ね、


クレオパトラだってこんなに香り高いお風呂になんて這入れなかったと思うわ』
『ええ、普段はお風呂に花を浮かべたりなんかしないのよ、
だって花が可愛そうでしょう?
でも…今夜は特別…
だって彩が来てくれたんですもの、
だから今夜は花にごめんなさいをするの…』
エミリーは金木犀をすっかり湯船に星屑を撒いたように乳白色の湯が隠れるほど撒いて落とすと彩の頬に手のひらを当てて言った。
『金木犀のお風呂から出たら下の暖炉のある部屋へいらっしゃいね、
待っているわ』
彩の濡れた額に音を立ててキスをするとエミリーは浴室を出ていった。

エミリーが用意をしてくれていた、あのエミリーの少女時代のものだという白いコットンの素朴なネグリジェに袖を通すとその上から彩は家から持ってきたモスグリーンのカーディガンを羽織って階下へ降りた。
廊下を歩きながら広いなりにある程度を把握出来るようになった彩は、暖炉のある居間へと向かった。
暖炉の前に延べてある敷物の上に彩は座って焔の色を見つめた。
猫達は近くのソファーやアームチェアの上に居て長々と横になり、彩の来たことにも気づかぬほどに熟睡していたり、ちらと片目を開けて彩の存在を確かめてからまた一寝入りし始めたりとあまり大きな反応は示さなかった。
彩はそんな猫達の静かな時を壊したくないので出来るだけそっと足音を忍ばせて歩き、炉端に座ってエミリーを待ったが何故だか10分待っても15分待っても彼女は現れなかった。


彩はすっかり暖炉で暖まり切ったのを汐に立ち上がると、そっと廊下へ出た。
すると暗い廊下の遠くから細く灯りの線が長く彩の足元近くまで伸びているのが見えた。
彩はそれを辿って廊下の曲がり角を右折した。
そこだけ奥まった扉が少しだけ開いており、灯りが細長く漏れ伝っているのだった。
その部屋はあの初めてふたりが出逢った時にスコーンを食べた、あの旧粧(ふるめか)しくもノーブルなダイニングキッチンだった。


彩は扉の隙間から中を覗くとエミリーは背中を向けてシンクに向かい、洗いものをしていた。
『エミリー?』と彩は声をかけた。エミリーはハッとしたように慄然とした顔で振り向いて胸を押さえ『ああ、びっくりした』と言った。
『ごめんなさい、エミリーを待っていたんだけどなかなか来ないから私、ついエミリーを探して来ちゃったの』
『いいのよ、
そうじゃなくて、私、独り暮らしが長いでしょう?
この家で人に声をかけられるだなんてなかなか無いことだから…
馴れてないのね、とてもびっくりしてしまって』
『ごめんなさいね、後ろからいきなり声をかけたりして、
そんなにびっくりするとは思わなかったの』
『いいのよ、私が莫迦なんだから…心のどこかでまだ彩がこの家に居てくれることが信じ切れていないの、まるで…
すぐに目覚めてしまう夢みたいに思えて…』


『エミリー』
彩はキッチンへ入った。
一歩中へ足を踏み入れた時、そのキッチンの中がとても暖かいことに彼女は気づいてふとシンクの傍にあるあのアラジンのブルーフレイムと彩が間違えた淡いくすんだグリーンのストーブが在ることに同時に気づいた。


気づいたと同時に彩の中にあの日の初めて芽生えた気持ちを思い出し、言い知れぬ郷愁にも似た心持ちとなって彩はエミリーに歩み寄った。
『エミリー、私はちゃんと居るわ、
ここに居るわ、
ちゃんと貴女の傍に…』
彩はシンクの前に立つエミリーの躰を抱きしめた。


エミリーは泡だらけの両手を浮かせて彩を抱きしめると
『今夜、彩が居てくれることがどれだけ私の暮らしや、心や、人生を暖めてくれているか…
彩には多分想像もつかないほどよ、
どんなに嬉しくて…』
エミリーは彩の耳元で囁くように言った。
『そしてどんなに怖いか…』
『怖い?』
『ええ…』エミリーはそう言って視線を反らせると再び食器を洗い始めた。


カチャカチャという食器と食器が微かに触れあう音以外何も聴こえないこの室(へや)で、彩は不用意な吐息など吐(つ)こうものならそれが、
酷く響きそうな気がして息を飲むと思わず小声になってこう訊ねた。
『怖いって…何が怖いの?』
エミリーはそれには答えず、ただ洗いものを黙々と続けている。
『夢から覚めると私が居なくなってしまって独りぽっちに戻ってしまうんじゃないかって、そうまだ感じているの?』
『独りぽっちだなんて言わないで、彩、何も知らない癖に、』
エミリーは洗いものを続けながら一瞬、彩を横目で苦痛をたたえた視線を投げ掛け、幽かに怒った口調となった。
『ごめんなさい、
別に傷つける積もりで言ったわけじゃなかったの、
でもそうよね…
エミリーにはきっといろんな深い事情があるはずなのに何も知らずに軽率な言葉でもし、貴女を傷つけたのなら…
どうか赦してね
……ただ…』


『ただ?』
『…私はエミリーの夢の一部なんかじゃないわ、現実よ、


夢から覚めると…
私は貴女の世界から消えて無くなるなんてことにはならないから安心して欲しいって伝えたかったの、
多分、エミリーはそういう出来事や人達にばかり出逢ってきて…
人を信じるのが怖くなってしまったのだと思うし、また絶望してしまうのではないかっていつも不安なんだと思うの、
もちろんこれは私の想像でしかないけれど…。
でもそんな事態にあっても誰にも分散も出来ずに、たった独りで矢面に立ち続け、受け続け、ずっと耐えてきた傷だらけの貴女をこれ以上絶望させたくないしもうこれ以上傷つけたくはないの、』
『……』


『ああ…彩、ごめんなさい私ったら…なんて愚かなの』
エミリーは彩を泡だらけの手で抱き寄せた。
『貴女を失いたくないって凄く思っているのに私ったら、酷いことや生意気な言葉しか出てこないんだから…どうかこんな私を赦して』
『謝らないでエミリー、酷くもないし生意気だなんて…そんなこと思いもしていないわ、
私も無神経なのよ、
独りぽっちなのは私も同じなのに』『…彩は独りぽっちじゃないわ』
『そうね…エミリーほどではないかもしれない、
でも…エミリーと出逢ってから…
何故かしら、とても強く孤独を感じるようになったわ、そしてそんな時いつも帰りたいと願っていたの、
エミリーの居るこの森へ…


だってこの孤独を同じように感じてくれる同じ心臓や肌を持つ人は私にはふたりと居ないのよ、私にはもう貴女だけ、エミリー』
『…ああ彩…私の大切なひと…』
ふたりは暫く抱き締めあって立っていたが、やがて仲良く並んで洗いものを始めた。
エミリーが洗って彩が食器を拭いていたがそのうちその順番が逆転した。彩がエミリーに聴いて確かめながら食器を棚に仕舞うのだが『そこではなくて上、いいえそこよりも下』となかなかスムースにゆかず、役割りを彼女らは逆転することにした。
『こんな綺麗な食器を洗うのって緊張するわ、
だってもし割ってもきっと弁償出来ないと思うもの、
どれも皆、アンティークでしょう?』
『割ったって構わないのよ、
もし彩が割ってしまっても弁償しろだなんて私は言わないわ』
『そりゃそうでしょうけど…
でも気をつけないと、
私、このビューティフル・ワールドの中のものは何一つ壊したくはないの、とても大切だわ、
だってエミリーが大切にしているものだし、エミリーに関与しているこの世界のものだもの、ティーカップひとつにしても何ひとつ取り零(こぼ)したくないの』
『……』
エミリーはそれには何も答えなかったが眼鏡の奥の瞳が涙ぐんで光を放つのが解った。
食器や赤銅の鍋などを洗って片付けたり吊るしたりしたのち、ふたりはダイニングキッチンの扉の傍のベンチに敢えてあの日のように消灯してから並んで腰かけた。
ストーブの金属の上蓋にさながら咲き揃うマーガレットの花のような型に打ち抜き細工をほどこし、
熱気を逃がす為の孔(あな)を単に機能的なだけに留めずに美しさも兼ねてデザインされた、そのストーブをエミリーも彩も共に愛していた。
そのストーブのお陰で高く昏い天井に影絵ならぬ焔絵によるあの夜と同じ柑子(こうじ)いろに咲き誇る巨きなマーガレットの花をふたりはまた肩を寄せあって眺めることが出来た。ふたりはこんなささやかで、
なんでもない時を酷く歓んだ。

彩はエミリーの肩に凭(もた)れて言った。


『どれだけこの光景を夢見たか解らないほどよ、
ここへまた来て…エミリーとこの真夜中に咲く焔のマーガレットを見ることは…まるで私には悲願のようですらあったわ…
それがこうしてまた叶った』
『彩…独りぽっちの私達が出逢って私達の凍えた世界に暖かい血が再び通い始めたのよ、独りぽっちだなんて、淋しいだなんてと嘲笑う人には何も見えないし解りはしないわ、
そういって嗤う人達は自分に素直になることがカッコ悪くて気恥ずかしいと思っているのよ、
でもそれで構わないわ…
そんな人達にもそんな人達の世界があるんですもの、
それでいいのよ、
でも彩には解るはず、解るというよりも感じることが出来るはずよ、
この室(へや)も、そしてこの家全体が、私達の善も悪も未熟も成熟も愛も不浄も罪さえも…何もかもを、
ただ受け入れて包容してくれている、大いなる女神の子宮のようなものなのだと…。
ここは私達のサンクチュアリなのよ、』
ふたりは彩のゲストルームのダブルベッドで横たわり周りには猫達も居て、眠りにつくまでひそひそと夜話(やわ)をいつまでも交わした。
時折何故か笑い声を潜(ひそ)めて上げ、向かい合う大きな窓から月の光がそんなふたりを明るく照らし出し傍で猫達が眠ったり、顔を洗ったり毛繕いをしたりしていた。


やがてふたりはどちらともなく睡りにつき、彩はこんな夢を見た。
彼女は睡りながらふと目を覚ますとエミリーと彩、そして猫達の眠るクィーンサイズのベッドは野原の中に在った。
樹が疎らに立つその野原は明るく木の間隠れに放射線状の光があちらこちらから射し込み野原の地面に珈琲豆のような陰いろと若草いろと濃いエメラルドの斑模様の木漏れ日を揺らしていた。気がつくとふたりの眠るベッドのシーツにまでその木漏れ日は揺れ見上げると菫(すみれ)いろの空に大きな碧(みどり)いろの太陽があり、ニタニタと大きな目鼻立ちで彩に愛想よく笑いかけた。

エミリーはふと心の中で『太陽なんだろうけどハンプティダンプティにも似てる気がするわ』と思った。
『エミリー、ねぇエミリー
太陽がこっちを見ているわ、
面白いからエミリーも見て、』
と彩は思わずエミリーを揺り起こそうとしたが眼鏡を取ったエミリーの彫像のような寝顔が山梔子(くちなし)の花より白く、更に百合の花よりも白く美々しいのを見て彩は躊躇って思わずその手を握り締めると引っ込めた。
このままこの眠れる森の美女の傍でぼんやり時を忘れて過ごしたい、
と彩はエミリーの枕元に両手で頬杖を突いたまま恋人の寝顔に見蕩(みと)れていると、
太陽が兎のような紅い瞳で優しく話し掛けてきた。
『せっかくのエミリーの夢の中に、いるのに君は彼女と一緒に眠らないのかい?
なんで君だけ夢の中で起きている?猫達だってみんなエミリーの周りでぐっすり眠っているというのに、
起きているのは君だけだぞ、彩』
『だってこれは夢の中なんでしょう?夢の中にいて眠るも起きるも無いわ、本当はこのままエミリーをただぼんやり見つめていたいような気もするんだけど…
でもそうね、
こんなに素敵な夢の中に居て、せっかく綺麗な野原に居るのにただベッドの中でじっとしているなんて勿体無いわ、』
『そうかい、では、
少し夢の中を探検してくるかい?
それは構わないが、恐らくエミリーはたとえどんなに揺さぶっても目覚めないから…探検は君一人で行くといいよ、少しさみしいかもしれないがね』
『あら子供じゃないのよ、
さみしくなんか…!』
と云いつつも彩はエミリーと一緒にこの野原を駆け回れないのかと失意を感じた。


広大無辺な野原が果てしなく続き虹が掛かっているのが見える。
虹の懸かる緑の原野は春か初夏のようにどこまでも青々とし、遠くの原は、
草がやや深いのか、そこへリボン状の風が吹いて渡るとその細長い風の通り道を草地の表面にざわざわという心地好い音と共に象(かたち)にして残した。
もっと強く風が吹けばその緑の野面(のづら)はまるで巨きな神の見えざる手により優しく撫でられたように風の通った蹟(あと)だけしなやかに揺らぎ、たわみ、その時に豊かな緑は滴るような光沢をみずみずしく放った。
目には見えない風や何かはこうやって姿を顕(あらわ)す、と彩はふと思った。
遠く続く野面は低い草地だけでなく遥か彼方、隆丘地帯にまで及ぶ。
白い花がその丘の上にまで風に揺れ、鹿や羊達が草を食(は)んでいる牧歌的な風景は、ベッドの上からでも彩には見遥かすことが出来た。
丘の高みにはさながらマッターホルンにでも居そうな大きな角を誇る牡鹿が安らい、近くの木々の上には栗鼠が走り、花々には蜂鳥がホビングしながらその鋭い嘴で花蜜を吸っている。碧い蝶や黒い蝶、白い蝶や赤い蝶が飛び…人間は彩と眠れるエミリーだけだ。
さながらアダムとエヴァのように…


『虹が何物にも遮られずに虹の橋の全容が見れるなんてなんて素敵なの、それに羊の群れが丘を下ってゆくのが見えるわ、
下の水場へ行くのかしら?蜂鳥も栗鼠も、とても可愛いわ、
ああエミリー、
貴女と一緒に見たいのに…』
『そのうち目覚めるかもしれないよ、エミリーが自分から目覚めた時はちゃんと休息がとれたということなんだ、でも今はまだ…
彼女はこの世界では休息をとるために来るのだから起こしては可哀想だ、』
『あら私だってそうよ、人はみんな心身を休める為に眠るんですもの』『無論そうだがエミリーの場合はそれとはだいぶ違うんだよ、』
『そうなの?どうでもいいわ貴方の云うことなんか半分も信じてなんかいやしないんだから…
だってこれは夢の中でしょう?
エミリーももしかしたら本物じゃないのかもしれないわ、見た目はそっくりだけど…それにしても起きてくれないなんて残念…』
『さみしいかい?』
『そうね、ええ、さみしいわ、
エミリーに夢の中でも一緒に居て欲しかったもの…』
『いずれ目を覚ますさ、


それまで野原のはずれまで行って遊んでくればいい、
いろんな花が咲いているだろう、
いい匂いに包まれて夢の中でまた夢が見れるだろうよ、
ただあの森の中へは入らないほうがいい』と太陽は2時の方角を指差して言った。
『厳密には森そのものには入ってもいいが、もし森の中で扉を見かけてもその扉は開けてはいけない、
いいね?』
『扉?扉ってあの…あの扉?』
彩は意外そうな顔をした。
『よく似てはいるがあの扉とはまた少し違う扉なんだよ、
兎に角その扉にだけは近づかないように、それさえ守れたら野原だろうが森だろうが君の行きたいところへ自由に足を伸ばせばいい、


どこも皆、小鳥がさえずり空気も美味しい、ここはエミリーが創った最高の場所のひとつだからね』
『ひとつ?じゃもっと他にもあるの?』
『いずれそれはエミリーが見せてくれるだろうよ、だが今はまだ時期尚早、
さぁ小鳥さん探検に行っておいで』その言葉が終わるか終わらぬかのうちに彩は既に愛くるしい小さな碧い野鳥と化していた。
彼女はさえずりながら眠るエミリーの肩に止まり、美しい形の唇に口づけしたく思ったがそれは出来なかったので名残惜しさを感じながらも、たちまち天高く吸い上げられるように舞い上がった。

(To be continued…)
    

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