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小説『エミリーキャット』第35章・魔少女の誘惑

『ちょっとちょっと、人間のままで野原を駆け回りたかったのに』
と彩は言ったがもう小鳥の囀ずりでしかない。
そうは言っても空に向かって高く高く雲の上まで突き飛ぬけて、まるで雲雀(ひばり)のように高らかに囀ずりつつ雲間から見遥かすどこまでも続く緑の原と丘、
それを取り囲むクロワッサンのような形の森や、溶けた鏡のような光の帯となって縦横無尽に畝(うね)りながら走る河、
陰いろと明色との濃淡にデコボコと隆起しながら
身を寄せあう巨大ブロッコリーのように繁茂する森と天に向かって剣(つるぎ)を無数に突き立てたような山林地帯、
その奥深く隠された宝石のように碧くひっそりと眠る湖を文字通り鳥瞰図として遥か空の上から眺めるのはなんとも、胸の空くような思いだ。
飛んでいる自分の羽根をふと見ると明るい空のいろで、まるで空の蒼から切り取って造られたようだ。


彩は雲間から陸に向かってツバメのように空気をさながら鋏で切るように鋭利な急滑降で飛んでいった。
物凄い空気圧の抵抗を感じるが、
そのどんどん張らんでゆく気圧のボリュームにも負けないのは彩が人間ではなく空飛ぶ鳥だからだ。
彼女は僅かに嘴と躯全体をミリ単位で空気圧の分厚い膜から反らし、
躯全体を使って息を吸う小さな、
しかし同時に非常に効果的なコツも覚えていた。
さながら女の髪のように豊かに風に煽られ波打つ野原の表面を彩は素早く、
かすめ飛び、飛んでいるうちに偶然見つけた山間部の深みに色とりどりに咲く、はっと息を飲むほど艶やかな花野原の上を彩は愛でるように、その芳香と光景とに酔いしれながら飛んだ。


虹が掛かる淡紫(うすむらさき)の空を疲れ果てるまで飛び回った彩は少し休もうと地上へ舞い降り、暖かい地面の上で疲れた人間のように惰眠を貪っていると階段を一段踏み外したような衝撃を感じ、彩は思わず踏み外すまいと足を無意識に動かしたと同時に目覚めた。
夢の中で眠り、そして夢の中で目覚めるなんてなんて奇妙なんだろう?と彩は思ったがふと気づくと彩の躯はもう人間に戻っていた。
『なぁんだ、もう人間に戻っちゃったのね今回はやけに戻るのが早いわね、』
と言いながら立ちあがり、白いコットンのネグリジェをパンパン叩いて土埃を落とす彼女の足元に真っ白いボールが転がり寄ってきた。
『あら…?』
と彩はボールを拾い上げ、辺りを見渡したが野原の陰や木の間隠れに、兎や栗鼠は居てもボールを使えそうな人間はどこにも居なかった。
するとまた同じ白いボールが何処からともなく彩の足元へ転がってきた。
放っておくとボールはどんどん彩に向かって転がってくる。
『なんなの?一体…
こんなことをするのは誰?』
拾い切れない沢山のボールを彩は地面に放り投げるとそれらは皆、コロコロと遠くの森へとまるで意思あるもののように集結し、いやに秩序立って転がってゆく。
彩はその様子に興味をそそられ、
思わずそのボールがどこへ行くのかを見届けようとついていった。
あまりにもボールの動きが命あるもののような不思議な動きで、それに魅せられた彩は不覚にもいつの間にか森へ侵入し、気がつくと遠くに鏡板の非常に傷んだボロボロの扉が立っていることに気がついた。


扉は既に半開きになっており、その隙間からボールはまるで吸い込まれるように扉の奥へと返ってゆく。
扉の中へボールは入ると同時に、
まるで胡散霧消するかのように彩の目には見えなくなった。
まるで違う次元へ吸い込まれてしまったかのようだ、
するとその半開きの扉の向こうに見える森の中から幼い少女のあどけない声がした。
『彩、エミリーは父親の仕事を手伝っていたことを知ってる?』
『…父親?』彩は声には出さなかったが心の中で思った。
声は続けて言った
『エミリーに苗字を聴いたことはある?彩、貴女はエミリーのフルネームも知らないのね、』
『……』
再び繁茂する森の秘奥から白いボールは転がり、彩の足元で止まった。『彩、エミリーは本当に花屋さんだとでも思ってるの?
両親だって花屋なんかじゃなかったのに』
『……』
『彼女は彼女の父親と揃ってグルになって世間を欺いてきたのよ、
エミリー達のしてきたことは犯罪よ』
『犯罪…?』
『父親の仕事のことだけじゃないわ、エミリーは恐ろしい罪を犯してそれを隠している、森の中にね、
だから彼女はこの森を立ち去れない、永遠に、』


『……』
『彩、貴女はエミリーを愛していると云いながらその実、彼女のことを何も知らないのね、
それとも知らないから愛せるのかしら?
彩、そのボールを拾ってここへ来て私に渡してちょうだい、
そうすればエミリーの秘密を全てを私が教えて上げるわ』
彩は躊躇しながらも少女の言う全てを知りたいと強く思った。
それと同時に彼女はボールの前にしゃがみ込むとそれを拾い、かがんだまま目を閉じ、奥歯を噛み締めて誘惑に耐えた。
"あの声を聴いちゃ駄目、駄目よ''
彩は自分にそう言い聞かせたが躰が云うことを聴かなかった。
ボールを持ったまま、彩はゆっくりと立ち上がった。
それは彩の意思で立ち上がるというよりも何かは解らぬ力によって、
マリオネットのように自分の力を使わずともむしろ楽に上から吊り上げられるような感じだった。
そして扉へと近づく為に彩は一歩一歩、森の中で歩みを進めていったが、それもまるで自分の意思とは反対にただ操られているだけのような他力感があった。
分厚く敷き詰められた深い枯れ葉を踏みしめたザクッという音に彩は急にハッとして我に返った。
"森の中はまだ秋なのだ''
と彩はそんなどうでもよいことを呆然とまるで他人事(ひとごと)のようにボールを両手で支え持ったまま、どこか頭の隅で麻痺したように薄ぼんやりと思った。
が次の瞬間、扉の奥から投げかけられた問いに彼女は再び意識を奪われた。


『彩?エミリーの父親の職業が何かエミリーに聴いたことはある?
さっきエミリーは父親の仕事を手伝っていたと言ったけど…
もっと言うとね、
エミリーがその''父親"だったのよ、いいえ、父親というよりも父親の影武者でしかなかった…。
…可愛そうなエミリー』
と少女は扉の向こうで姿の見えない嗤い声を上げたが、
不思議とその声は小さく、私語(ささめごと)めいているのに複数の声が重複し、まるで沢山の少女や女達が一斉に犇(ひし)めいているようにも聴こえた。
彩は問いが重ねられる都度少しずつ森の深みへ踏み込み、気がつくと
彩は半開きの扉のドアノブを握っていた。
愛くるしい童女の声は更に言葉を重ねる。

『ではエミリーの父親は今一体、
どこに今居るのかしら?
そして母親は…』


『彩』と、どこかで遠い別の声がした。だが彩は操られたようにそのことにどうしても気持ちが向けられない。
彩はまだ麻酔にかかりでもしたように、ぼんやりとして氷のように冷たいカット硝子のドアノブを握りしめたまま茫然としている。
そしてそのままドアノブを回転させた。
すると、彩の中のどこか遠い、
奥深くでガチャリとドアノブが回る音がした。
それは森の中のあの扉ではなく、
彩の中で何かが動いた音だった。

『彩!』

と背後から再び彩を呼ぶ別の声がして、彩は次の瞬間それがエミリーの声だと気づき、急に現実に引き戻されたように彼女はエミリーの白過ぎる手を自分の肩の上に見て戦慄した。
その今や山梔子の花を通り越し白墨のように白い手はエミリーのものであると同時に何故だか彩にはさながらそれが悪夢の続きのように思えた。
『……』
彩は振り返り『エミリー』と言って本心とは裏腹に阿諛(あゆ)するように彼女に抱きついた。
怖れもあったがそれと同時に彩の中にどうしようもない背徳感と後ろ暗さが沸き上がり、まるで人の抽斗(ひきだし)を勝手に覗いてしまった現場をその抽斗の主に見られてしまったかのような激しい羞恥にも襲われ、彩は混乱の只中に居た。
彩はその気持ちを隠す為にエミリーの胸に顔を埋めて怯々とする我が身を慰撫してもらおうとしたのだった。
エミリーはそんな彩に応えるように慰撫して抱き留めたが、同時に哀しい眼をして囁いた。
『…安心して彩、もうあの扉は無いわ』
『……』彩はエミリーの腕の中で何も無い鳥のさえずりだけが響く森奥を振り返った。
『…さっき…ボールが…
ボールが転がってきて…小さな女の子の声が』
『彩、このことはもう忘れて、
お願いよ』
『でも』
『あの声は彩の願望なのよ、
彩は…私について本当はいろんな憶測をしていて、それについてとても知りたがっている』
『……』彩は咄嗟に何も答えられなくなった。
彼女はかぶりを振りながら『それはそうだけど…でも…』とやっとの思いで言いつのった。
『大好きなひとのことをもっとよく知りたいと思うのは自然なことじゃない?
ええ、私、エミリーのこともっとちゃんと知りたいわ、
私のことも知って欲しいと思ってる、でも…』と彩は言った。
『あの声が私の願望?
いいえ違う、違うわ、
私が夢にも思わないようなことを、あの声は私に吹き込んできたわ、
逆にエミリーに聴きたいくらいよ、あれは一体誰なの?
私、あの声の主を知ってるわ、
前に逢ったことがあるの、
悪夢の中で…森の中で、
でも彼女は居るわ、
ちゃんと存在するんだわ
私が考えも及ばないことを彼女は私に』
『彩、お願い、もうやめて、
彼女のことは忘れて、
忘れて私と来てちょうだい』


エミリーは彩の腕を掴んでどんどん歩いて森を出た。
森を抜け、野原をひたすら突っ切って歩き、ふたりは夢の中でひたすらにただ歩き続けた。
無言で歩き続けるエミリーがあまりにも哀しげなので彩は不本意な背徳感に耐え切れず半分ベソをかきはじめていた。
それに対して羞恥も何も無い、
ただ自分がまるでエミリーを裏切ったかのような気持ちになるのにも拘わらず裏切ってなどいない、
あの声は本当に居るのだ、
私の願望なんかじゃなく別に存在していることは私の中では火を見るより明らかなのに、という不本意な気持ちでいっぱいになり、悔しくなって今や彩は泣いていたのだ。
そんな彩の気持ちを知っているのかいないのか、エミリーは彩の手を掴んだまま気が遠くなるまで歩き続けた。


このいつ終わるとも知れぬ不穏な夢の中で彩は何時間も歩かされ、夢の中とは思えぬ現実的な疲弊に喘ぎ始めていた。
それでもエミリーは彩を彩の腕が抜けるのではないかと思うほど強く引っ張り、ひたすらに歩き遠そうとする。
だが一体、エミリーがどこを目指して彩を歩かせているのか、なんの為にこんなにただひたすらに足を棒にして歩かされ続けるのか、
彩には理解がまるで出来ないので、不安感ばかりが彼女の中ではらみ、やがて彩の杯すれすれにそれは弧を描いて盛り上がり、限界を越えてそれは杯からあふれ、杯の表面を漏れ伝い始めた。
『もういや!いやよ!
一体いつまで歩かせるの?エミリーどこに行く積もりなの!?』
『…貴女に見せたいところがあるの、だからお願いよ一緒に来て』
『それなら私の質問にも答えて、
エミリー貴女は本当に花屋さんなの?』
『……ええそうよ』
『…解ったわ、じゃあ名前は?
エミリーだけじゃないでしょう?
私は吉田 彩、エミリーはなんていうの?苗字を教えて』
『……』
『教えてよ!私、知りたい』
『教えるわ、全部彩の知りたいことに答えるから一緒に来て』
そう言ったエミリーの顔が哀しみと苦痛にゆがむのを彩は手術痕の残る胸を更にえぐられるような思いで見た。
エミリーは彩を連れて歩きづめに歩き、彩は夢の中でも倒れ込みそうな強い疲弊を感じた。


歩くにつれ段々曇り空となり、低く垂れ籠め始めた雲の宿りは黒ずんだ青みを帯びた重い鈍色(にびいろ)へと移り変わり、今にも泣き出そうな空模様だと彩は思った。
そしてその空はエミリーの心を表しているのだとも何故かそう推し測る余裕の無いはずの心の隅で彼女は感じ、涙があふれ、それが風に吹き飛ばされるのを悲しく思った。
ここはエミリーの深層心理が創り出した世界だ。
緑豊かな原野も丘隆地帯もあれほど美しかった花野原もいつの間にか全て寒々しい荒野となり鳥や動物達の姿も見えない。


『足がもう棒だわ、


一体どこまで私を歩かせたら気が済むの?』
彩がうんざりしてそう言ったと同時にエミリーは立ち止まった。
『ここよ』
しかしそこは相も変わらずただの荒れ野原の続きでしかなかった。
荒れ野原の至るところに樹が立ち、ところどころの樹の集まりが天気のよい時は木陰で安らうことが可能な心地好い場所を作るのであろう。

遠くに望む丘の上も荒れ果てた草が茫々と繁り、吹いてくる風に虚しくまるでやわな針金のように幽かに震動している。
丘へ向かう盛り土道の上には、その小径を縁取るように両端に形のよい樹が立ち並びきっとついさっきまでは緑豊かな夏木立だったのだろう。
樹は裸樹で冬枯れした自然もまた美しいものであるはずなのにそこではただ深過ぎる哀しみをたたえ、もう何も言えなくなってしまった追い詰められた風景のようにすら彩には感じられた。
エミリーは固く握りしめていた彩の手をまるで凍て溶けたように離すとその荒れ果てた野原をただ眺めていた。
酷く長い沈黙が続きこのままこの夢からエミリー共々出られなくなるのではないか、と彩は怖れた。
『ブルー・ベルの花が…死んでる…』あまりにも長い間黙っていたせいかやっと言葉を発したエミリーの声はかすれていた。


そう言われて見れば荒れ野原一面、すっかり萎え衰え、地面に倒れ臥したかのような無数の花房があった。
萎え果て根本から倒れているにも拘わらず、その『蒼』に執着するかのように残骸のような姿になっても尚、その色を残しているのがかえって生々しく見え、いかにも死んで間もない屍のように彩には感じられた。
彩は夢の中とはいえ花に対して苦悶の跡を見たのは初めてで背筋が冷たくなるのを感じた。
『ブルー・ベル…?』と彩は一応、形ばかりの問いかけをしたが、内心もうそんなことに気を囚われていたくなどなかった。
空を見上げてもあの人懐っこく笑いかけてきた太陽も居ない。
もう現実に帰りたい、ここは全然『ビューティフル・ワールド』じゃないわ、
もうこんな思いをするのはたくさんよ、彩はそう思った。
振り返ったエミリーの顔があまりにも色蒼冷めているのを見て、彩は胸に軋むような痛みを覚えた。
『…彩、帰ってもいいのよ、
もともとここは彩の世界じゃないわ、私だってここは借り物の世界で…私の真の居場所なんて本当は、どこにも無いのだけどね』
『借り物?ここはエミリーの創った世界なんじゃないの?あの太陽がそう言っていたわ』
『そうよ、幼い時から辛い時や苦しんでいる時、空想の世界へいつも逃げ込んでいたの、
ここはその世界のひとつよ、
…だけど…その空想の世界ですら、私は上手く操れないみたい、
私って本当に何も出来ないのね、
私は無力だわ…』

『……』
『…花さえ助けられない…』
彩は泣き荒(すさ)ぶような不気味な疾風の音に耐え切れず、凍りつくようなその風の中、思わず自分の意思より先んじてその震える唇から言葉が、ほとばしり出るのを感じた。
『エミリーお願いがあるの、
最後に私に答えて欲しいことがあるの、』
『…最後に…』
エミリーは震える唇を噛みしめた。
彼女が彩に一瞬、壊れすがるような想いになったのを、必死で耐え忍んで葛藤する心境が彩に向かって色濃く伝播し、彩にはさながらエミリーが瀕死の水鳥のように見えた。
エミリーは自分で自分を抱きしめてまるでそのことによって、辛うじてその場に立っているかのようだった。
そして死んだブルー・ベルとい名の花の残骸が倒れ臥す野原に視線を巡らせた。
やがてエミリーは彩を振り返ると『…彩は一体、何が聴きたいの?』
その声は弱々しくまるでどこかを射抜かれでもして負傷しているかのようだ。
顔色も山梔子(くちなし)から紙のような白さへと変わってゆき、躯も大きく震えている。
『エミリーの本名を教えて、
フルネームは?
歳は一体いくつで職業は何?
花屋さんって本当なの?
それ、本当は違うんでしょう?
ご両親はご健在?
だとしたら今、どこにいらっしゃって何をしているの?
一体どうやってあんな立派な家に働いているのかいないのかすら不明の貴女が住めるのかしら?


貴女の周りの人々はきっと物見高い野次馬根性丸出しの卑しい人達なのかもしれないけれど、でもその人達が不思議がるのも無理はないわ、
だって貴女は…』
『帰って!彩、
もう居なくなって!
私の前から消えてちょうだい!!
貴女の口からそんな下卑た言葉を聴きたくないわ!
そんな貴女を見たくない!』
『なんですって?』
彩の内側を何かがジリジリと熱く痛く焦がすような思いがした。
彩を彩ではない誰かがまるで駆り立てるように内側から荒縄で徐々に締め上げるように攻め立ててくる。
それらの総攻撃は緩むことがなく彩もエミリーも巻き込もうとする。
弱っている者を何故かもっと苛めてやりたくなるような残酷性が幽かにであるにも関わらずヒリヒリと彩の中で疼き、やがてそれが奔流のように暴れだす気配を彩はまるでカウントするように鎮かに感じながら待った。



彩の記憶の底から施設からまだ出て間がない頃の記憶がゆらゆらと陽炎のようにたち昇った。
それはある女性(ひと)の顔だった。
彩の心弱りを充分に知悉しながら、サディスティックな気持ちが一見、鎮かに見える外側からは測り知れぬほど内側で暴れ出すのをコントロール出来ないでいる昔の職場の先輩の顔が彩の目の前にたった今、彼女が居るかのように鮮やかにフラッシュバックした。
彩は記憶というにはあまりにもリアルな先輩の口臭までもが甦り、
軽い吐き気すら感じた。
先輩の顔も声も、潜めても脈打つように息づくようだったあの吐息も、今や''先輩のもの"ではなく"彩のもの''だった。
彩の記憶の中、先輩はただ息を潜め、その癖、その呼吸は彼女の意思とは裏腹に喘息でもないのに、まるで喘息の発作時の喘鳴(ぜんめい)のようにゼエゼエヒュウヒュウと壊れた笛の音のように痛ましく克明に伝わってくる。
初めての職場で任された大切な書類をどこかへ紛失してしまった彩は、警察を呼ぶとまで責め立てられ、
瀬戸際に立たされた上に銃口を突きつけられた思いになった。
しかしそのぎりぎりの中で彼女はあることを思い出した。
書類は確かに紛失してしまった。
駅でなのか、帰りに休んだ公園のベンチでなのか、偶然知人に声をかけられ誘われて入った喫茶店でなのか?
解らない、
どこをどう捜しても無かったのだ。
その責任はどう転んでも問われるに決まってはいるが、それに関して彩は覚悟を決めていた。
然しその書類を慎重な彩はUSBメモリにも残していたのだ。
そのUSBメモリは先輩が『万が一の時の為に保険代わりに私が持っていてあげる』と言ってくれていたのを、彩は大きな安心と共に託していたこと当然ながら覚えていた。
無論、書類本体を無くしてはその責任は免れられない、がUSBメモリがあれば、焼石にコップくらいの水にはなる。それは無いよりは遥かに彩にとってはマシだった。
先輩の意思でそれを保管してくれているという事実は、彩のさながら嵐の中に居るようなどうしようもなく苛烈な不安をやっと逃げ込める小さな小屋のように慰めた。



彩は先輩が自ら彩の保険となってくれたという現実に薄く安堵していたものの、それがかえって思いもかけぬ窮地を生む引き金となり、彩を一層苦しめる結果となるとは、その時の彩は想像だにしないことだった。
USBのことをいくら聴いても先輩は頑としてそんなものは知らないと言い張ったからだ。
『そんなことないです!
もしもの時に備えて共有しようって言ってくれたじゃないですか?
お願いです。
紛失したことには責任をとります。それは私の責任です、
でもどうか先輩が持っているUSBは会社へ提出して下さい、
それはもう私の為にじゃないです。
それで沢山の人にかかる迷惑が、
もしかしたらほんの少しでも回避出来るかもしれないからです、
どうかお願いします!
私はもうクビになることは解っていますし警察へも無論、行きます、
それよりも何よりもどうか…
他の方々にご迷惑がかかってしまうことが…
心苦しくて…だからどうか…お願いします!』
『何、この期に及んで綺麗事言ってるのよ、無くしたのは貴女でしょう?私はそのことについては部外者よ、
無くしたのは貴女なんだから!
責任くらい独りでとりなさいよ、
自分の大きなミスの穴埋めなんかに私を当てにしないで頂戴、
関係無いわ、』
『あてにしてるんじゃないです!
先輩、どうしてそんなことが言えるんですか?
被害にあわれる方々がそれで回避出来るかもしれないと言いたいんです。
責任はもちろん私の責任以外の何物でもありません』
普段しっかり者の彩がそんな言葉とは裏腹に怯え切って見苦しいほどオロオロとし、垂れてきた鼻水を大きく啜り上げて、泣いてすがりつく暑苦しい醜態に、先輩は最初は確かに哀れみを感じた。
しかし次の瞬間、針の先ほどに感じた最初は小さな嫌悪感が徐々に病原菌のように彼女の中で拡がり、凶暴な"何か''がそっと''先輩"に増し加わった瞬間が彩には目に見えてそうと解った。
その傍目にも画然と解りやすい変容を彩は背筋を冷たくして見守った。
先輩の中に先輩も知らぬ別の誰かが生まれるのをその時、彩は確かに見た。


人間が誰しも持つ『嗜虐性』が目覚めるその瞬間を、彩はまるで色鮮やかな毒花が大きく目の前で妖婉に花開くようなむしろ生き生きとした光景として見た。


まるで生け簀からまな板の上へ取り上げられた魚がごく稀に、包丁を入れられる寸前、一瞬松ぼっくりのようにその魚鱗(ぎょりん)を全部、浮き上がるように逆立たせ、全身、棘(とげ)が乱立したような姿になるのにも似て、それは怖気立(おぞけだ)つほどグロテスクな変容であるにも関わらず、醜悪な美しさに満ちていた。
同時に生命の上げる鮮明な生への希求の姿でもあり、自然が上げる叫びでもあり、痛切な開花にも通ずる恐ろしくも、そこには決っして誰も認めたくもない圧倒的な『艶』があった。
すっかり倒れていたドミノ倒しが、音を立てて次々と立ち上がってゆくかのような、それはゾッとするほど真逆の生命感にあふれ返った人間の強いもうひとつの貌でもあり、
本性に逆らえないどうしようもなく弱く悲しい人間の貌でもあった。
果たして先輩は顔つきも声も仕草さえも変容した。
『さぁ…
記憶に無いわ、USBメモリなんて私は知らないけど?』
『そんな…!
お願いです、助けて下さい
お願い先輩、そんな怖いこと言わないで、どうしたんですか?別の人みたい、』
彩が弱れば弱るほど先輩はまるで、いきり立つような奇妙な精気を逆に得てゆき、その黒ずんだ精気に先輩のどこか幼げで愛らしい声は老いたようにしゃがれて豹変し、幽かに白目は充血しながらも潤み、本人ですらコントロール出来ない狂おしい興奮に、今や胸ではなく肩で浅い息しか出来なくなってしまっていることすら伝わってきた。
どんなに平素、常識的な様子で暮らしている人間にもこんな"魔の顔''がある。
本人も普段は全く気づかずに無自覚に我が身の内に飼っているその小さくとも凶悪な妖魔は常識的に見える平板な起居が毎日穏やかに引いては満ちるそのさなか、
ちょっとした刺激が加わった時、
指に刺さる目に見えないほど微細な棘のようにして現れる。
たとえば大切なものが壊された、
つまり自分のプライドや気持ち、
立場といったことが脅かされた、
あるいはほんの少し居心地の悪さを味あわされた、
本当のことを言われた、
叱責された、
ふった、ふられた、
クビになった、
クビにした、
相手が自分の意にどうも今一つ沿わない、
なんとなく気に入らない、
なんとなく気に入ってもらえなかった、
相手が自分の信じる尺度や正義感から逸れている気がする、
あられもなくてみっともない、
おかしい、
変わってる、
普通ではない、キモい、弱い、強い、
肥っている、痩せている、
病気だ、子供だ、年寄りだ、醜いと感じる、
あるいは自分より美しいと感じる、生意気に感じる、優秀と感じる、
無力と感じる、莫迦だと感じる、
裕福そうだ、幸福そうだ、
貧乏そうだ、不幸せそうだと感じる……。
いずれももしかしたら漠然としたイメージだけで、的を獲てないこともあるかもしれぬのに、そんな些細で様々なことが原因で普段その''魔"は善良な人々の中で温和しく眠っていても、
たちまちそれらを切っ掛けにふっとある日、容易に目覚めてしまう。
目覚めかたが彩の先輩のように解りやすく鮮明か、
そうでないかの違いがあるだけで、誰しも皆、その点においては人間である限り一人残らず同じパンドラの箱を開けた仲間なのだ。


そしてそれが目覚めると、もう人は魔のペースにとって代わられ、なかなか我に返れない。
返ることを人は自分の鼻や身長より高いプライドが許さない。
そのことを自覚しているか、いないかだけでも人はかなり変われるのに、圧倒的に無自覚な人が多いのは人は善においてはあまりにも自分に対して盲信していて内心特別と思っているからだ。
そして自分の中の魔に対して『私はそんなことは無いわ』と恬(てん)
として言い切ってしまうことは魔物を安心させて実は、のさばらすことにもなり、その温床を作ることに他ならない。
恬然としていることは見ないことと同じなのだ。
だが魔はどんなに恬としようが、
自分という弱い人間を知り尽くし、どこまでも人間の行住坐臥の隅々までをも影法師のように追いすがってくる。
人はそんなもの見たくもないと口先では言いながらも他者の弱みや他者の私的な裏庭を実は見たいと切に願っているし、また見てもいないのに見た積もりになってつい、
志摩推測して様々なことを縷々(るる)と語ってしまったりすることがある。
人間は噂を飲食して肥え肥る生き物なのだ。
なんにも解らないのにそれで解ったような気になりたいからだ。
そんな虚しい心緒の岸辺からそっと必ず魔は自分達を項垂(うなだ)れた美しい水仙のようなふりをして見ているのだ。


人の裏庭を覗いている積もりが本当は自分が見られているだけなのだ。
その''魔"を自覚するかしないかで、自分の中に巣食う魔と対峙出来るかどうかが決まるのだと彩は過去から学んだと思っていた。
先輩は彩にとうとう土下座までさせた挙げ句、結局USBメモリなんて知らないと言い切り、彩は『土下座をしたら思い出すかもしれない』
と言われ、二人きりの事務室の冷たい床に額をこすりつけてした土下座の上からこう言い放たれた。
『吉田さん本当に土下座するのね?
私、冗談で言ったのに、
人が土下座するのって私、初めて見たわ、まるで映画みたい、』
という嗤い混じりの先輩の言葉に彩の脳の深部はヒリヒリジンジンと痺れるようで、彩は口の中全体に薄いグラシン紙でも貼り付けられたかのようにびっしりと喉の奥まで隈無く渇き、そのせいで彩は唾すら飲み込めず、強い吐き気すら感じた。
彩はただただ床にひれ伏したまま、その場に彼女自身の意思とは裏腹に釘付けとなり、
立ち上がる力すら失神したかのように萎え果ててしまった。
先輩は彩に土下座までさせた揚げ句の果てUSBメモリなど知ら
ないとの断言を翻すことは無かった。
会社から彩は責め立てられたが、
警察からは自己破産を薦められ無料弁護士をつけてはどうか?と言われたものの、彩はそれを選ばなかった。
彼女は過去ホステスとして勤めた店のオーナーの紹介で風俗系の店に入り、僅か2年で会社に借金を完済したが、彼女が自己破産を敢えて選ばなかったのは彼女があまりにも深く傷つき、
心が複雑骨折をしたような状態に陥った為、屈折した方向しか選べないようになってしまっていたのかもしれなかった。
だがその後の2年間、彩の心は死んだも同然だった。
彩はその先輩に対して、姉のような好意と篤い信頼感を抱いていたからだ。


その会社を辞めたあともその先輩と街で偶然すれ違うことがあったが、先輩はそんな顔を隠し持った女性とは思えぬ明朗で爽やかで、尚且つ温厚な女性に見えた。
実際、普段の彼女は九分九厘そういう人だった。
最初紛失した彩を責めながらも、
なんとかしようと気遣う先輩は確かに彩のよく知る先輩だったのに段々何か違うものが乗り移っていったのだ。
人間は皆、そうだ、と彩は先輩の、みるみる顔かたちまでもが変わるかのような豹変を、先輩自身でももはや制御不能に陥り、ある種のエクスタシーに近い快楽を感じているのを見て、彩は心臓が凍る思いがした。
その時その先輩に重なって、幼い少年達が捕まえた蝶を動けないようにその脆く美しい羽根をピンで展翅(てんし)して、
虫眼鏡を向けてその小さな蝶の体をじりじりと焼いて楽しむ姿に怯えた彩は泣いて蝶を助けようとして紅美子に説き伏せられたことがさながら昨日のことのように彩の脳裡に甦った。
『止めたらあんたが今度が同じ目にあうよ、それでもいいの?』
『でも酷い!可哀想よ、
ねえお願いやめさせて』
『虫なんだから仕方無いよ、
じゃあ蝶は可愛そうでもゴキブリだったら彩はいいっていうの?
仕方無いよ、虫なんだから、
蜘蛛やバッタやゴキブリや蝶みたいな虫が私達の代わりになってくれているの、先生達も言っているわ、
男の子って子供時代はあんな野蛮なことをするものだって、
あんなことをするのは今だけですぐに目が覚めるようにあんな真似はしなくなるって、
先生達だって昔は蛙のお尻の穴にストローを突き刺して空気を吹き込んでパンパンにはらませて遊んだりしたんだよ、
でも今は此処の先生だって言ってた、』
『そんなのひどいよ!
蛙や蝶が何をしたっていうの?
あの蝶々なんて、ただ綺麗なだけじゃない』
『綺麗だけど…ただそれだけじゃない、
蝶々なんて…だからきっと男子達、苛めたくなるのよ、
でもきっと男子達だけじゃなくて多分人ってみんなそうよ、
こっそり優しい顔の下にそういうの、隠してるだけ、
だから誰かを仲間外れにしたり、
ほら、学校でも虐めがあるじゃない?
去年、校舎の屋上から飛び降り自殺した水絵ちゃんだって…蝶ちょみたいな子だったわ…
可愛らしいけど莫迦でどんくさくてなんにも出来なくて…
自転車も乗れないし水泳も跳び箱もリコーダーも四捨五入も、教科書もちゃんとすらすら読めなくて…
なぁんにも出来なかった、
だから虐められていたのよ』

『…でも私、水絵ちゃんを虐めたりしなかった』彩はしゃくり上げながら抗弁した。
『でも見て見ぬふりしたでしょ?
私達、だから虐めた子達とうちらだって同類だって先生が言ってた…』『先生って紅実子のクラスの?』
紅実子は水絵と同じクラスだった。『うんあのデブの"サスペンダー・伊藤''がそう言ってた、偉そうに』
『先生は…じゃあ…同類じゃないの?』彩は思わず紅実子に真剣に問うた。
『先生は大人だし先生って特別だから違うんじゃないのかな?
水絵ちゃんがシカトされて村八分みたいにされてたこと、本当は知ってたはずだけど…でもきっと悪いのは子供達だけで自分は関係無いと思ってると思う、』
『…そんなの…狡い…』
『狡いかもしれないけど水絵ちゃんは確かに莫迦だったもの、
莫迦は死んでも仕方無いよ、
蝶ちょだって蚊取り線香で死んじゃう蚊と一体どう違うっていうの?』
彩は自分の中で強制的に何かが回ると思った。
その場の空気やその場の流れや、
目には見えぬもので引き寄せられたり回転させられ、踊ったり乱れたり、揺らいだり
ピアノのように調律されたかと思うとまたふっともとの自分に戻るのだ。そんな風に自分をまるでピンボールのように突き動かす''何か''が自分の中に居る『魔』ではないと言い切ることなど彩にはとても出来はしないと思った。


彩はその苦しい追憶の淵瀬から、
今の世界へと何者かの強い力でまるで雷に打たれたような衝撃と共に、乱暴に引き戻された。
目の前のエミリーは自分で自分を抱きしめたまま、ただ蝶のように震えている。
まるで闇路の真ん中で、車のライトに突き照らされて動けなくなり、
その場に凍りついたように立ち尽くす怯えた牝鹿のようでもある。
地面を見つめたままエミリーは絶望の底からもう一度彩を掬(すく)い上げるように見つめ直すとこう言った。
『…彩…私をそんなに質問責めにして貴女は何が愉しいの?


1日三度のご飯時より陰で人の噂をなんの真実も知らずに憶測だけで、するのが何よりも大好きなご婦人がたと貴女も同じ穴の狢(むじな)なのね…』
『ええ、それで結構よ、
何もかも隠されてオープンなものがほとんど無い人とどうやって本当に親しくなれるっていうの?』
『でも…時間が必要だわ…
もう少し待つことは出来ないの?
誰にだって言いたくないことはあるでしょう?
彩はそれを無理矢理抉(こ)じ開けたいの?』
『ええ、そうよ、
でも抉じ開けるって表現は不適切なんじゃないかしら、
私はただ、いろいろなことが知りたいだけよエミリー』
『いずれ時間をかけて少しずついろいろなことをわたしのほうでも彩にだけは知ってもらいたいと思っていたわ…
脂切った無益な好奇心からの質問には私は何一つ答えたくもないけれど…
だって彩…
貴女は違うって思いたかったの…
…でもそれと同時に私の中にずっと怯えがあったわ、だから…』
とエミリーは血の気の失せたラベンダー・グレーに見える唇を噛んだ。
『怯え?怯えって何よ?』
彩はすっかりいきり立ち、制御不能な自分を自分でも感じたが、それすら役に立たない。
私はまるであの日のあの時のあの先輩と同じだ、と彩は思った。
彩の脳裡に抵抗出来ぬようピンで展翅した蝶に虫眼鏡で太陽光を照射し、焼いてゆくことに愉悦を覚え、その蝶の周りに車座となって座る、少年達の残虐な真似をすることへの悦びに輝く顔がまるで卵から無垢な雛(ひな)が次々に孵化するのにも似て、
生き生きと、次々と彩の中で甦り、彩は思わず吐き気を感じた。
彩は今にも世界が壊れた回転木馬のように異常な速度で回り、大海は津波となって押し寄せ、と同時に地面は裂け、足元から自分がマグマの煮えたぎる地獄の底の底へと崩れ落ちて行きそうな気がした。


エミリーは震える唇を噛みしめていたが消え入りそうな声でこう言った。
『本当のことを全て言ってしまえば…彩はきっと私から去っていってしまうだろうと…ずっと怯えていたの、
だって私には…』
『…私には…何よ?』
エミリーはやっとの思いでかすれた声を振り絞るようにして言いつのった。
『…私にはもう…貴女しか居ない…』
吹いてきた強い風に抗うように立ってはいるものの、今にもまるで弱って根腐れした老木のようになぎ倒されそうだった。
『どうやったら帰れるの?
この夢から覚めて…私の世界へ、
私のマンションへ私、帰りたいの、
もうエミリーとは居られない』
『…彩…私をもう…愛してないの?』
エミリーの声は彩の耳には情けないほど弱々しく稚拙にすら感じた。
『そんな恥ずかしいことよく聴けるわね?
信じられないわ、
エミリー、もっと誇りを持ったらどうなの?』
怯え、惑い、揺れる心とは裏腹に彩の言葉は病的なほど誇り高い。
でも同時にそれはどうしようもなく虚構の匂いがする。
彩の中でもうひとりの彩の声が遠くで聴こえた。それはこう言っていた。
『誇り?誇りですって?
笑わせないでよ、彩
そんな世俗にまみれた誇りは人を支配する時にしか役に立たないのに、彩、貴女それ本気で言ってるの?
貴女の欲っしているものはそんなものじゃないはずでしょう??』
だが今の彩にはその声はさながら防水布の上をコロコロと光りながら、虚しく駆け回る水滴の玉のように固い防水布の表面だけを右往左往し、その内側へは決っして滲み通ってゆかないのだ。
魔は防水布なのか?
それともその水滴のほうなのか?
もしかしたらその声に従わないほうが彩の生活を救うかもしれないのだ。

エミリーはまだ会話を終わらせたくないのか相も変わらずひとつのことにこだわったら、ずっと言い続ける傾向があるようだ。
彼女はげんなりしている彩には気づかずに言った。
『彩、私を本当にもう愛してはいないのね?
でも…彩、愛することは私の誇りよ、だって…それしか私には…もう誇れるものはさして他にありはしないんですもの…』

『……』
『恥ずかしくてもカッコ悪くても、みっともなくて情けなくても…
そして…貴女に迷惑をかけて…
…でも弱いものを愛し、ねぎらうことは私に力を与えてくれると思っていたの、猫達を愛し育むことのように…。
…それなのに私の愛は貴女を苦しめていたのね…』
眼鏡の奥で雪の結晶のような光が綺羅めいたかと思えばエミリーの今や白墨のように白い頬の上を蒼い泪がひとすじ流れ落ちた。
それは固く凍りついた地面に硝子が砕けるような音を立てて落ち、落ちたとこから唐突に一輪の蒼い花が芽生え、揺らぐように立ち上がり背筋を伸ばしてその臺(うてな)を空に向けた。
エミリーは風に吹き飛ばされそうな細身の肢体でその場にかがみ込むと、その咲いたばかりの蒼い花を、風から守るように手のひらをかざしながら、そっと摘み取り、彩へと手渡すと、
彼女は言った。
『野原を真っ直ぐ踏破してそしてさっきの森へ入れば帰れるわ、』


『でもあの森は』
『大丈夫よ、あの少女は私が追い払ったから当分、姿を現すことは出来ないわ、
今はもうあの扉も無い、ただの森だから安心して、
森を抜けたらうちが見えてくるわ、『ビューティフル・ワールド』がね…そのビューティフルワールドの門から外へ出てゆけば…
貴女はもう…』
と言ったエミリーは泪を飲んでその先は言葉にならなかった。


『…解ったわ、…ごめんなさいエミリー私、無理だった…
やっぱり無理だった…私みたいな低い人間にはしょせん無理だったのよ、
ここは理想郷だったけど…私は現実を生きるただの人でしかないの、
だからもう限界なの、どうか赦して』
彩はそう言うとエミリーに触れようとしたがエミリーがそれを風に揺らぐ樹の枝のようにわずかに避けた。
『その花が私からの彩への最後の贈り物よ、さようなら彩…』
『これがブルーベルなの?』
『ええそう、私が一度も見たことのないイギリスの花よ』
『……さようならエミリー、
今度こそ本当にお別れね…』
彩はそう一言言い置いてブルーベルの花一輪を手にしたまま、森に向かって野原を歩き出した。
森へだいぶ近づいた時、遥か彼方でエミリーの泣き叫ぶような声が風に乗って聴こえたような気がして彩は森の手前で荒れ野の急勾配の上を、見上げた。
エミリーはただ自分で自分を抱きしめて白いネグリジェ姿で渦巻く風の中を立っていた。
彩はその姿をちらと一瞥したきり、森の奥深くへと入っていった。
しかし彼女の耳にはエミリーの風にかき消された声はちゃんと届いていた。
『彩!貴女を愛しているわ!!』

もはや彩の胸にはその言葉は渇いた残滓のようでしかなく、その深部へと届くことは無かった。


彩の心は固い防水布ですっかり覆われていたからだ。
エミリーは彩の姿が森奥の繁茂の陰に完全に消えて無くなるのを見届けて荒れ野に崩れ落ちるように膝を折って倒れ臥した。
風が壊れた笛のような音を立てて、吹き荒れる中、エミリーの泣きむせぶ声は完全にかき消された。

(To be continued…)

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