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小説『エミリーキャット』第62章・灰色の空と碧眼と

ケンイチとエミリーは急に吹いてきた冷たい師走のつむじ風をよける為、廃屋のマンションの公園へ行くとそこに在るドーム型の遊具の奥へと這入り込んだ。
そこはエミリーと初めて逢った時ケンイチが云った例の“秘密基地”だった。その遊具は巨大な茄子の形をしており、色もいわゆる茄子紺で全体的にテカテカと艶があり、ところどころ濃いその青紫の塗料が剥げ落ちてはいるものの、
漆黒のガクを頭に乗せてやや反りくりかえった外観も非常にリアルでその為、
ややグロテスクですらあった。

今やマンション群のほとんどが何故か空き部屋で、何棟かは完全に廃屋化してしまっているというが、その理由は誰にも解らなかった。

見るからに裏寂しいそのマンション群には一つの棟にまるで集まるようにして2、3家族しかもう住んでいないという。
その僅かなマンションの住人ですら近づきもしない公園は薄気味の悪い遊具の為であろうとケンイチは思っていたが誰も来ないのは彼にとっては好都合だった。

彼は72にもなって時々この薄気味の悪い茄子びの中にこっそり独り入って、苦労が多くすっかり丸ごと抜け落ちたかのように失われてしまった少年時代を遊具の中へ籠(こも)って何をするでも無いものの、ひっそり取り戻すような気持ちとなったりすることがあった。
そこへ自分の孫のような歳の少女を呼び寄せるのだからケンイチは、老いてすっかり薄くなった老骨という言葉がぴったりの胸が昻まるような気がした。

ケンイチは中年期はそこそこ中肉中贅の体型であったが60歳くらいから自然痩せ型となり、
もともと小柄なほうであった為にその無駄に巨きな遊具のトンネルを潜り抜けて奥へ這入るなど大人であっても容易いことであった。
ケンイチは家から持ってきた膝掛けなどに使う薄手だが目の詰まってしっかりとした織りの簡益毛布を拡げるとエミリーに座るよう薦めた。
ケンイチはこんな薄暗くて狭い場所で今この目の前の少女に異性としての不安感を与えはしないかと危惧したが、疑うことが生まれつき不得手なエミリーは『おじさんも毛布の上へ座ったら?
だってこれおじさんの毛布なのに、お尻が冷たくなっちゃうわよ、』
と言いながらも遊具の中でショートケーキとドライフルーツの入った小さめのパウンドケーキを一切れずつ紙皿に置いて回し渡すケンイチの手からそれを嬉々として受け取るエミリーは暗がりの中でその小さな顔を闇夜に浮かぶ夢見る窓灯りのように輝かせた。

ショートケーキの上に立つ、か細く捩(ねじ)りん棒の真紅と黄金(きん)いろの蝋燭へケンイチはこの日の為に買ったばかりの百円ライターで火を点もすと
『さあ何かお願いごとしてごらん
でもなるべく早くね、
そう心配は無いはずだが、ここ通気性があまり良くはないようだから…』
『お願い?』
とエミリーは午後でも灰色の薄闇の中で白い花弁が解(ほど)けるように笑うと言った。
『まるでお誕生日みたい!』
『そうだよ、
だってクリスマスはイエス様の生まれた日なんだろう?
クリスマスの語源は“キリストが生まれた“って意味があると昔、母から聴いたよ』
『そうなのね、私は“キリストのミサ“って意味だってパパから聴いたわ』
『きっといろいろと言われているんだね、プロテスタントとカトリックだけでもそんなに違うんだから…。
実はキリストの誕生日は夏だって説もあるらしいが、でもそんな学説なんかどうでもいいことじゃないか、
大切なのは多分イエス様が生まれたことを今こんな時代でも地球上でいろんな国や年齢やいろんな肌や瞳のいろや手足の無い人や手足があっても不自由な人達や…
そのみんなが祝うたった一つの…
その気持ちなんだから、』
『おじさんはイエス様を信じているの?』
エミリーはケンイチの淹れた濃くて既に生ぬるい焙じ茶を水筒の蓋から飲みながら驚いたようにケンイチを闇の中で見澄ました。
『…う~ん…どうかな…?
偉そうなこと思わずエミリーちゃんの手前言っちゃったけど…
おじさんはね、
エミリーちゃんより、もう少し小さい頃にお母さんを病気で亡くしてね…
そのお母さんがクリスチャンだったんだよ、だから…そうだな…
それだけ普通よりは影響はあるのかな、
そんな積もりは無いんだけどね、でも幼い頃お母さんに連れられてよく教会へ行っていたし…。

だからと言って決っしておじさんもおじさんのお母さんと同じクリスチャンってわけじゃないんだけどね、
洗礼もお母さんが望んでくれていたから受ける予定ではあったけど…その前にお母さんが亡くなって…
何となくだがおじさんは教会から離れてしまったんだよ…お父さんやその後添いさんも信者さんではなかったのも手伝って…
変な言い方だが洗礼は沙汰止みとなったような感じだった…』
『クリスチャン…
じゃあ…おじさんのママはプロテスタントだったのね、
だってカトリックはクリスチャンとは言わないわ』
『そうだね、カトリックはキリスト者だっけ…?
エミリーちゃんはなんでそんなことを知っているの?
エミリーちゃんはカトリックの信徒さんかい?
そういやパパにクリスマスの意味を教えてもらったって言ったね』
エミリーは少し困ったような顔をして心許なげに肩をすくめるとこう言った。
『…そう、パパがそうなの…
でも私もおじさんみたいにパパに連れられてよく教会へ行っているわ、私も子供の学びに参加しているけれど…でも本当のこと云うと、私、よく解らないの…
神様が本当に居るのかとかよりも…私は神様から愛されているのかしらとか…考えたらいけないようなことばかり思い煩ってしまって…
教会へ行くことがなんだか苦しくなってしまう時があるわ…』

ケンイチはエミリーが時折、ハッとするほど深刻な青痣やまだ治り切っていない傷痕を袖や襟を長く引っ張ったり、絹のような長い髪で隠していることを知っていた。
もしかしたら洋服の下にはもっと深刻な負傷をこの少女はひた隠し
、心に負った更なる深い傷までもをただ独り小さな唇を噛んで隠忍し続けているのかもしれない、

『そうなんだね…』

ケンイチは遊具の中の壁に自分達が造る影がさながらフットライトに照らし出されたように映り、
小さな火影(ほかげ)に思いもかけぬほど巨きくそれが揺らぐのを見ると酷く悲しい声でこう言った。
『エミリーちゃん、
そんなことは今は考えずに…
さあ、何かお願いごとして、
それが叶うように僕も祈るよ』
そして更に彼は悪戯っぽくこう、つけ加えた。
『早く蝋燭吹き消さないと空気が悪くなっちゃうかもしれない、
そしたら僕らここで倒れて発見されて、厄介なことになるぞ?
ヘンな親子心中と思われちゃう、おじさんはエミリーちゃんとなら嬉しいけどエミリーちゃんはそんなのはやだろう?』
そう言うとエミリーが声を立てて可笑しそうに笑ったのでケンイチはまるで自分も少年に返ったように嘘でもなんだか楽しくなった。

こんなとこでエミリーと分かち合う短い時間はお互いの辛い現実に対してなんの益にもならないが、そのぶん確実にこの誰も知らない異空間での時間を豊穣なものにした。
それはまさに少女と老人の為だけに榮える小宇宙だった。

『いいわ、消すわ、お願いごとをしたらいいのね、
でも蝋燭の炎があんまり綺麗で、なんだか消すのがもったいないみたい、私もう暫くこの可愛らしい蝋燭の焔を見ていたいわ、
だってここ、冒険めいててとっても素敵なんだもの』

蝋燭の炎で遊具の中は仄かなオレンジいろに明るみ、その中でエミリーは白く清冽な歯並びを見せて笑った。

『エミリーちゃんの眼鏡、
蝋燭の炎が映ってとても綺麗だよ、見せてあげたいな、
美しいエミリーちゃんの美しい眼鏡は、まるで夕映えを映したドナウ川のキラキラと輝く川面(かわも)のようだ』
とケンイチは少女を喜ばせたくて出来うる限りのロマンチックな言葉を尽くした。
『ドナウ川?素敵ね!』
ケンイチが深く頷いたと同時に、エミリーは一瞬焔が反射する鏡のような眼鏡の奥でその瞳を閉じて願(ね)ぎごとを心の中ですると、
目の前の蝋燭の炎を小さく棚引くように音も無く吹き消した。
『よおし、じゃあおじさんも!』
とケンイチが自分のぶんの蝋燭を吹き消すとふたりは闇の中で顔を見合わすと肩を揺すって声も無く笑った。
『私の蝋燭は真っ赤だったわ、
とても綺麗なクリスマスらしい赤、ドナウ川も真っ赤かしら』
『ドナウ川が真っ赤ってことはないだろう、"美しき青きドナウ"って云う曲があるくらいだからね』
『そうね、でもおじさん、
さっきこう言ったじゃない?
夕映えを映したドナウ川って』
『うんそうだね想像してみたんだ、さぞ美しいだろうなってね』
『もしかしたら熟れた杏のようにドナウ川は赤い水をとうとうと流しているかもしれないなって私も思ったの』
『それは素晴らしい、
美しい表現だなあ、
エミリーちゃんは詩人だね、
でもおじさんはドイツなんか行ったことないからただただ想像でなんとなくそう言っただけなんだよ』

『そうなの?』
『ドイツの人と親友同士ではあったんだけどね』
『ドイツ?
ドイツってジャーマニイ?
何故、ドイツ人とおじさんは親友なの?
ドイツに行ったことが無いのに…』
『今も親友なんじゃなくて…
親友だったんだ、
ミヒャエルはもうとうの昔に亡くなったからね、
おじさんとそのミヒャエルは、
ロシアの北の最果てにあるシベリアってとこで出逢ったんだ、
出逢った時から兵隊の中でも同じ立ち位置に居た者同士すぐに意気投合して互いに英語が片言話せたからいつも英語で対話していて…
それ以外でも向こうがドイツ語を喋り、僕が日本語を話しても何故だかお互い何を言っているのか不思議なほど解り合えたんだ。
彼のほうが僕より八歳も歳上だったんだが、まるで兄弟のようにいろんな意味で僕らは通じ合えたし
シベリアでの歳月と共にその親交を深めることが出来た、
他の日本兵とドイツ兵やイタリア兵との間でそんなまるで戦時中とは思えないような親密な関係を築く人間は他には居なかったんじゃないかな、
みんなそれどころじゃなかったはずだからだ、
僕とミヒャエルはそういう意味ではきっとどうかしていたんだ。

あんなところで友情を暖めていたんだからね、
帰国が決まった時、懇情の別れを互いの国の硬貨を交換してまで惜しんだが僕らはよほど縁が深かったらしい、
戦後何年もしてから僕らは東京で思いもせぬ再会をした…
全く思いもせぬ…それはまさに運命の再会だったんだよ、

でも僕達の出逢いの根底はやっぱりあのシベリアの恐怖と飢えと屈辱と極寒の記憶からまるで本物の兄弟の逃れようのない尊くて同時に痛ましい血脈のように始まっているんだ、
それは僕らにとってはルーツでしかない、
たとえ消したくとも芯が残って消し去ることの出来ない、
まるで刺青のようなものだ、』
『…シベリア?』
『シベリアってエミリーちゃん、知ってるかい?』
エミリーが小さく頭(かぶり)を振ると、老人は遊具が造る闇越しにも解る白い吐息と共に微笑むとこう言った。
『そうか、そりゃそうかも知れないな、エミリーちゃんのお父さんはイギリスの人だって言ってたよね?お父さんは戦争へは行かなかったのかい?』
『お父さんのお兄さんは行ったわ、アンブローズっていうのよ、とても大好きな人、
でも私のお父さんは戦争の時は、まだ少しだけ歳が足りない子供だったから』
『ああ、そうか、そうなんだね』

とケンイチは頷くと『エミリーちゃんのお父さんはそんなに若い人なんだ、これはジェネレーションギャップかな、
僕はエミリーちゃんのお父さんのお兄さんとのほうが世代的にはもしかしたら話しが合うかもしれないね』
エミリーはケンイチから手渡されたプラスチックのフォークでケーキを切りながら言った。
『シベリアってロシアって国の街なの?どんな街?
綺麗なところ?』
『う~ん…街じゃないな、』
とケンイチは苦笑を漏らしながらケーキを鷲づかみにすると、
ぞんざいにまるでパンを食べるように口へと運んだ。
『ワシントンみたいなところかしら?
なんだかそんな気がする』
『残念ながらそんないいところじゃないよ、ワシントンがどんなところかは知らないけれど、
でも少なくともこれだけは言える、
シベリアは馬鈴薯も育たない氷雪で凍てついた…
他にはなんにも無い場所さ、
少なくとも僕らが抑留されていたシベリアはそういうところだった。
シベリアだって収容所からもっと離れたところには、貧しいが優しい親子の棲む寒村や小綺麗な街や森や海や…
いろいろよいところも無論あるんだろうが…
少なくとも僕ら俘虜が居たところは…
果てしのない雪と氷に閉ざされた死の土地でしかなかった…』
『死の…?』
エミリーはケンイチの真似をして食べかけのケーキを鷲づかみにしして、口へ運ぼうとしたが彼女のその手は闇の中で止まってしまった。

生クリームのヴァニラと乳脂肪とが放つ甘く濃厚な匂いと苺の甘酸っぱく新鮮ゆえに歯が浮くような香りとが今しがた消したばかりの蝋燭のまるでクレヨンが焦げたような油脂臭へと混じり合い、
茄子びの中は寒いが、まるで小さな家庭の室(へや)の中に居るようにふたりは感じた。

それと同時にその匂いは説明のつかない郷愁を歳の離れたふたりの間にごく自然と起こさせた。
その匂いと薄暗く狭い遊具の中でふたりはその匂いと空気を大切なものを共有するかのように大きく嗅いだ。
ケンイチにとってそれはまるでエミリーとふたりきりの世界だけにある稀有な空気のようで、他には誰も吸うことの出来ない幸せな孤独であり、それは暖かく豊かな闇の中の日溜まりでもあるような気がしたからだ。

その暖かい幸せな孤独を噛み締めてケンイチは言った。
『僕らは俘虜(ふりょ)としてそこに居たんだ。
俘虜というのは捕虜のことで…
要するにお互いの国同士の人質みたいなものだ、
僕らはロシアで俘虜だったが、
日本で俘虜となったアメリカ人やイギリス人や…外国人も居たんだからね、
戦争中、日本兵とドイツ兵はシベリアの俘虜収容所に抑留されていたんだが劣悪以上のあまりにも苛酷な環境で、衰弱して死んでゆく人間が大勢いたんだ』
『ヨクリュウ?』
『そう、閉じ込められることさ、僕達は囚われて逃げ出すことも叶わなかった、
中には逃げ出そうとした人も居たようだが…
それはあまりの寒さと飢えとで気がふれてしまったんだろう、
逃げたところで逃げ切れてどこかへ辿り着くような処じゃないからね、そんなこと誰でも解り切ったことさ、
どこまで行ってもどこまで逃げても…僕らが抑留されていた場所は凍てつくばかりの大雪原と後は氷ばかりだったんだ、
それに本気で逃げたりしたら、
たちまちロシア人に撃ち殺されてしまう、』

『……』
『ごめんよ、エミリーちゃん、
エミリーちゃんがこんな話はもう辛いというなら、おじさんは戦争の話はもうしないよ』
『いいえ、私、聴きたいわ、
それによく知りたいの、
だって私、そういうことをなんにも知らないんですもの、
きっと知っておいたほうがいいことなんだと思うわ、
教会での学びと同じように、
きっと知らなきゃならないことも沢山あるはずなのに
なんにも知らないで暮らしているってきっと…
本当はとても残念で悲しいことよ、』
ケンイチは深く傷ついたぶん聡明な少女の頭を撫でるとゆっくりとした口調でまるで父親か祖父が優しく言い含めるようにして話した。
『おじさんはね、背は低いがこう見えても戦争中は何故だか将校だった、』
ケンイチはここで小さく自嘲すると『おじさんが将校なんかになれたのは多分おじさんが昔は、
とても有数校のうちの一つだった米沢大学を卒業した工学エンジニアだったからだろう、
当時はまだ大卒の人間が少なかったから、大学を出てるというだけで他にはなんにも無いおじさんなんかを将校にしてくれたんだと思うよ、
馬鹿馬鹿しい話なんだけどね』『将校ってリーダーのこと?』
『そうだね、将校というのはひとつの隊をまとめる役目の…
要するに学校の中の級長さんみたいなものだ、
中にはとんでもなく根性悪の将校も居たがね、おじさんは少なくともそんなんじゃなかったと思ってはいるが…しかしまあ、自分じゃ自分のことは人間解らないものだから…案外おじさんのことを嫌っていた部下も居たかもしれないよ?
でも将校というのは世界で取り交わした約束で肉体労働をさせては、
いけないって規則があったから、
おじさんはシベリアにはいたものの、
他の若者達に比べたらそう若くはなかったせいもあってかまだずっと、扱いはましなほうだったと思うよ、
少なくとも本来ならロシア人がやるはずの森林の伐採作業へロシア人の代わりに他の兵士のように駆り出されずには済んだんだからね、それだけでもおじさんは恵まれていたと思うよ、
俘虜の中でも特別扱いだ。
でも当時は…いや戦争が終わって何年経ってもおじさんはそれを認めるのは酷く辛かったがね、』
『バッサイって何?』
『木を切り倒すことだよ、
シベリアは極寒の地でなんにも育たないとこだがそんなとこでも凍てついた森はあるんだよ、
その森に生息する主に針葉樹の刺々しいような巨きな木を次々切らされるんだ、
それだけじゃない、
毎日それを橇(そり)に乗せて移動させて運ばなくてはならない、
橇ったって寒さに強くてたくましい犬達が運んでくれるわけじゃない人間が引き摺って運んで橇へ乗せると、その橇をまた人間が犬のように引き摺って運ぶのさ、
ロシア人の工場やロシア人の家庭の為に我々は体(てい)よく使い捨ての出来る日本のではなくロシアの社会的資源として使われたんだ、
それだけ奴らは日本兵に恨みつらみが深かったのさ、
ここで会ったが百年目とばかりに日本兵をこき使って、挙げ句の果て飢えと寒さで死ぬ日本人が後を絶たなかったが…
そんなことは連中お構い無しさ』

『……ロシアの人と日本人とは仲が悪かったの?』
『前の戦争はね、
第二次世界大戦といって日本は負けたんだ、
そしてその前の戦争に日露戦争というのがあってね、
日本とロシアが戦って日本は勝ってしまったんだ、それで天狗になったのが拙かった、
まあこれはおじさんの個人的な思いでしかないから他の人はまた違う気持ちかもしれないが…
第二次世界大戦では僕はね、
どうせ負けるだろう、負け戦(いくさ)に決まってるのに将校だなんて阿呆らしくもないだなんて内心は思っていたんだ、

でもミヒャエルは違っていた、
ドイツが負けるはずが無い、
ドイツもイタリアも…
日本なんて金魚の糞みたいに両国にくっついてはいるものの頼りにはならないだろうとは思ってはいたらしいがそれでも頭脳戦では馬鹿と鋏は使いようだ、
使い勝手は決して悪くはない貧乏な相棒くらいには思われていたようだ』
そう言いながらもケンイチはむしろ朗らかだった。
『戦争に負けたことを知った時、僕は芯からホッとした、
だってやっとこれで日本へ帰れるって思ったからね、
もうこの慢性的な飢えと、逃げようのない寒さと凍傷の心配を朝、目覚めた時から夜眠る時まで常にしていないとならないあの生き地獄からそしてあの灰色したロシア人の眼からも逃げられるんだから…
日本へ帰るとみんなロシア人は碧眼だったろう?だなんて言うもんだから時々喧嘩になることさえあったよ、
何が碧眼なものか、
ロシア人はみんな何故だかシベリアの鉛色した、あの空のように灰色の眼をした奴らばかりだったよ、
どっちにしろもろ手を上げて僕は内心、それこそイエス様だか神様だか仏様だか誰だかに、万歳三唱したほどだった、
やった!敗けた敗けた!
これで清々(せいせい)した、
お陰で日本へ帰れるってね、

森林伐採で樵(きこり)の経験なんざまるきり無い若者達が、自分達が切った木の下敷きになって死ぬことももうない、
そんな青年達の衣類を将校の僕が伐採作業を免れているから洗って着るんだが…
葬られる時は死人に口無しで、
同時に死人に服無しはシベリアじゃ当然のことだった。
下敷きとなって圧死した時どこかが傷ついたんだろう、その時の兵士の血のついた服は洗えば生きている僕らがいくらでも着ることが出来る。
死んだ人間が貴重な衣類を着たまま地中に埋もれるだなんて極寒のシベリアにおいてこんな勿体無いことはないからね、僕らは追い剥ぎよりかは死んだ人間から衣類を奪って着るだけなんだからずっとましだと思っていたよ、そう思わなければ頭がますますおかしくなってしまう…
飢えて弱って死んでゆくか、
発狂してロシア人に撃ち殺されるか、自分や仲間の伐った木が倒れてくる方角を読み切れずにその下敷きになって死ぬか、
…シベリアじゃそのどれかしか無い、

当時の僕はそう思って絶望していた。先の見通しなんてものはあんなところに居ては全くたたなくなってくるんだ。
戦争に日本が敗戦すれば帰国出来ると頭で解ってはいても歳月は一年中寒いことが圧倒的なシベリアでどんどん流れてゆく…
もしかしたらこのまま帰れないのではないか?って…
どんどん病的な視野狭窄に陥って日本の地を再び踏まぬうちにシベリアで死んで…
自分が衣服を剥ぎ取って疲弊のあまり荒々しいほどぞんざいに葬った若者達のように自分もやがてここで死んで、自分がしたのと同じように裸にされて冷たいシベリアの地面の下へ葬られるのではないかってね、

屈強だと思っていたミヒャエルまでもがまるで日本人と似たり寄ったりの弱音をよく吐いていたよ、
僕はそれまで当時の日本人らしく単純に"ドイツは世界に冠たる国"で強く知的な国民性だと勝手に思い描いていたが、ドイツ人も日本人もあんな境遇に居ればみんなおんなじになる…
ドイツ人だから世界に冠たるだなんて日本の田舎の青年が抱いていた薄っぺらい幻想でしかなかった、
それでも善良なミヒャエルは…
“おいケン、俺を葬る時は服はお前にくれてやるから他の日本人やドイツ人にはやるんじゃないぞ、
俺は死んでもお前を暖めてちゃんと日本へ帰してやるからな"
なんて言ってくれたよ、

死んだ兵士達の衣類を洗う時、
ミヒャエルも将校だったから、
よく同じ話題になったものだが…
僕ら将校達は日本兵もドイツ兵も皆そうなんだがもう人としての何かがきっと麻痺してしまっていたんだな…
血の臭いなんてどんな人間が流したものであっても皆、同じような臭いがするんだが、それはなんともいえない臭いだ、
それは恐らくどの国の人間も皆、同じで不思議だがあまり臭くはないんだよ、
きっと今なら臭いだ不快だとか感じるんだろうが、あの時はむしろ…
ある種、変に聴こえるかもしれないがね、
食欲を刺激してしまうような独特の匂いだった…
これはみんな飢えていたから感じてしまう人間の生理的な現象だったんだろうが、おじさんもだがミヒャエルもこっそりとその衣類に染み着いた…でもまだ新鮮な部下が流したばかりの血の臭いに鼻を押しつけて強くそれを嗅いでは、
どうにも治まらない慢性的な辛い飢餓をまるで血のしたたるステーキ肉か、新鮮な赤身の刺身を喰らう思いをよぎらせて、その飢えという苦しみの本能をまぎらわしていたんだ、』

エミリーが薄闇の中でもそうと判るほど蒼い顔をしたのを見て
『おや、ごめんよ、
エミリーちゃん、そんな顔をしないでおくれ、
おじさんのことが怖くなってしまったかな?もうこんな話しはやめようね』
『いいえ、そうじゃないの、
私、おじさんが可愛そうでならなくて…
だってアンブローズおじさんもフィリピンで日本人と戦ったのよ、何人も日本人を殺めてしまったとおじさんは嘆いていたわ、
だからアンブローズは今もずっと祈っているの、神様に…
自分が殺してしまった日本人の魂が救われるようにって』

ケンイチは思わずエミリーを抱き締めるとこう言った。
『エミリーちゃん、僕らはね
だからこそ祈り続けていなければならないんだよ、
二度とあんなことを繰り返さないように、
だけど人間はよほど戦争するのが好きなようだ、
争(あらそ)うのは人間のサガなんだな、
でもそれを人間がよく知っておけばもしかしたら…』
と言ってケンイチは沈黙した。
『…もしかしたら?』
とエミリーが問うたが、ケンイチは何も言わずただ首を振って悲しげに微笑んだだけだった。

老人はエミリーを自分のコートの中へ招き寄せると親鳥がその大切な卵か雛を暖めるようにそのコートの前を閉じた。
遊具の中で低く小さくふたりで声を揃えて歌う聖歌はふたりの上にしんしんとさながら雪のように降り積もった。

そしてケンイチは痛む胸の内に閉じる老いた瞼(まぶた)のその裏に、辛い記憶しかないあのシベリアで見た忌まわしくも呪わしいと感じて見たあのオーロラの記憶が、
まるで今際(いまわ)の際であるかのように鮮やかに蘇った。

『エミリーちゃん!
おじさん、今ねずっと忘れていたあることを急に思い出したんだ、きっと君のお陰だよ、
おじさんシベリアで酷い目にあったがひとつだけいいことがあったってね』
『いいこと?』
『いいことかどうか解らないが、今になってみればこうして君に語ってあげられる少しだけでも素敵なことかもしれないよ?』
『それは何?』
『おじさんね、
シベリアでとても美しいものを見たんだよ、
オーロラを見たんだ、
オーロラなんて普通の日本人は一生で見ることなんてまずは無いだろうな、
おじさんはオーロラを当時は気味の悪い忌まわしいものとして感じていたが初めて見た時はその壮麗な美しさに感動したものだった、
シベリアでの初めての冬の夜に"それ"を見たおじさんは何故…
どうして"それ"を忘れてしまっていたんだろう?
自然がただ時折、無条件に人に見せることに人間の起こした戦禍の罪なんてありはしないのに、
僕はオーロラをあまりに美しいからでもあったからなんだろう、
不気味で忌まわしい何か良くないことの兆候のように感じていたんだ…

二度目にオーロラを見た時おじさんは日本が敗けたと知った日の夜だった…
おじさん敗けて清々したなんて口では言ったがね…
それと同時に本当はとてもショックだったんだ、
かててくわえておじさんは当時駐屯していた満州から直接、帰国出来ると思い込んでいたのにシベリアなんかへロシア兵に連れてこられてしまって…
ああこれでもう日本人はロシアに犬の無い犬橇代わりにこき使われて、この凍りついた地で霜枯れした埋もれ木のように死んでゆくのかもしれないなんて思いながら、僕らは結局三年間もそこで生き長らえた…

だから戦争に負けた時やっと帰れる、そう思って嬉しいはずなのにおじさんはどうしようもなく悲しくて虚しかったんだ、
それだけじゃない、
怖かったんだ…

将校だったおじさんは肉体労働は免除されて自分の食べるぶんの野菜を自分で育てる権利まで特別に附与されていたがね、
実際には日本兵全体にもともと犬の餌でもまだましだろうと言いたくなるような食料すらジリ貧になり、ゆき渡らなくなってきてしまい…“お前は条約上守られている立場なんだからせめて自分のぶんは自分でなんとかしろ“とロシア側は言いたかったんだろうが、
あんなカチカチに凍りついて痩せた土地では、馬鈴薯どころか日本の丈夫な牛蒡ですら育ちはしないよ、それでも特別免除のこの僕は生き残って日本へ帰ることが出来た…
帰国した時、他の一兵卒達は僕を見て一体何を思ったのだろう?
自分だけ苛酷な肉体労働を免れて
…その為重い病いや怪我さえ免れることが僕は出来た…。
そんな僕は伐採の時に死んだ僕より若い兵士達の血のにおいを嗅いで密(ひそ)かに飢えをまぎらわしていたんだ…
でも本当は彼らの魂を食べていたんじゃないかと思うことがある…
実際フィリピンでは、仲間を殺してその肉を食べて生き残った兵士達も居たが僕は違う、
血のにおいを嗅いだだけだ、
そう思って生きてきたんだ、
でも…仲間の身体を食べるよりも、もしかしたらもっと罪深いことがあるかもしれない、
それは相手の魂を食べることだ。

でも時折あり得ない黒い幻想を抱くこともおじさんはあるんだ。
それがおじさんの睡りをよく悪夢で破ることがある。
…もしかしたらあの固い凍った地面を他の将校や憲兵や若い兵士達と混じって掘って部下の兵士達の遺体を埋めたその体力は、一体どこから来たのだろう?と…
自分で自分を疑うことがある。』

『…おじさんは…仲間の身体を食べたの?』

エミリーの純一な問いにケンイチは答えられなくなった。
『いいのよ、もしそうだとしても…だって今おじさんは生きて私の目の前に居てくれるわ、
それは今、私の心をとても慰めてくれているのよ、』
『…エミリーちゃん』
『でも私、おじさんはきっと食べていないと思うわ、
なんの根拠も無いけれど私はそう感じるの、
おじさんの“色"で解るのよ、
でももし仮に食べたとしても、
そうしておじさんの血肉となった人達はおじさんと共に日本へ帰れて今ここにこうしておじさんの一部としておじさんの人生を共に生きていて…
きっとそのことをとても喜んでくれていると思うわ、』
ケンイチは自分がいつの間にかエミリーからまるで卵か雛鳥のように優しく愛撫されていることに気づいてふと遠い日の母の温もりを思い出した。
『…でも今思い出したんだ、
エミリーちゃん、
君にそう言われて…
あの夜見たオーロラは忌まわしくなどなかった…
極めて美しかったとね、
きっとオーロラはいつも美しかったんだろうがあんな時、
人は大自然を前にしてそんな気持ちなど湧きはしない…』

『そうね、きっとそうなんだと思うわ、
むしろきっとそれが自然よ』
ケンイチはすっかり白髪となったその髪を優しく撫でられながら、エミリーがまだ少女であってもあまりの苦労ゆえに酷く老成してしまっていることを今更知った。

『でも今このすっかり老いた頭に浮かぶあの日のオーロラは確かに美しかったんだ、と今なら思える、オーロラだけじゃない、
星空も雲も、
吹きすさぶ風の中、揺れる雑草に咲く寒気にひね媚びたように縮れて咲く哀れで醜い春の花すらも…
シベリアで見ればニッポンの可憐な小菊の花に似て見えたものさ、
その花と同じで…僕の青春も、
僕の過ぎ去った若い日々も、
どんなに苛酷な中にあっても無かったわけではなかった、
悲惨だったとしても確かにそこに在ったんだとね…
おじさん君のお陰で今日そのことにやっと気がついたんだ。』

『おじさん、
私は何もしていないわ、
私じゃなくて本当に力があって優れているのはおじさんのほうよ、私にそんな心の力は無いわ』
『いいや違う、エミリーちゃんに全部話せたから僕は…僕は…』
『…おじさん…』
『メリークリスマス…
メリークリスマス!
ねえエミリーちゃん?
生まれて初めての今日はおじさんにとっての本当のイヴだよ、
その意味、君にも解るだろう?
エミリーちゃんから貰った今日は聖なる1日だ、…有り難うね』
奇異の眼で見られてばかりの誰からも褒められない孤独な少女は、暗闇の中で嬉しそうに泪を流してただ小さく頷いた。

ふたりは不気味な遊具の中でさながら疑似親子のように寄り添ってお互いの悲しみに折り合いをつけるかのように偶々(たまたま)知っていた聖歌を辿々しく口ずさんでいたが、遊具から外へ出ると雪が本当にしんしんと音がしそうなほど沈黙を持って降ってきた。

最初その空はケンイチが知るあの鉛白(えんぱく)を流した水のように薄灰色のロシア人の瞳さながらに白濁して見えたが、その低く垂れ込めた雲間から幽かに清んだ青空が雲間から覗く巨大な碧眼となって一瞬ふたりを驚いたようにまばたきしてギョロリと見つめ返した。

やがて碧眼は眼だけで深く頷くと
退き、そこからやがて小さくて巨きな様々の色の、様々な本数の指を持つたくさんの手が忙しげに、
わいわい言いながら天使の梯子と呼ばれるあの光の帯を裾引く布のようにそろそろと地上へ下ろした。
やがてそれはイヴを迎える都市に吹く冷たい風に吹き流しのようにしょうことなくやれやれと言った感じで揺らぎ出した。

そしてそれはやがて地上へ射す円錐形の光となってごみごみとした街の上へと降り注ぎ、雪はそれを反射して急にダイヤモンドダストのように光輝き始めた。
すると様々の種(しゅ)の様々な容(かたち)を持つ手はやっと安堵したかのように雲間の奥へと消え去った。

そして更にその空から決して目には見えないあの日のオーロラが巨きくゆったりと血潮の滲む尊い人の、あるいは尊い人達の衣のように翻(ひるがえ)るのをふたりは丘の上に立ち、“それ"を見つめ続けた。




…to be continued…

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