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小説『エミリーキャット』第46章・Gloomy Sunday・暗い日曜日

目覚めて彩は暫く自分が今居る場所が一体どこであるのか、咄嗟に理解出来ずに思わず惑乱した。

金曜日に訪れ、エミリーから自由に使ってよいと通されたあのゲストルームのベッドの上で目覚めたからだ。
彩はここがあの森の中のブルーベルとマーガレットの花野原ではなく、エミリーと共に眠った三階の屋根裏部屋でもなく、ゲストルームで目覚めたことに彼女は一瞬、訳が解らなくなり慄然としてしまったのだ。


『えっ??』
と思わず言った彩は、ベッドの上で不安と混乱の中、枕を掻き抱(いだ)き、横座りをしたまま暫く考え込んでしまった。

では、あの夜のエミリーが話してくれたアメリカやイギリスや両親にまつわる話やブルーベルの森の中でのことも全て夢だったのだろうか?

一瞬、呆然としてしまった彩だったがベッドサイドのナイトテーブルの上に、きっとエミリーが置いていってくれたのであろう、
小さな花瓶に活けてある、まるで今摘んだばかりのような水々しいブルーベルとマーガレットの数厘の花々に気がついた。

''よかった…あれは幻なんかじゃない、
あれは本当にあったことなんだわ"
と、彩は自分に言い聞かせた。

しかし自分にそう言い聞かせながらも、内心ではこういったことがたびたび起こるこのビューティフル・ワールドにもう慣れたつもりでいた彩は、一瞬感じたその不安感と戦慄に対してどうしても怯々(きょうきょう)としてしまう自分自身の弱さと小さく思い上がっていただけの身の丈を思い知ったかのような気持ちになって失望した。
『いい加減もう慣れないと‥
確かに現実とまるで幻のような時間が、ここでは縦糸と横糸のように交差している、


寄せ木細工の床のように現実と夢幻の世界とが、
組み合わさって構築された時間が当たり前のように同時に存在している、
でも…それは決して私を脅(おびや)かすような危険なことではないから大丈夫、
アリスが行った不思議の国のようなものよ、
奇妙な感じのすることが起きても、
それは全く人畜無害な出来事ばかりだし、
むしろここは素敵なことのほうが多いんですもの、
魔少女アデルだけが私には脅威だけど…
でも私とエミリーの絆さえ強ければ彼女は出現すら出来ないってエミリーが云っていたじゃない、
出てきたところで彼女は結局私を口先で脅すだけのきっと本当は無力な女の子、
あんな子怯えることなど何も無いわ、
怯えたら負けよ、
もっと堂々としていないと…
だって私にはエミリーが一緒なんですもの、
平気、大丈夫よ、彩、』
と彩は自分自身を叱咤し、気を取り直すようにナイトテーブルの上から、硝子の小さな花瓶を取り上げて花の匂いを嗅いだ。
彩はまるでその土塊(つちくれ)のようなその匂いに混じって仄かに薫るマーガレットからの菊らしい、甘さの無い、
むしろ渋いような野趣な薫りにかえって清々しさを覚えた。
いかにもそれは野の薫りだった。


『ああ、あの森の香りがするわ、
土の匂い、健康で豊かな大地の…
野の花の香りってこんなに武骨な匂いなのね、』

彩はさっきまでの不安と狼狽を忘れたように感激して、
ベッドの上で花に顔を埋めたまま思わず微笑んだ。
『でも…』
と彼女は独りごちた。

『今日は悲しくて辛い…とても暗い日曜日…。


…今日の夕刻には私はもうもとの世界へ帰らなければならない、』

僅かな滞在期間であったのになんと、
濃密で気づきの多い豊かな『時』に恵まれたのだろうと彩は思った。
そして、なんと目眩(めくるめ)くような綺羅めきに満ちた『時』だったのだろう。
彩は大人になってからの人生でこんなにも一瞬一瞬を天真爛漫であっても、またそうではなく夜気(やき)のように鎮かであっても、どちらもこれほどまでに、『生きている』と感じられたことは無かった。


またこんなにも誰かを強靭なほど欲っし、必要とし、同じように相手からも激しいほど必要とされたことが果たしてあっただろうか?
あったとしてもそれは不安定に揺れ動く怨嗟(えんさ)をはらんだ苦しい関係でしかなく、それは自分も相手も双方を蝕む結果を招くものでしかなかった。

彩はゲストルームの姿見に映る自分を見て思った。
今やエミリーは自分の血肉の一部となり、
彩の細胞のひとつひとつにも彼女は火灯(ひとも)すように宿り、薔薇いろに息づく存在として彩を内側から照り映えるように輝かせ、健やかにさえしているのだ。唾液や髄液、時折彩を未だに悩ませる知恵熱にさえエミリーは子供が信じる龍や幽霊、ケサランパサラン、
トイレの神様、UFOやスモールグレーやラージグレー、サンタクロース、
あるいはビッグフットや妖精のように揺るがず内在する。


また彩を長く苦しめてきた黒い噂のみで顔すら知ることを許されぬ母親や、何から何まで霧がかかったまま解らない、
その癖まるで影法師のように彩の背後について回る父親の更に良くない噂といった不安定で実態の無い背景、
彩自身、無意識に受けることのあるその余波や影響という両親からの望まないそれら見知らぬ血による支配を、
エミリーなら簡単に絶ち切ってしまうことが出来るような気が彩にはした。

遺伝子という情報が父親から、そして母親から、各々ワンセットずつ子供に与えられるというが、
顔も見えない者達からの染色体や遺伝子に翻弄されることに深く傷つく彩を、エミリーは"望まない血"という名の支配から"赤の他人"という三つ目の非現実的で超自然なゲノムとして発現し、あとの二つの絶対的な自然から自分を自由に解き放ってくれるのだと彩は荒唐無稽な夢想に勝手に耽(ふけ)り、
そして心酔した。
そしてその不自然の実現を彩はまるで小学生のように切望した。

彩は数年前、産婦人科からの帰途、
婦人科医の言葉を反芻しながら途中下車して横浜へと立ち寄った。
寄り道した野道で地面にすっかり埋もれた思い出深い岩を見て彼女は思わずその場にしゃがみ込み、嗚咽をこらえて、肩を震わせた。

彩は生まれつき初潮後も生理がなかなか順調に来ない為に、薬を飲んで定期的にわざわざ生理を起こさないとならないような不妊傾向の躰で、それでも奇跡的に授かった命を堕胎という形で葬ってしまった為にもう妊娠は不可能であろうと婦人科医に言われたのだった。

『ごめんなさい…私に勇気があったなら…たとえ彼から頼まれたって独りででも産んでいたでしょうに、
でも私は駄目だった、弱かった…
ごめんなさい…
きっと地獄に堕ちるわね…
でもどうか地獄に堕ちることで私を赦して欲しい…
そして産んであげられなかった貴方には天国で幸せになって欲しいといつも…
いつも願っているわ…』
そう言いながら彩はなんと傲慢不遜で、エゴイストなのだろうと我が身を呪う気持ちになった。
敢えて祈りと呼ばず『願い』と言ったのは自分に祈りなどと言った言葉を口にする資格すら無いと感じたからだった。


彩が立ち寄ったその野道の先に続く広大な空き地は過去、子供達が草野球やサッカーに興じていた天然のグラウンドだった。
そしてその空き地は今でも健在で近隣の子供達の遊び場となっている。

彩が幼なかった頃、その田畑の先に在るグラウンドは少年達に混じって野球をする明朗活発、あるいは無口で勝ち気な少女達も時折来ていて、彩も怯え癖はある癖に芯の強い、当時はそんな少女達の中の一人だった。
平素、運動神経が決していいわけではなかった彩の唯一高校男子並みと呼ばれていた豪腕バッターぶりと俊足だけは少年達の間でも小学校中でも一目置かれていたからだ。

ドッジボールでは脚は速い癖に逃げる方向が読めないのかもっぱら的にされてばかりで、テニスもバトミントンもからっきし駄目な彩は跳び箱を飛べば、上にいつも『上手にまたがっている』とよく、からかわれた。

何から何まで運動音痴な彩は、しかしバットを持たせれば突如『サムライガール』などとあだ名されるほどの手腕を見せた。
また偶々、逃げ足も速かった。
その鋭い打球と俊足とで、ゲームの時だけ、少年達はそんな彩を重宝がって必要とし急に阿(おもね)った、しかし真剣な顔をしながら接近してきたものだった。

彩は社会人になってからもよく独りでバッティングセンターへ通い、凄まじい破壊的といってもおかしくない打球のスイングを見せ、それを見て噂となり社会人野球チームからお声がかかることもあったが、本来、画家になりたかった彩はそこまで没頭する気にもなれないし、ただ独りで夜にかっ飛ばしてストレスを発散するだけの趣味とも呼べない趣味だから、と云ってにべもなく断った。


グラウンドにほぼ隣接する野道の果てに何故か在る巨大なその岩は彩が少女時代から既に地面に半分以上めり込むような状態となっており、業者に棄てられた昔の庭石なのではないかと云う人も居たが子供達は日が当たって温かいその岩のすべらかな感触が好きでよく上に座って少年達の野球やサッカーを観戦したり、
上でアイスクリームやスナック菓子を食べる子供達もいた。

そんな時岩は幸せそうに見えた。


しかし岩は恐らく百年以上そこに在ったのかもしれない、除去されないままであったのはその空き地がさして整備もされずに草地混じりの地面の昔と変わらぬ状態でグラウンド化したまま、今も何故か見逃されているのと同じくらい現代では奇遇の重なりのような気が彩にはした。

岩は既に地面にすっかり埋もれ、子供達が座っていた部分は地面からほんの少し頭を覗かせているだけで今や誰も座ることはないのであろう、
今や忘れ去られた岩の頭には僅かに苔や丈の短い草が生え、侘しく夜風に揺れていた。

気が遠くなるほどの星霜が岩の上を流れていったのであろう。
打ち棄てられたまま、子供達や時には大人のカップル達の憩いの場となり、遊具にさえなり、壮絶な嵐や豪雪、酷暑の時も独り立ち続けた岩は、もしかしたら金満家の庭に今も臥竜松と並んで立ち続けていたかもしれない。
しかし手入れなどされたことのない岩は、風雨にさらされ今や人々の往来による靴裏でも摩滅し、土中へと傾ぐことなく真っ直ぐに埋没しつつあるのだった。
そしてその懐かしい全容は今ようやく大地へと還ってゆこうとしている。
地面の中で岩は時をかけて砂利となり更にはキメの細かい土となり、地面の奥底へとしっとりと馴染んでゆくのだ。
かつて庭石であったとは解らないまでに時間をかけて地球の一部となり、岩はまだ知らぬ故郷(ふるさと)へと還ってゆく…。
そのことを想うと彩は胸がいっぱいになった。

そうやって岩は一世紀以上ただそこに存在し続けただけの偉大な名も無き生涯を終えるのだ。
誰からも偉大であったとは思われず、
知られず、見返られることもなく…。
そしてそのことに文句も無く淡々と受け入れるだけの岩の生涯を彩は想った。



岩はもしかしたら庭石なんかよりよほど幸せだったかもしれぬ。
子供達から愛され、しかしそのことを記憶に残す者達などほとんど居ない、
だが岩は地面の秘奥へと還る時、まるで幼な子のように、しっかりと暖かい慰撫と固い包容を受け、その余りにも永かった労を、きっと尊い“何者“かにねぎらわれるであろう、
そうしてやっと岩はその"何者"かの愛に隈無く包まれて永遠の眠りを得るのだ。
彩は岩にその"何者"かがそうして欲しいと願った。
彩は昔の友である岩の上に涙をこぼした。

その岩があまりにも羨ましかったからだ。

長く風雨にさらされ続けてきた岩は人知れず、もう後僅か数年と経たずしてすっかり土の中へと埋もれ果てるのだは一目瞭然だ。
それはなんと安らかで平安に満ちたことであろうか、彩は岩に額(ぬか)づくようにして頬ずりをすると宵闇の中で独り、囁いた。

『子供の頃、こんな私に優しくしてくれてありがとう…
遊んでくれてありがとう、
とても嬉しかった、
私はそんな貴方にいつもしてもらうばかりで、何もしてあげられなくてごめんなさい、
…でも私…決して貴方を忘れない、
貴方は私の友達だった…
そして恩人だった…』



ゲストルームに備え付けの家具の中から彩はここへ来る時に着てきた淡いモーヴ・グレーのシフォンのワンピースを着ると椅子に座ってストッキングを履きながらその爪先に思わず泪を落とした。

ドレッサーの前で簡単に朝の化粧を済ますと、
来る時につけてきた慎哉が何故か毛嫌いしたどこかもの哀しげな病葉(わくらば)ならぬ病(わくら)んだ冬薔薇いろの口紅を薬指でふくよかな唇の輪郭に沿って丁寧に塗りこめた。
咲き誇る壮健な花々の中で喘ぎながらも懸命に花開こうとする病んだ花が何故、美しくないと云えるのだろうか?

彩はふとそう思い、ふいに訪れた気紛れな疼痛に耐える人のように鏡の前で眉根を寄せて瞳を閉じた。

背後の扉をノックする音がし、彩は鏡の中に映る自分を見つめたまま返事をした。
鏡の中で扉は開き、エミリーが立っていた。
彼女は金曜日の逢魔が刻、冬薔薇咲く庭で迎えてくれたあの時と同じ黒っぽい茶葡萄のタートルネックのセーターとチェック柄の巻きスカートタイプのマキシをさながら細身のドレスのように着て、
その上からやはり見慣れたあのいかにも古そうなところどころがまるで蜘蛛の巣のように解(ほつ)れた黒い毛糸編みのショールを羽織っていた。
それは妙齢とはいえ、まだ充分に若い女性が何故かまるでヨーロッパの老婦人のような服装(なり)をしているように彩には見えた。
と同時にだからこそエミリーは常人ならぬ気品があるのだ、と彩は思った。

『おはよう彩、お腹空いていない?
簡単だけど朝食、用意してあるわよ』
『ありがとうエミリー、ねえ今何時かしら?』
『さあ…ここではそんなこと気にもかけないから…
でも下に行けば時計はあるわ、』


『そう、私ここだととてもよく眠れるからいつも少し寝坊してしまうみたいね、
いつもエミリーに朝食をご馳走になってばかりで、なんだか申し訳無いわ、
今度来た時は私に朝御飯作らせてね、
お味噌汁とシャケを焼いたのと、卵焼き…
和食の朝御飯、エミリーはそういうのは嫌い?』
『いいえ、嬉しいわ、お味噌汁もお魚も卵焼きも大好きよ』
『本当?じゃあ納豆は?食べられる?』
エミリーは笑いながら彩の背後へと回ると、
いきなり彩の肩にまで伸びた髪を両手で持ち上げて言った。
『こんな風に結い上げてもきっと素敵』
エミリーは彩の髪を持ち上げたまま、
小首を傾げると、
『でもそれにはもう少し長くて垂れ下がったドレッシーなイヤリングが必要ね、』
『私、そういうのどうも似合わないのよ、ドレッシーな服も似合わなくて、
憧れはあるんだけど…
貧弱気味な私にはきっと無理なのね、
服を着ているんじゃなくて服に着られているって情けない感じになっちゃうの、
だから比較的綺麗めな感じのワンピースはこれ一着きりで後は仕事で着るスーツかスカートでも紺やグレーのプレーンなものに白いブラウスか、ジーンズとセーターとか…
だからいつもアクセサリーもなんにでも似合って邪魔をしない真珠の一粒ピアスか、真珠じゃなくても打ち留め式のぶら下がらないタイプの目立たないものばかりつけているの、
垂れ下がるタイプのに憧れはするんだけど…いくら素敵だなって思ったって似合わなきゃね』
『似合わないなんてことないわ、
それに彩は貧弱なんかじゃない、』
と言いながらエミリーはドレッサーの抽斗(ひきだし)から銀の背に非常に繊細な彫り込み細工が施された重そうなヘアブラシを取り出すとそれで彩の素直で、
しなやかな髪をごくラフに梳き始めた。

そしてとかしながらもう一度両手で髪を持ち上げるようにすると、いつの間にか彩の髪は美しく結い上げられていた。

『一体どうやったの?素敵だわ、
エミリーたらまた魔法を使ったのね』
エミリーは纏め上げた髪の顔周りや彩の花車(きゃしゃ)で、か細いうなじ周りにかけて、少しだけ解(ほつ)れ毛を引っ張り出すと指先でクルクルとねじるような仕草をした。
たちまち彩の解れ毛は緩やかに波打ち、鏡の中の彩は別人のように艶やかでアンニュイに見えた。

『嬉しい!
一度こんな風にしてみたかったの、』


と彩が言うとエミリーは彩のまだ何もつけていない耳たぶにそっと両手で触れて手を離した。
アンティークなのだろうか?銀細工ではあろうが、微細な彫刻の長めのイブニング・タイプのイヤリングが彩の両耳に鎮かな輝きを見せていた。
その一番、裾にはイヤリングとしてはやや粒の大きい雫(しずく)型の琥珀が揺れていた。

『これは父が私に18歳の誕生日にペンダントと一緒に送ってくれたものなの、アンブローズおじ様のお店で一番の品だって云って…』
『アンブローズおじ様って確か…
アンティークの家具やいろんなものを取り扱うお仕事をなさっていたって』
『そうよ、
これはだから目利きの叔父が父に下さったものなの、19世紀のフランスの貴婦人がつけていた琥珀らしいわ』
『19世紀の??ロマンチック過ぎて蕁麻疹が出そう』
彩は照れ隠しの為におどけて笑って見せた。
『真珠もいいけれど彩の肌こそ、真珠そのものだから、今日は琥珀にしましょう、
琥珀は普通、夏場につけるものだと云われているけれど秋冬にしても明るいアンバーブラウンは枯れ葉いろにも似て素敵だと思う』
『琥珀なんて、私初めて身につけたわ、
これきっと値がつけられないほどのものなんでしょうね、だってほら、
中に虫が入ってる、中に虫や葉っぱの入った琥珀はとても高価だって聴いたことがあるわ、
場合によってはダイヤモンドより高値になることもあるって、
…これは…なんの虫かしら?』
と彩が視線を絞って鏡に顔を近づけようとすると、エミリーはそんな彩の首筋を後ろから抱きしめて、言った。
『そのまるで甘口のコニャックのようなルージュの色、
彩によく似合うわ、無論、垂れ下がるタイプのイヤリングもね』
『コニャック…
コニャックってフランス語よね?
英語ではブランデーでしょう?
ルージュもそうじゃない?私にだってそれくらいは解るのよ』
『ええでもそう言いたいの、
今はそのスイートなコニャックのような色をしたウィンターローズにキスする為に』
彩は鏡の前に座ったまま上半身をねじるようにしてエミリーのキスを受けた。

幽かに蜘蛛の糸のような濡れた銀の糸を引いてふたりの唇と唇が離れる時、
彩はエミリーが急に沈痛な面持ちとなって彩を見つめていることに気がついて何も言えなくなった。

『一階のダイニングで待っているわ、
本当に簡単な朝食なんだけど…』

とエミリーはまた言うと一瞬、花冷えのような風を残して身を離し、いつの間にかエミリーの足元に、まとわりついていた三毛猫のロージィを優しい波がさらうように抱き上げると、部屋をまるで逃げるようにして出ていった。


残された彩はドレッサーの化粧台の机の上に置かれた銀の背のブラシを見つめて思わず呟いた。

『今、貴女は私に”’帰らないでっ‘’て言ったのね?
エミリー、
私には人が心の中で思ったことは解らないし、
その思いや言葉にならない言葉が放つ色も感じないけれど…でも今は解ったわ…
今だけは…
私に通じたわ、貴女はたった今、私の眼を見て心の中でこう叫んだ、
彩、お願いだから帰らないでって、
私を独りにしないでって…』


彩は旧粧(ふるめか)しい大きなヘアブラシの銀の背にある繊細で深い彫り込み細工に指先でそっと触れると、その彫銀の溝の奥深くにある時を超えて染み着いた、もとは埃なのか、皮脂なのか、
よく解らないその黒ずみを見た。

愛用していた貴婦人の指先についた髪や肌を保護するオイルや化粧用クレームや水白粉(みずおしろい)などが時流をかけてその女性(ひと)の起居に寄り添う色とりどりの想いとなり、希望や不安や夢となり、やがてそれらが積み重なる日常に紛れて染み込んでいったのか?

ブラシ部分は猪などの獣毛なのか、
グレーがかってはいるが綺麗な暗い白で、生活感はむしろ余り感じられない。
ブラシ部分だけ何度か、すげ替えられているのかもしれない、と彩は思ったりもしたが案外、この重くて美々しい櫛は美術品として女性の鏡台の前に飾られていただけなのかもしれない、
とはいっても様々な化粧品に手を染めながら、
その優美な彫り込み細工を手に取っては、しみじみと愛でることもあったであろう。
19世紀から遥かなる時を超えて愛用していた使い手の痕跡が21世紀、今こうして彩の手のひらの中に在り、そのことが彩にときめくような新鮮な驚きを与えた。


それらは幾度も時を越えてあらゆる店々のショーウィンドウに飾られ好事家達や美意識の強い持ち手達により細心の配慮の上でのごくマイルドな洗浄を施されたこともあったかもしれない、
その為19世紀の塵埃や脂粉そのものは今や付着してはいなくとも、それらが長く彫り込み細工の溝奥に棲んでいた痕は決して取り去ることの出来ない深々とした名残りとして残っている。
そしてもの云わぬそれら陰翳は遥か時空を越えた過去という扉の秘奥(ひおう)から『私達も遠い過去、貴女達と同じように生きていたのよ』
と彩に優しく語りかけてくるような気がした。


と、同時に彩は彫り込み細工の銀の迷路がまるで巨大な鳥瞰図となって我が身を吸い込むように急速に眼前へと迫ってくるのを感じた。
翼を射ち抜かれた鳩のようにその銀灰色(ぎんかいしょく)の迷路の奥深くへと、くるくると螺旋状に回転しながら墜落してゆく自分を感じて彩は思わずギュッと強く瞳を閉じた。

そして心の中で思った。

『このヘアブラシ、
私、以前どこかで見たことがあるわ、
初めて見たものではない、
でも…どうして?』

ぱっと瞳を開けると、くっきりと、さながらレリーフのようにその凹凸による翳りと艶とが鮮明な彩の鎖骨の上からいつの間にかイヤリングと、お揃いの一際、大粒でやはり雫型の琥珀のペンダントが下がっていた。


ダイニングキッチンではエミリーは初めてふたりでお茶を飲んだあの夜と同じようにガス台に向かって今朝は赤銅ではなく白い琺瑯のミルクパンを温めていた。

『今朝はチャイなの?エミリー、
このペンダントもとっても素敵!』
エミリーはさっきとはうって変わったような晴れやかな笑顔で振り返ると
『いいえ、今朝は普通のダージリン・ティーよ』
と風雅な中国風の絵付けのされた白磁のティーポットに湯を注ぎながら、彩を見た。
『思った通りだわ、
そのペンダントもやっぱり彩によく似合う、
彩はデコルテが素晴らしく美しいから、本当は何もつけなくてもいいくらいなんだけど…
その彫刻とみまごうばかりの鎖骨だけでも充分に華だもの』
『ありがとう、
私、残念ながら胸は一個だけになっちゃったけど、でも鎖骨は気に入っているの、
だからエミリーに誉めてもらえてとっても嬉しい』
『“胸は一個だけになっちゃったけど、“
…は余計だと思う、
とっても嬉しい、ありがとうだけでいいのに、
だって胸が二つだろうが一つだろうが、彩は綺麗よ、』
『ありがとう、エミリーと居るとね、
なんだか萎れて枯れかけた花のようだった自分が、どんどん生気を取り戻すのを感じるの、
…元気をもらえる!』


と言うと彩は胸元の琥珀を慈しむように触れながら『帰るまで今日はこれを身につけて過ごすわね、
なんだか嘘でもレディになった気分になれるから』と言った。
彩の言葉にはエミリーは答えず、ただ
はぐらかすような曖昧な笑みを浮かべて席についた。

『普段はここでは食べないんだけど…』
とエミリーは言うとやっと向かい合って座る彩の瞳をまっすぐ見るとこう言った。
『どうしてもここで食事したかったの、
だってふたりの琴線が共に触れあったのは…
ストーブの焔で天井に揺れる、あのマーガレットを見た、ここでの夜が初めてだったと私は思っているから…』
『そう…そうよ、
私、あの夜、あの暗い天井に揺れるオレンジいろのマーガレットを見て…急に…唐突に、
でもだけど、はっきりと理解したの、
ああ、私がずっと逢いたかった人はこの人だって、
ずっと探し求めていたけれどずっと逢えなかった人に今やっと出逢えたんだって、
あんなに深い感動と喜びは今までの人生では決して無かったわ』
『…本当?彩』
『ええ、この時、この一瞬の為に私は生まれてきたんだなぁって…
あの時、初めて私を生んでくれた顔も知らない母に感謝したわ、それまでどうして私なんかを生んだのよ?産み棄てるように自分だけ天へ登っていっちゃって酷い母親だ!…なんて心の中で毒づくこともよくあったの…』
『毒づく…彩が?…まるで私みたいね』
『そりゃあそうよ、だって人間ですもの、
だいたいエミリーは私を少し買い被り過ぎよ、
私だって、胸の奥に泥々の…
なんていったらいいのかしら、
腐敗した臭いを放つ掃き溜めの中で…
でもその中にいながらにして純粋に真剣に人を愛したりもしたわ、


私は水商売や、ただの水商売だけじゃない、
お妾さんじみたこともお客さんから求められてしたこともあったわ、
好きでもなんでも無い人だったけど…。
援助交際もしたし、ソープもした、なんだってやった、
美大をちゃんと出たかったし、それだけじゃなく生活費やいろんなことに兎に角お金が必要だったの、
当時の私は今では死語のように思われているけど、その実、そうでもない‘’コジイン“の出のヒトって世の中の眼鏡をホウキの柄で突き崩してやりたい、
くらいの思いでいたの、
人から馬鹿にされない何かになろうと必死だったわ、
それなのに美大を卒業したわいいものの、私はなんだか燃え尽きたみたいになってしまって…
画家になれるほどの技量も無く…

かといって私なんか他になんにもない、
どうしようもなく美術や芸術を愛してはいたけれど…しょせん片想いだって気づいたの、
凡庸な私には結局たいした才覚とか取り立てて何かが在るわけじゃなし、私はなんの為にあんなに遮二無二頑張ってきたんだろうって…
急に呆然としてしまったの、

…でもそんな時、画廊で真剣に勤めていた頃だったわ、同じ職場の先輩だったんだけど本気で恋をしてしまって…
最初は淡い片思いでしかなかったわ、

成績優秀で容姿端麗でもある彼はみんなから憧れられている人だったし私なんてって…
でも向こうのほうから求愛されて、
やがては求婚されて…
でも…彼は結婚していたの…
私は汚れていたけれど、でもその人への想いだけは汚れてはいなかった、


愛し過ぎてそれでも結ばれないんだって覚(さと)った時、鬼女のようになって理性を失ったこともあったわ…まるで…安珍と清姫の清姫のように、
あの時私は…愛憎の両極の炎で焼かれて…
のた打つ恐ろしい牝の蛇になっていた…
だらだらといつまでも私を日陰の身として隠しながら置くことを長引かせて自らしたはずの約束を何年経っても守ろうとはしない彼を罰しようとしたの、』


『清姫の…蛇…』
『莫迦みたいでしょう?
もちろん私は清姫のように若くて一途で純情ではなかったから、もっとずっと現代的に彼に駆引きをしてお金で精算してドライに別れる道を選んだけれど…
でも清姫と形は違えど罰してどうなるというのかしら…?
自分だって立派な加害者なのに…
私だけ被害者なわけじゃないのよ、
それなのに…
あのふたりの幸せな『時』が再び帰ってくるわけでもなければ、
罰することによって得るものも虚しいだけに過ぎないのに…
私の中の汚れていなかった気持ちまでもが汚穢に満ちてしまったあまりにも哀しすぎる瞬間だったと思う…
でも苦しかったの…悲しかったの…
怖くて不安で淋しくて…
まるでこの世から皮膚ごと引き剥がされるように隔絶された思いの崖の上から黒くて冷たい沼へと、
たった独りきりで突き落とされた気がした…
…それはとても痛かったの…
本当に…気が遠くなるほどに』


『…解るわ、彩の気持ち…
痛いほど私には解るわ、
貴女が居た黒くて冷たくて…
まるで古くなって固まりかけた手繰り飴(たぐりあめ)のような鈍重な沼に、からめ取られるようにして棲んでいたことが…私にもあったわ、
何年も何年もずっとそこから高い空を見つめていたの…
いつになったら、ここから抜け出せるの?って…
…あの沼は広いわ、
彩もきっとどこかであの重い鉛のような沼の水に囚われて泣いていたのね…
…人生が深い傷を負い過ぎて、とても時間がかかったけど…それでも…
私はやっと這い上がったわ…
誰の力も借りずに…

そんな時は究極なほどの独りで決めて…
独りで立ち上がらなければ多分その先の真の意味はもう無いのね、

でもその頃にはもうすっかり…人を信じることも、愛することも、微笑むことすら出来なくなってしまっていた…
だけど私は彩とやっとこうして巡り逢えた…
…私は彩に救われたのよ、
彩、彩だってそうよ、
苦しんで苦しんで燃え尽きた清姫は…
もう今は蛇なんかじゃない!
……今はただの私の愛しい彩よ』


エミリーの暖かい手が伸び、テーブルの上で彩の冷たい指先に触れ、やがてエミリーの長い指と手のひらに、すっかりその温もりを移すように彩の冷えた花車造(きゃしゃづく)りな両手をすっぽりとたわめ込んでしまった。

『私が今、住んでいるマンション、彼に払わせた慰謝料代わりの頭金で住んでいるの、
後はぼちぼち自分でローンを払ってはいるけれど…
私、あそこはもう手離すわ、
まだ新築の広くて間数も多い、綺麗なマンションだし…きっとすぐに買い手もつくと思う、
私はあそこを引き払う手続きをなんとか済ませて…あといろんなことをきちんと精算し切ってから…
またここへ必ず帰ってくるわ、
私にはもうここしか無い、
エミリーしか居ない、
嗤われながら妖精を信じていた少女だった頃から私はずっとずっと飢えていたの、愛したり愛されたりとかいうことが口に出すまでもなく当たり前のように日常化されているそこいらのありふれた家族にね…


何かあった時、当然のように庇ってくれる、
守って味方になってくれる、
もちろん私も守って助けてあげられる、
そしてそのことに引き換え条件や無論、お金なんか発生しない、
そんな自然な環境が私には幼い頃から無くて当たり前だった…
見せかけや、どちらかが優しげな支配下に置かれるような関係ではなく…
強い信頼と共感に結ばれた友情のような愛、相手の姿が変わっても、歳をとってもその絆は変わらなくて…』
『彩…』
『だってエミリーは私の根こそぎえぐり取られた乳房の痕にくちづけてくれたわ、
泪の雨を降らせてくれたわ、
彼だってずっと怖れて直視するのを避けていたのに、』
『やっぱり…彩には彼がいたのね、
初めて逢った時も二回目のあの夜も…
気がついていたわ、
左手の薬指のあの素敵な真珠のエンゲージリング…』
『ごめんなさい…エミリー…今頃…
でも…この気持ちどうしようもないの、
彼とは婚約中だけど…私、結婚はしない!
まだ今なら…引き返せる、
私、エミリーと…猫達とバターカップともこの森で寄り添って生きてゆきたいの、』


『…よかった…』
エミリーは立ち上がって彩に歩み寄った。

そして隣に椅子を引き寄せて座るとふと、彩の前に在る目玉焼きの上に落ちたふたりのうち一体どちらのものか解らないその髪の毛に気づき、それを摘まんで床へ捨てようとしてそのあまり長くない後れ毛を彼女は何を思ったのか目玉焼きの上へハラリと戻した。
スプーンでその目玉焼きの黄身を崩し、その後れ毛を白身で包むようにしてフォークの先で丁寧に纏め上げ、彼女は一口、二口でそれを食べ切ってしまうととても明るい口調になってこう言った。

『私ね彩、ずっとずっと憂鬱だったの、
ずっとずっと悲しくて辛くてならなくて…
今日というこの日が来るのが…
…でもそうじゃなかった…』
彼女はフォークをガチャンと音をたてて置くと、
『そうじゃなかった、今日がきっと始まりの日なのよ、
今日から私も彩も新しいスタートを切る、
私達ふたりの門出の日なんだわ』
『門出?』
『そうよ彩は今までの世界を捨ててここへ来る、
自分らしく生きる為に…
自分に正直になってここを選んでくれたわ、だから私もそれに応えられる、
私も変われるわ、やっと変われる…
貴女のお陰よ彩』
『変われる?エミリーはどう変わるの?
私、エミリーには今のままでいてほしい、変わるのならふたりでゆっくりと時をかけて変わりましょう』


何故だかふと針の先ほどの不安を感じた彩は急に、心許ない弱音を吐いてしまい、その直後にそんな弱音を吐いた自分を責める気持ちが彩自身をたちまち、ギリギリと縛(いまし)め、彩はそんな自分に自分で苦しくなって、見る見る色蒼褪めていった。

エミリーはそんな彩を痛ましげに見つめていたが、彩の頬をいたわるように触れると、囁くような口調となった。
『心配しないで、彩…
私は何も変わらないわ、
これはただの比喩よ、
でも私達は共に生き続けるのよ、
静かに平和で安らかに愛しあって…
いたわりあって…
これからもずっと永久(とわ)に。』


『永久に?』
彩は心の中で呟いた。

"これも比喩なの?エミリー、
もしかしたら…比喩なんかではないのかも…
エミリー貴女が私を真に必要としてくれるのなら、
私を愛してくれた貴女に私は私の永遠を貴女に惜しげもなく手渡すだろう、
貴女に上げたい、
…それでもし…貴女が救われるのであれば…
こんなに堕ちた人間でも愛する人の役に立つのだとしたら…私はこの森の奥深くであと何百年、千年とあの岩のようになっても構わない"

その時、エミリーはふと眼鏡を外して、今更ながらに驚くほど鮮やかな色違いの瞳で彩を見つめた。

『今、聴こえたわ、そして感じたの、
彩の声…
彩の色…
いつもは全然彩の心の声だけは聴こえなかったのに…今だけは…聴こえたし感じたわ、
貴女の声とそして貴女の色を…』
『…エミリー…』
『胸が震えたわ、
だってそれはとても…とても…
ああ…とても…』

そこまで振り絞るように言ったエミリーの両目からこらえ切れずに泪が溢れ出した。

『…とても美しかった!』

ふたりはお互いが壊れてしまうのではないかと思うほどに固く抱き合い、まるで幼い子供の親友同士のように声を上げて泣いた。
紅茶も皿に乗った簡素な朝食もすっかり冷えきってしまうまで、ふたりはいつまでも抱き合ったまま、幸せの泪に濡れそぼった昏くて赫るい日曜日を、
くちづけの奥底から花蜜のように、
そして何故だか、鉄の匂いを含む渋い菊科の匂いのする血のように味わった。







To be continued…


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