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小説『エミリーキャット』第54章・heads or tails?

401号室は水を打ったような鎮けさで彩は自分が息をしてもその呼気が極度の静寂の中で大きく波紋のようになって響くのではないかと感じ、普通に息をすることさえ憚(はばか)られた。
気がつけばふたりは室(へや)にある黒い革張りのソファーに向かい合ったまま座っていた。
お互いにどうしてそうなったのかその経緯を全く憶えておらず、
まるで記憶喪失のように抜け落ちた記憶の果てにふたりはいつの間にか、差し向かいとなっていたのだった。
山下は茫然とその椅子に深く腰掛け、目の前にある机と自分との間の目には見えない距離を一心に見つめていた。
彼はまるで何かそこに在る明白なものを見つめているかのようで、その虚ろな眼も、ネクタイを緩め、だらしなくソファーの背に持たせかけた腕も、ぐったりとした躰も、目の前に居る山下の何もかもがまるで山下ではなく、山下の脱け殻のように彩は感じた。
一体どれほどの沈黙と時間が流れたのか彩には解らなかった。
が、山下のぐったりとソファーに深く身を沈めるように座っていた姿がいつの間にか消えていることに気がつき、彩はぞっとした。
思わず辺りを見回そうとすると、革張りのソファーがギィと大きく軋むような音をたて、彼女は更に驚いて再び前を向いた。
すると山下はさっきは居なかったもとのソファーに戻り、目の前のテーブルの上でワイングラスに更にワインを溢れるほど注いでいた。
無言でその淡い蜜いろに輝く液体を乱雑に注ぎ足す山下は、ほんの数分で酷く老いたように彩には見えた。
山下は確かにシワも白髪もあるにはあるが、どこかその笑顔や挙措(きょそ)、歩く姿にすら、大学生の青年がそのまま熟年の男になったかのような雰囲気があった。
かといって子供じみているわけでもなく、無理な若造りをしているわけでもない。
山下と話していると彩は不思議なほど歳の差を感じなかった。
また時に‘’頑張って‘’など、相手をねぎらうようなサインとして彼は小さくウィンクをして見せたり、
‘’じゃあね‘’と言う時にも、親指を立てた中指と人差し指とを眉の上へ当てると軽く斜に突き上げたりと、会話に交えてのボディランゲージも、やや派手なタイプであったが、
不思議とそれが板についた感じがして奇妙さやスノッブで態とらしい嫌みな感じは少しも受けなかった。
他の画商や事務員達も『あんな欧米人みたいなジェスチャーをしても全然イヤミに見えないんだから山下さんて不思議よね』
とよく言っているのを耳に、彩は『何故あんな仕草がごく自然と出てくるのかしら?まるで外国で育った人みたい、』
と思ったものだった。
だが今、目の前に居る山下は、
ただのがさつな還暦の男で疲弊と惑乱の余り、彼はワインのボトルを今や十二六(どぶろく)でも飲むかのようにボトルネックを掴んで、まるでワインをグラスに注ぐ所作とは思えぬほど酔っているように見えた。

彼は荒々しく注いだ白ワインを煽るように痛飲しようとしてふと、そんな自分を見る怯えをはらんだ彩の硬い視線に気がついた。
それでも構わずワインを飲み干そうとして、ふと何を思ったのか、急にそれを制し、忌々しげに音を立ててグラスを置いた。
彩は思わず息を飲んで眼を瞑(つぶ)った。
それでも数秒後に発した彼の言葉を聴いて彩はほっとして涙ぐんだ。
山下の声がいつものあの暖かく柔和な声に戻っていたからだ。
『…悪かったね、あんまり…
驚き過ぎてしまって…
些かショックを…僕も受けた…

『……』
彩は堪えきれずに思わず涙が一条頬を転げ落ちたのを指先で振り払うようにすると、それ以上は泣くまいと大きく息を吸い込んで、口許を固く結んで自分を耐えた。
そんな彩を見て山下は言った。『いいんだよ、泣いても…
怖かったんだね…
ごめんよ、僕が悪かった、
君はきっと…』
と言いかけて山下は再びグラスを手にとると、一口軽く口腔を湿す程度に飲んでからこう言った。
『…ネットか何かでダルトンのことやガートルードのことなんかを調べたりしたんだろう?
僕はああいったものは仕事以外では使わないし、SNSの世界には、てんで疎いからよく解らないんだが…エミリーキャットのことなんかは一時期、いろんな意味で話題になっていたし都市伝説とまで呼ばれたほどだったから、今でも検索したらきっと』
と彼が言い終わるか終わらぬかのうちに彩は思わずその言葉を遮って言った。
『エミリーキャット??』
『……そうだよ?君は…だって…
そうなんだろう?
ネットでそのことを知ったんじゃないのかい?
どうせそんなことだろう?』
『いいえ!…だって…私もSNSは苦手なほうで…
あまり必要なこと以外は見ないようにしているんです。
見てて不愉快になるようなことも多いし、確かに便利だから調べものを簡単に済ませたい時にそういう使い方をすることもありますけど…
でもエミリーのことなんて…
…そんな…』
と言って彼女は膝の上で握った手を更に強く握り締めた。
『だって…調べるもなにも…
エミリーは…ガートルードなんかとはなんの関係も無いと…』
と言いかかって彩はその先の言葉が続かなくなった。
自分の溢れそうな涙と押し寄せる激情の防波堤にいつも自ら独りがなることに、長年慣れていた積もりでも、彩は内心‘’もう私はいつ壊れてもおかしくなんかない‘’と思った。
『…君は…エミリーに逢ったのか?』
『何故、そんなことを山下さんがおっしゃられるのかが解らないです。
山下さんこそ、何故エミリーをご存知なんですか?』
『……』山下は彩から視線を反らし言葉の継ぎ穂を探したが、何も言えなくなって再びグラスを大きく煽った。
『エミリーは本当はガートルード・ダルトンなんですか?』
『……』
『教えて下さい、私、知りたいんです!』

『……』
山下は目の前のテーブルとその間にある目には見えない闇をただじっと一心に見つめていた。
まるでそこに彩に答えるべく適切な台詞(せりふ)が書かれていて、
それを読もうと目を凝らしている下手な舞台役者のようだ、と彩は思った。
彩はそんな山下が急に信頼出来なくなり、思わず感情的に眼を反らすと激しい語調で言い放った。
『いいえ、仮にそうだとしても構わないわ!
エミリーが本当は誰であろうと、私にとってはエミリーはエミリーでしかないもの、
彼女が私に嘘をついたことはショックだけど…
でもきっと…これには何か深いわけがあるんだわ!
だって彼女は私にこう言ってくれたもの、
‘’私は生まれた時からエミリーで、今もエミリーだ、‘’って、
‘’ガートルードなんて古(いにしえ)っぽい名前じゃない‘’って!』
『……』
山下は酷く驚いた顔をしてその顔は、一瞬まるで洗っていない牛乳瓶に注がれた水のように白濁して見えた。
やがて彼はワイングラスを音も無く静かに卓上へ置くと、彩の眼を須臾(しゅゆ)、見つめてからこう言った。
『…いや彼女はエミリーだよ、
それは本当だ、
エミリーはガートルードなんかじゃない、
ガートルード・ダルトンでもない、彼女の本名は…
エミリー・キーティングだ。』
『………』彩は濡れた瞳を山下の虚ろな瞳へと矢のように走らせた。
『…君は…あの森へ行ったのか?
エミリーと逢ったのかい?
まるで…その…ふたりはとても親しいような言い方だが』

『……』
『…僕はエミリーとは幼馴染みだった、君がもし…
彼女と逢ったのだとしたら、
どうか…教えて欲しいんだ。
君がエミリーと出逢ったのはあの森、ビューティフルワールドなのか?…そしてもしそれが本当なら…』
と彼は目には見えない遠い過去がまるで見えるかのように、天井と自分との間にある宙の一点を仰ぎ見ると、自分の愚かさを悔やむかのような眼差しになった。
『…あの噂は本当だったのか…?』『噂?』
彩は山下に再び視線を射るように振り向けた。
『一時期そういった噂が…
いや、僕は心無い噂を立てる馬鹿馬鹿しい連中が居るもんだと当時は怒って本気にしなかったんだが…あの森を見たという人がポツリポツリ居てね…
いずれも心に深い傷を負った孤独な人達ばかりだったらしい…
バスから降りて目的地に行くはずが何故か暗い夜の森の中へ迷い込んでしまって…
気がつけば、目の前の木(こ)の間隠れにあの館の灯りが見えて…
そこでエミリーと出逢ったという噂だ…』

『……』
『君もそうなのか?』
『君が教えてくれたら、僕も君に教えてあげるよ、エミリーとガートルードのことを…
コインの表と裏のことをね』
『……コインの表と裏?』
山下は胸ポケットから何かを取り出すと、彩はその一瞬銀色に閃(ひらめ)く小さな円いものを、彼が人差し指と親指とで捻(ひね)るようにして宙へ舞い上げるのを、まるでピエロが目の前で見せてくれるマジックのように見た。
それは一瞬釣り上げられた魚のように光り輝きながら宙を乱舞し、やがて彼の節くれだった血管の目立つ手の甲の上へと、渇いた音と共に舞い落ちた。
そしてもう一方の手のひらでその光るものを瞬時に隠すと、山下はこう言った。
『heads・or・tails?』
その発音はまるでネイティブの発音のようだった。
『…君はどっちに賭ける?
どっちを選ぶ?』
『……』山下がそう言って左手の甲から右手をずらすと、彼の手の上に乗せられた英国のエリザベス女王二世の横顔が刻印された硬貨が現れた。
大切に磨いてはいたのであろうが、一見して旧いものであることが判る、それは白銅の4ペンス硬貨だった。
山下は慈しむかのようにその硬貨を優しく握りしめるとこう言った。
『昔、エミリーと僕はよくこうやって遊んだんだ、
頭と尻尾どっち?てね…』
山下は悲しげでありながらも、
いつもの人懐っこい微笑みをたたえて言った。
『表か裏かどっちを選ぶ?
って意味なんだけどね、
表はheadsで裏はtalesだ、
アメリカや僕の知る限りでしかないけれど、イギリスでもこの『ヘッズ・オア・テイルズ』はあって…
日本人が昔、‘’どおれにしよおかな、
神様の言う通り‘’
って歌っていたようなものさ』
『……表と裏…』

『エミリーはエミリー・キーティングでガートルード・ダルトンではない、
でもエミリーは表向きはガートルード・ダルトンとして通っていた…。
無論本名ではないが、彼女にとっては裏の名前が本当の名前だったんだ、つまりエミリーだ、
裏の名前とはいっても、彼女はガートルードではないのだから本当の表はやっぱりエミリーだ。
自分でも時々混乱しただろうね、でも君の言う通りエミリーは正真正銘のエミリーで、彼女は嘘はついていない、
確かにガートルードという父親からの、それがたとえ愛情からだとしても御仕着せられた名前を背負っていたとはいえ、彼女はずっとその名前を嫌っていたからね、
‘’お婆ちゃんみたいな名前でいやだわ‘’ってね、
彼女だけじゃない、
アデルも嫌がっていたよ、
まあ、これは姉の受け売りでふざけて言ったんだと思うが…
‘’ハリエットだなんて女の子の名前じゃなくって考古学の辞書にしか出てこない難しいナニかの名前よ‘’ってね、』
彩は息を飲み、次の瞬間、山下の柔らかい光を満々とたたえた湖面の如く今や追憶に想いを馳せ、綺羅めくようなその瞳を見て、山下と共に思わず声を立てて笑った。

『でもビリーさんは悩んでいたんだ。
自分の愛する妻子に関するとてもデリケートな秘密を、

マスコミがもし嗅ぎ付けてそれが騒ぎにでもなれば、妻の美世子さんも、まだ当時幼かったエミリーさんも傷つけてしまうし、アデルだって愛する家族全員が晒し者にされてしまうのではないかと…。

彼は家族を匿(かくま)う為に、
敢えて画家であってもさながら芸名かペンネームのような名前を自分にも…
そして妻子にもつけた、
エミリーはガートルード、彼のイギリスの母方の祖母の名前を、
妹のアデルには父方の祖母の名前のハリエットを…。
美世子さんにはヨウコさんと…。
そして自らはウィリアム・クリストファー・キーティングという名前は封印し、敢えてビリー・C・ダルトンと名乗り続けた。』
『ミドルネーム…
…CはクリストファーのCだったのね…』
『ミドルネームでもあり、洗礼名でもある、聖クリストファーからとった名前なんだそうだ、
生まれて間も無く受洗した時に、神父からつけられた名前らしい、偶々ビリーさんの誕生日の守護聖人で、だからそうつけられたと言っていた、そういうことは向こうでは珍しくない、
ビリーさんはいつだったか冗談めかしてこんなことを言っていたよ、
‘’聖クリストファーは旅人の守護聖人だから僕にぴったりな霊名だが、日本がもう定住の最後の地となったから、聖クリストファーは旅人ではなくなった僕を今でも守ってくれているのかは、今ではなんだかもうよく解らない‘’と…。
そして最期までビリーさんは血の繋がりの無い娘、エミリーのことを酷く心配していた…


エミリーをいずれはアメリカに移住させようと考えていたビリーさんは、ニューヨークに棲む兄に逢いに行く為にアメリカへ向かう途中、飛行機の墜落事故に遇った。彼は何故か奇しくも最後の旅で、自分の守護聖人から見離されたんだ。』

『…そんな…でも…
でもエミリーにはまだお母様や…
その…他にも家族が…』
『ハリエットことアディのことか、妹の…アデル…』
『…アディ…そう呼んでいたの?』
『うん、家族やごく親しい一部の人はよくそう呼んでいたね、
アディは十代の時に亡くなったんだ、まだ高校生にもなっていなかったよ…ビリーさんの死よりも、もっとずっと昔のことだった…』
『アデルは何故そんなに若くして…?』山下は敢えてそれには答えようとはせずに話頭を転じた。
『当時は、まるでエミリーがアディを見殺しにしたかのような責められ方を母親からされて…
何もかも誤解というか…
悲しみのあまり美世子夫人は気がふれてしまっていたのかもしれない、エミリーへの折檻が拍車を増していった…。
エミリーはアデルと確かにいろいろあったが…
それでも妹を愛していたし、アデルも姉を幼いなりに案じていたよ、親や周りが勝手に決めつけて思い込んでいたことより彼女達の絆は本当はずっと強かった…。

でもアデルの死を自分のせいだと責められ続けたエミリーはやがて母や亡き妹を憎むようになっていった…。
それと同時に父からも母からも誰からも愛されたアデルのようになりたい、エミリーをやめてアデルに生まれ変わってアデルのように振る舞ったら自分も愛してもらえるだろうか?赦してもらえるだろうか?と思い詰めていた時もあった…彼女は一時期、僕にこう泣きながら漏らしたことがあった。
‘’エミリーなんてもうやめたい‘’と…。
髪をアデルのように金髪に染めてしまったり…
暫く奇行が続いたよ、
無理矢理アデルの声色を真似たり、アデルのふりをして…
なんとか失われた妹を自分の中に取り戻して生き返らせようとするかのように…。

いつの間にかそういった言動はいっときの熱病のように治まってはいったが…心の傷だけは治らなかったと僕は思う…。
当時、エミリーだってハイティーンといえどもまだ子供だ、少なくとも大人じゃない、
その狭間に揺れるセンシティブな時季だ。
これ以上無いほど深く深く傷ついたと思う…妹殺しの汚名を着せられて…せめてビリーさんがもう少し父として彼女を庇って上げていたら…
もっと違っていたかもしれない、
僕はふとそう今でも感じてしまうんだ…。

アデルが死んでビリーさんもあまりの悲しみに暫くの間、絵を描くことが出来なくなってしまった…。
それほど端で見ているのも辛くなるほどあの時の一家の苦悩と引き裂かれるような悲しみは凄まじく…中でも僕はやっぱりエミリーが、とても可哀想だった…
それなのに何もしてあげることが僕には出来なかったんだ…』
『山下さん…エミリーのこと…
お願いですもっと深く教えてください、私、彼女のこと、もっとよく知りたいんです。
だって私は…彼女の最高の理解者でいたいから…』

山下は彩を見て、遠い何かを呼び覚まされたかのような眼をしたが、どうしようもない哀しみと深い共感とに頷くと、半ば諦観の微笑みを浮かべてこう言った。
『解った…全て話すよ。
エミリーのこと、ガートルードのこと、
そしてビューティフルワールドで何が起き、どうやって僕の大切な永遠の友エミリーが全力で駆け抜けるように、そして燃え尽きるようにして生きたか、
そしてその短い生涯の最期を何故森の奥で遂げたのかを…』





…to be continued…

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