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小説『エミリーキャット』第60章・孔雀の夢

閑静な住宅街が近づくとそれぞれの荷物を少女達は順番に一つずつエミリーの肩から取ってゆき、『ご苦労様』と言ってそれぞれの家の門扉を開けて帰っていった。
同じように梗子も『ありがとうガーティ』と鞄と傘をエミリーの身体から取り去り、抜き取ると伏し目がちに家の中へと帰って行った。
“ガーティって呼んだ…
梗子はもう私をダルちゃんとは呼ばなくなったんだ…”
エミリーは6人ぶんの荷物運びから解放されそれでもよろめきながらヒョロヒョロと細長い四肢を軋ませながらまるで長い影法師か独りぽっちの蜘蛛女のように街角を横切った。
頬を泪が次々と止めどなく伝う…
エミリーはそれを拭うこともなくただひたすらに薄闇の射す住宅街の果てを踏破した。
『疲れて足が痛んでこれ以上歩けない、サブちゃんに電話して迎えに来てもらおう』
彼女はそう思って公衆電話の在処を眼で捜したが無かった。

すると背後から『ダルちゃん…?』という恐る恐るのような声がして、エミリーは鋭く振り向いた。案の定、そこには梗子が独りで立ちすくんでいた。
酷く済まなさそうな顔をしてうつ向いて彼女は立ち尽くしていた。『さっきはごめんなさい…
でも私、あの人達に逆らえなかったの』
『…別に構わないわ、
もう私には関係無いもの』
『そんな冷たいこと言わないで、まだ私達友達でしょう?』

『冷たいこと?貴女のしたことはじゃあ冷たいことじゃなかったって云うの?』
『ねえダルちゃんに教えてあげたいことがあるの、
とっても素敵なことよ、ダルちゃんにしか教えない素敵な秘密』『もういいわ、そんなの、
聴きたくない』
『そんなこと言わないで』
と梗子は泣きそうな声で言いつのった。
『ダルちゃんきっと喜んでくれるはずと思って私、ずっと今まで他の誰にも言わないでいたの、
取って置きの秘密だから、
私とダルちゃんのふたりのだけの秘密よ、』
『そんなこと…』
とエミリーは濡れた睫毛をそっと伏せるとこう言った。
『誰か他の子に教えてあげたらいいじゃない、
貴女には仲良しの仲間がたくさん居るんだから、
一緒になってあんなことをする仲間がね、
私はもう貴女のこと信じられない!』
エミリーが立ち去ろうとしたその瞬間、梗子は半ば追いすがるようにして話し始めた。
『うちの近所のおうちでね、
庭で孔雀を飼ってるところがあるの、信じられないでしょう?
でも本当なのよ、

ねっ、今度ふたりで一緒に見に行かない?その孔雀』
『そんなもの見に行ってどうするの?』
『だって孔雀よ、
動物園でもないのに普通のお宅のお庭から孔雀が見えるのよ、
普段は大きな鳥のゲージに居るけれど時々庭を歩き回っているの、お兄ちゃんから聴いたんだけど、孔雀ってね、お昼正午の十二時ぴったりになるとあの大きくて綺麗な羽根をまるで扇のように拡げるんですって、
何故なのかは解らないんだけど、孔雀にはお昼の十二時がぴったりと解るらしいの、』

『……』
『ねっ?素敵でしょう?
不思議でしょう?
ねえダルちゃん、
今度の日曜日、その孔雀が本当に十二時ぴったりに羽根を拡げるのか一緒に見に行かない?』
『…梗子、本気なの?』
『もちろんよ、
ダルちゃんとだから一緒に見てみたいのよ、十二時ジャストに見れるように早めに行きましょう』

ふたりは十一時に公園で待ち合わせをして、エミリーは父親に猫の写真を撮る為にと買い与えられていたオリンパスのカメラまで首から下げて用意していた。
が、梗子は一時間待っても二時間待っても更には三時間、四時間待ってもとうとう現れなかった。
夕刻の淡い茜いろの空は「可食性」を思わせる彩りを魅せることがある。

白餡で引き延ばした食紅のような色に染まった空は時間と共に透明感を増し、さながら薄紅羊羮(うすべにようかん)のような半透明の茜いろと化し、エミリーは刻々と宵闇のように深まる悲しみをまぎらわせようと、その空へ竹串を刺し、四角く切れ目を入れて抜き出すと口へ運ぶ想像をして独りベンチの上で薄ら寒く笑った。

そしてその光沢を帯びた桜貝いろの空を鴉達が鳴き交わしながら、どこへともなく帰ってゆくのをエミリーは見た。
そのエミリーの頬を空を映したパールピンクの泪が伝い落ちた。

エミリーはひたすらに空の色の移ろいを見つめ続けた。
それだけに感情を収斂させようと努めた。
梗子のことを考えたくなかったからだ。
もっと遠いはるか彼方の空では横倒しのVの字に連なって飛ぶ渡り鳥であろうか、
鳥達の群れが連なりVの字の鋭角の先端を飛ぶ恐らくリーダー格の鳥を筆頭に見る見る芥子粒(けしつぶ)のように小さく遠ざかりやがて空の秘奥へ吸い込まれるように消えていくのを見た。

『…私ったらまたやられたのね、』

エミリーは仕方無く公園のベンチから腰を上げるととぼとぼと短く刈り込まれた草地の中にうねるようにある煉瓦敷きの小径を伝うようにして帰った。
その時、帰り道でまるで細い針金のように無気力に微風に振動する渇いた雑草ですら、自分より遥かに立派で自分のように愚かではないと感じて彼女は居たたまれなくなった。
通りすがりの老人がエミリーの足元ぎりぎりの路傍に勢いよく痰混じりの唾を吐き捨て、危うくそれはエミリーの靴先にかかりそうになった。
夕陽を浴びて熱く渇いた路面に小さく円を描くように飛び散ったそれはまるで自分の心に掛けられたもののようにエミリーは感じて心が鬱(ふさ)いだ。
エミリーは燃えるような黄金赤(きんあか)と柑子(こうじ)いろ、亀覗き(かめのぞき)、紫苑、花紫、灰桜、猩々緋(しょうじょうひ)の綾織りと化した夕映えの空を見上げて心の中で叫んだ。

『梗子、どうしてなの?
…私……
貴女のことが…貴女のことが…
大好きだったのに…!!』

翌日、教室で逢った梗子はエミリーとは決して眼を合わせようとはせず、他の少女達に混じって何かエミリーには知る由もない談笑に耽っていた。
その合間に他の少女達がクスクスと嗤いながら例により肘で互いを突つきあいながら時折、エミリーのほうを振り返って見るとどっと洪笑を上げた。
その嗤いの黒ずんだ渦の中に梗子はなんの臆面も無く居た。

その2ヶ月後、梗子は今度は父親の仕事の関係でシンガポールへ行くことになり、エミリーとはなんの言葉も交わさないままに彼女の前からまるで悪夢か朝露のように消えてしまった。

『そうか…それは辛かったね…
可愛そうにエミリーちゃん、
一番の親友だと思っていた子からそんな風にまた騙されただなんてさぞかし…』
とケンイチは丘の上でエミリーと並んで座りながらその先の言葉の継ぎ歩を失った。
どんな言葉を選んだところでどれも皆、目の前の傷ついた少女には薄っぺらく虚しく響くような気がしたからだ。
『いいじゃないか、梗子ちゃんなんか居なくなってしまっても…
ケンイチおじさんがエミリーちゃんの友達だよ』
『本当?』
『ああ…ずっとエミリーちゃんがこんなお爺さんと友達でいることに飽きるまでは友達でいるよ』『私、飽きたりしない!
私は梗子とは違うわ』
『あのね…エミリーちゃん』
とケンイチはエミリーの肩を横並びに座ったまま丘の上で自分のいかにも年代物そうなエルボーパッチのついた重いツイードのコートを開くとその中へ少女を招き寄せ、さながら雛鳥のように蒼白いエミリーを暖めながら言った。
『梗子ちゃんはきっと他の女の子達に唆(そそのか)されて仕方無く、そうしたんじゃないかな…
もちろんいいことなんかじゃないんだけど…きっと仕方が無かったんだよ』
エミリーは老人のマフラーに吊り革のようにつかまりながらこう言った。
『仕方が無かっただなんて…
そんな言葉酷い!私、とても傷ついたのに!』
『そうだね、そりゃあそうだ、
エミリーちゃんが一番可愛そうだと私だって思うよ、勿論そうさ、でもね、きっとそうしないとその子も一緒になって虐められると思って怖かったのかもしれないよ?その子はエミリーちゃんと違って弱かったんだ、
人は弱いからね、
よく長いものには巻かれろなんて言うけど巻かれるというか負けてしまって、
おじさんにも憶えがあるけど、
きっと後からその子は心の中ではとても後悔するかもしれないよ』
『おじさんは何故私が強いだなんて思うの?そんなことない、
だって私だって…私だって』
エミリーはその先の言葉を失った。
声も無く泣きむせび肩を震わせるエミリーを老人は娘のように、
凍える小鳥のように、優しくコートの中で抱き寄せた。
ふたりは寒々しい枯れ草の揺れる丘の上で夕陽の沈みゆく街を黙って眺め続けた。

それから半年以上経ってようやくエミリーの中から僅かな交流で終わった梗子の面影は徐々に薄らいでいったが、ある朝、クラスの担任が重々しい口調で出席をとり終わった後にこう言った。
『以前みんなのクラスメイトだった関西からの転校生の大塚 梗子さんが先日シンガポールでお亡くなりになりました。』
それを聴いて子供達は一斉にどよめいた。
黒っぽい灰色の不安や恐怖の波が
地表や野面(のづら)を撫でるように子供達の間や上を滑りゆきながらやがて教室いっぱいに充満した。

『スクールバスの運転手の居眠り運転により玉突き事故が高速道路上で起こり、ほとんどのお子さん達は怪我だけで済んだようなんだけど…大塚さんは実は心臓が少し弱かったので…きっと怖くてストレスだったんでしょうね、
皆さん心臓弁膜症って病気、知っていますか?
大塚さんはその病気を持っていて…だから体育の授業はよく休んでいたの、でもまさか…外国でそんな亡くなり方をするだなんて…
…可愛そうに…』
女教師は思わず顔を覆って啜り泣いた。
教室はまるで水を打ったように鎮まり返り、しばらくすると今度は声を潜めて囁きあう少女や少年達の声で教室はひたひたと濁った水が浸水するようにその不安という小さな声で色濃く満たされていった。
『えー…嘘でしょう?
だからよく体育休んでたの?』
『体が弱いとは言っていたよな』
『心臓?初めて聴いた』
『だって小学生なのに心臓なんて悪い人いるの?』
『居眠り運転のバスの事故だなんて怖い』
『外国はスクールバスだもんな』
『私、知ってる子供が死んだりしたの初めて、』
『俺も』彼らは怖いと言いながら子供特有の逞しさで不安感や恐怖心にすぐに馴れてしまい、むしろ段々自分達のかつてのそう親しくもなかったクラスメートの死に不思議な新鮮ささえ感じ始めていた。
そして新鮮さを覚えること事態に無自覚ではあるものの、自分達にはそれほど死が縁遠いものであり、だからこそまるでテレビドラマの中での死を見るように、それはリアリティーなど無く、彼らにとって梗子の死はさながら妙に渇いて美々しい造花のようだった。

むしろ話の種が出来たこととして当分の間、梗子の死は子供達の間で珍味なもののようになんとなく色褪せて感じられて飽きるまでは重宝がられるであろう。
それと同時にエミリーは梗子の死を聴いた衝撃からいつまでも覚めることが出来ず真っ白な頭の中、ふたりで話したことや些細な喧嘩、梗子が見せたあの涼しい瞳に浮かぶ悲しみといった思い出が甦っては消え甦っては消えして、ひとときもエミリーの心を休ませることは無かった。

ある夜、エミリーはなかなか睡れずにベッドの上で小学生らしからぬ転々反側に身を焦がす想いで居た。

一緒にベッドで眠っていたロイがあまりに寝返りばかり打つエミリーに閉口し、ドアレバーに前足を掛けると器用に扉を開け、どこか違う寝場所を求めて階下へと駆け降りていった。

朝と夜の狭間の時間にエミリーはうつらうつらと白河夜舟のような状態となり、そのどこか安堵出来ない浅い睡りの淵瀬で彼女は夢を見た。淡紫(うすむらさき)の狭霧が立ち籠める見知らぬ疎林の中を夢の中歩くエミリーの目の前に木製の突堤が水面の真ん中近くまで深く突き出したその一番先に梗子が立っているのをエミリーは見つけた。
梗子は桔梗の花のような江戸紫のブラウスを着て、鮮やかなエメラルドグリーンのスカートを履き、黒いリボンで髪を高くポニーテールに結わえ上げていた。

『こっちよエミリー、
こっちへ、来て』
と梗子は生きていた時となんら変わりなくあの然り気無い調子で言った。

『なんだ、梗子生きていたの?
貴女のこと先生はバスの事故で死んだって言っていたわよ』
とエミリーは言った。
『そうよ、そうみたい、』
と梗子はエミリーの真似をするように肩をすくめて困ったように言った。
『最初は私も解らなかったんだけど、自分のお葬式を見ちゃったの、パパもママもお兄ちゃんも妹もみんな泣いていたわ、
泣かすつもりなんか無かったのに…悲しかったわ』
『じゃあ梗子は幽霊?』
『そうかもしれない、
よく解らないけどもう私、生きてはいないもの』
『でも全然怖くないわ』
『また逢えて嬉しい、
エミリー、最後にエミリーには、どうしても逢いたかったの、
パパやママはかえって悲しむかもしれないから…夢に出るのはやめたんだ、それにお兄ちゃんや妹がパパやママ達をきっと慰めてくれるはずだから、私よりずっとふたりはパパ達の自慢だったのよ、
満足に読み書きすら出来ない子はうちでは私だけだったもの』
『…でも梗子は…とっても可愛くて…まるで…』
とエミリーは慰謝の言葉をかけようとしてそれが上手く浮かばず困って沈黙してしまった。
そしてただ梗子の手を片手を延ばしてそっと握った。
その手を梗子は両手で握り締めてこう言った。
『私、そんなに悲しくないの、
だってこれから私が行くとこは、もっと生きるのが難しくないとこらしいから、そう聴いたのよ、
もう病気で苦しむようなことも無くて…って字が読めなくたって別に構わないとこなんですって』
『誰から聴いたの?』
『それは内緒』
ふたりは手を繋いだまま微笑んだ。
『エミリー私のこと赦してくれる?孔雀のこと…』
『私、ずっと待っていたのよ夕方暗くなるまで』
『…ごめんなさい本当に、私ったら…』
『…でも…どうして私がガーティじゃなくてエミリーだって解ったの?死んだらそういうことって解るの?』
『教えてもらったのよ、
とても優しい人にね、
最後にガーティに逢いたいって言ったらその人があの娘はガーティじゃなくて本当はエミリーなんだよって』
『それって誰?』
『知らない、
まだ私もよく解らないの、
でもひとつだけなんとなく解るの、その人はとても好い人よ、
どこの誰よりもね』
『その人と梗子は行ってしまうの?』

『ええ、でもその前に、ねえエミリーに是非見せたいものがあるの、きっともう少ししたら来るわ』
と言って梗子は不思議な緑色の空を見上げた。そこには何やら歪(ひず)んだ形の時計の文字盤がまるで月のように浮かんでいた。

それはネオンなのか夢幻なのか、よく解らないしろもので、よく見ると突堤の先に続く湖面にも幽かに波打ちながらやはり時計の文字盤が水面に映る月灯りのように浮かんでいる。
かと思えば突堤からエミリーが歩いてきた疎林を振り返るとその木々の枝に溶けた飴のような時計が洗濯物を干してあるかのように、ぞんざいに掛けられ、それらはぐったりと木の枝から垂れ下がっていた。
いずれもみんな時計であることに違いはないものの、おのおの総てが違う時間を指していた。
『ここには時間がたくさんあるの?』とエミリーが聴くと梗子は答えた。
『そう、前に居た世界の…世界中の時間と今居るここの時間と、これから行く世界の時間とが同居して、ここではまだそれら総てが犇(ひし)めきあっているの、

どの時間を私は選んでもいいらしいんだけど…でもあの木立ちの中の時計の時間は出来れば選ばないほうがいいよって云われたの』
『誰に?その…優しい人に?』
『そう、優しい人に、この世の中に沢山いる‘’優しい人’’なんかとは異う本当の優しい人に』
『…よく解らないけどなんだか解るような気がする』
『特にエミリーなら解るはずよ、私もきっとそうだったはずだから…
だってまるで私、公園や駅の傍に沢山居る鳩みたいな‘’優しい女の子‘’の一人だったでしょう?
だけど…それは数ばかりが勝(まさ)ったフェイクなのよ、
でも人は偽物を盾にしなければ上手く生きてゆけないからやむを得ないんですって』

『それもその優しい人の受け売りなの?』
それを聴いて梗子は愉しそうに笑った。
『ねえ皮肉屋さん、
空の時計を見て、そろそろ廻り始めたみたいだから』
ふたりは手を取り合ったまま緑色の空を見上げた。
そこに大きく歪(ひず)んだまま、
ぷかんと明るい空に置き忘れられた有明の月のように浮かぶ巨大な時計の真珠いろの文字盤の針が急にぐるぐる廻り始めていた。
やがてその回転はゆっくりと速度を落としてゆき、時計は短針と長針をぴったりと重ねて十二時を指し示した。
と同時に靄(もや)の立ち込める湖面の奥から一艘の小舟がゆらゆらと立ち現れた。

ふたりの前を小舟はゆっくりと真っ直ぐに流れ着き、その上で乗れる限りの孔雀達が溢れんばかりに居てそれらは一斉にその巨きな扇のような飾り羽根をぶつかり合うこともなく開いた。

エミリーは思わず息を飲んだ。
『ねっ?言った通りだったでしょう?私、どうしてもエミリーと一緒に見たくって』
『梗子…凄いわ、なんて綺麗なの、貴女が私にこれを見せてくれたのね、とても…とても嬉しいわ、
孔雀達もとても…
可愛いらしいわ、』
『よかったわ、エミリーと一緒に最後にこれが見れて…』
梗子は背伸びをするとエミリーの頬に自分の頬を当てながら、掠めるような軽やかなキスをその頬にして耳元でこう囁いた。
『イッツタイム、
エミリー、私もう行かないと…』
『えっ?』
とエミリーは身を離して梗子を見た。
『もう行ってしまうの?』
『そうよ、
だって私はいつまでもここに留(とど)まってはいられないもの』

飾り尾羽を開いた凄艶な孔雀が重なるように無数に乗った小舟はいつの間にか突堤の傍にさながら、もやい綱で繋いだように小波の振動に揺れながらもふたりの前にしっかりと在った。

『エミリー私のこと忘れないで』
梗子はそう言いながら泪を浮かべつつも微笑みながら、孔雀だらけで立錐の余地もないその小舟の中へと迷うことなくまた振り返りもせずにごく自然と孔雀と孔雀の隙間に片足を差し入れるように一歩下ろした。
そんなことをしても梗子が小舟の中に溢れかえった孔雀を踏んづけることにより起こる禽達の阿鼻叫喚など全く起きず、まるで梗子と孔雀とが一心同体であるかのように緊密な関係にあることがエミリーには理解出来た。
同時に梗子と孔雀達は空気か水のようにお互いに触れあってもそれは透けるように霧の中で溶解し合い、同時に融和するかのように見えた。
そして梗子がもう片方の足を突堤から舟の中へと一瞥もくれることなく下ろすと同時に、ふたりの手は湖面の上でほどけるようにして離れた。

エミリーはまだ水の上へその手を延ばしたまま思わず叫んだ。
『梗子、行かないで!
行っちゃ駄目よ、梗子はまだ子供なのに』
『子供でも行く子供はいるのよ、でも大丈夫、私はそこでとても大切にされるから』

梗子は孔雀の舟の中に独り、
立ちすくみながらそう言った。
『そこって…どこ?』
『私にも本当のこと言うと、
よくまだ解らないのよ、
でも何故かしら同時に解るの、
きっとそこは…
この世の中よりずっと…』
と言いかけて梗子は湖面の奥へとどんどん遠ざかりつつある小舟の上で思わず小さな人形のような両手で顔を覆って泣いた。
『ああ、エミリー、エミリー、
ごめんなさい、貴女ともっと仲良しでいたかった、本当は貴女を傷つけたりなんかしたくなかったのに、
本当にもっともっと…
ああ、ごめんなさい、私ったら、
何がとても大切だったかなんて、まだよく私には解らなかったのよ、とても愚かで残酷な子供らしい子供だったの』
『泣かないで梗子、
お願いだからもう泣かないで、
これからもずっと…私達友達よ、
私、梗子のこと絶対忘れない!』『私もよ、
私もエミリーのこと絶対忘れない、いつも庇ってくれた貴女は私の親友だった、
エミリー私なんかより生きてゆかないとならない貴女のほうがずっと…ずっと…これからきっと…』

と言うと彼女はまた小舟の中で孔雀達に埋もれながらしくしくと啜り泣いた。
『梗子、泣かないで、
私頑張るから、何があっても…
そう簡単には負けないって約束するから…
だから泣かないで、
心配しないで、
私頑張るから…
梗子のぶんも頑張れるから…
私ならもう平気、大丈夫よ、
だから安心して、
私のことなんか心配しないで梗子こそ幸せになって、
だって貴女は私の大切な友達だもの!幸せで居て欲しいの!』

『エミリー…』

『梗子』

『エミリー!』

『梗子!』

ふたりは互いの名をただ無力に呼び交わし続けた。

エミリーはただ突堤の先端にそそり立ったまま、
梗子は孔雀達と共に小舟の上へ座ったまま、
徐々にふたりの距離は水の上を滑るように離れていった。

ふと気がつくと梗子の座る両脇の二羽の孔雀だけが何故か、輝くばかりの純白でまるでこれから旅立つ梗子をその二羽が護っているかのように見えた。
エミリーは激しい悲しみを覚えたがそれと同時に悲しみに縁取られた深い安堵感に満たされもした。

『エミリーさようなら、
さようならエミリー!
ありがとう私と出逢ってくれて…
ありがとう!
さようなら私の友達、私の大切な人、私のエミリー!
また逢う日まで!』

梗子のその声を最後に彼女と、
小舟の上をこんもりとまるで小山のように隆起する孔雀達とを乗せた小舟は湖面を濃い水煙りにかき消され、やがてその秘奥へと吸い込まれるようにして消えていった。




…to be continued…

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