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なぎ

瀬戸内海の小さな島は今、騒めいている。なんでも遂にこんな島にまで軍から直々の要請が下ったという。
中身は全く伝わって来ないが、既に向こうの島は秘密裡に毒ガス実験が行われている。
俺たちの島も間違い無く、大戦に勝利する為の貢献を強いられるのだろう。

何が出来るというのか。この貧しい漁師の村に蓄えなどある筈も無い。狭い島の地面を掘っても何も出てきやしない。海に出ても採れるのは小さな魚ばかり。

村に誇れる物があるとすれば、それは空の雲を鏡のように映す、ただただ美しい凪いだ海。

この海に浮かぶ小さな島など、大戦という大きな波が押し寄せればひとたまりもないというのに。

村長からはまだ何も聞かされていない。
業を煮やした年寄りたちは、顔を合わせると決まってこの話だ。

「この島も毒ガスにヤられるのか?」
「海を捨てたらワシらは生きる場所が無い」

そうと決まる前から根拠の無い噂で大袈裟に波風をたてることも無かろうと口を挟んだ。

「村長からの話を待ちましょうよ」

「お上の命令には逆らえんのだ。今すぐ立ち退けと言われるかもしれん、アンタのんびり待ってられるか?」
「ああ、アンタは病持ちじゃったな、若いのに召集の声もかからんで、呑気でいいな」

嫌味を吐き出して年寄りたちは散り散りに去ってしまった。
だが、明日も明後日も寄り集まっては散開することを繰り返すのだ。仕方ない。軍からの要請の中身を知るまでは誰もが穏やかで居られなかった。

俺だって好き好んで召集されない訳じゃないよ。
男として出来損ないの烙印が押されているこの身体、無理にでも戦地に行けば少しは役に立たないか?
足手まといなら、捨て駒に使えばいいだろ。

若さだけでは行き場が無い。無駄な熱量をぶつける場所も無い。
だから、俺は波打ち際に出かけて貝を拾うことに1日のほとんどを使う。

不完全人間の毒気は、海が全部吸い取ってくれる。だから意気がる年寄りたちの戯言とは、益々混じり合えなくなるばかりだ。

何処かで、不具で良かったと思う。
戦争に関わらなくて良かったと。

微かに残る真正直さも、海は吸い取っていく。

俺の心は今、凪の海だ。

村長からの知らせがあると、村中の家長が呼びつけられた。独り身の俺もこっそり紛れて話を聞く。
この小さな島に下った要請は、発光する海蛍を集めることだとか。

「あんなもん、何に使うのだ?」
「密林奥地の道しるべとして発光させるそうな」
「暑い密林に着く頃には死んでおるだろ?」
「乾燥させておけば、水に濡らして1回だけは光るらしい」
「水はどうするのだ?」
「小便かけても光るだろ、兎に角大量だ。この村に唯一献上できる物があったのだ、年寄りも、おい、そこのお前もだ。しっかり奉公しろよ?」

指を指され、一同が俺を振り返った。

「はい……」

俺は俯いて一層小さくなった。

海蛍を探すのは難しくはない。陽が落ちたら波打ち際の微かな煌めきを手当たり次第掬い続けるだけのこと。

ただし思うより重労働だ。桶一杯の海水を汲み、ザルにあけるだけだが、身体にむち打ち一体誰の何の為にこんな馬鹿げたことを、という思いが余計に辛い作業にさせる。
いよいよ中枢部も血迷ってきたのだな。

「いた、いた」

あはは…俺もこの歳になるまでわざわざ手のひらに乗せてみることは無かった。いざ間近で見ると小さな生き物が健気で可愛いなと思える。
だが喜びは直ぐに掻き消える。
考えてもみろよ、手の中に収まる数。これをあと何度繰り返したら密林全体にばら撒けるのか。

毎晩黙々と、しかし身体が付いて行かず休み休み、浅瀬で海水を汲み続ける俺は、感情も思考も無い、言われた通りにだけ働く機械仕掛けの人間だ。

だが疑問を持つな、哲学ほど食えない学問は無い。父よ、あなたは間違っていたのだ。我ら人間の愚かさに疑問を持てば、排除されて当然だ。

ある晩のことだった。
1人の娘が俺の隣に来て桶を持ち、手伝うという。

村長の娘じゃないか。

「叱られるよ?」
「いいの。私も何かお役に立ちたい」

君には君のお役目があるだろう? と、もっと強く断れは良かったが、俺と同じように黙々と水を汲み続ける娘には、何を言っても無駄のようだ。
ならば好きにすればいい。

毎度海風で汗を拭う俺を見兼ねたか、ある日娘は持ち合わせの紐で俺の伸びっぱなしの髪を縛ってくれた。

「書生さんみたい」

お互い黙ったまま再び海蛍探しに没頭する。
世の同世代の男は髪を伸ばすのは言語道断、短髪に軍服帽子、勇ましく戦いに出向いていったよ。
後を追いそびれ、兵士として価値の無い俺は、髪を切りそびれたままだ。

それでも、「書生さんみたい」と言われたことで、少し身なりに気をつけねばな、という気にされた。

先ずは、擦れた膝を繕うことにした。亡き母の裁縫道具を探して埃を払う。綻びた膝に布を当て、慣れない針仕事。針が指先を刺してしまった。やがて小さな点から赤い血が染み出す。

俺も血の通う人間だったのか。

咳き込んで痰に混じる血には、落胆しか感じられなかった。今、針で突いた穴からは生きている実感が、脈動と共に俺を突き動かし始めていた。

ある晩は、娘が少しばかりの水と握り飯を持って来た。
恐らく自分の食べる分から取り分けたのだろう。俺のことを思うくらいなら、我が身を労わるべきだ。
そう案じ、娘の差し出す包みをそっと押し戻すだけで良かったのに、この健気な娘を抱きしめたいと思う気持ちには敵わなかった。

「ありがとう。一緒に食べよう」

浜辺に腰を下ろし、小さな握り飯を2つに分け合う。たった一口の塊が、惜しい。空腹だからでは無い。そんなことは取るに足らなかった。

この娘と頬張る時間を少しでも引き伸ばしたい。戦争に勝つ為に海蛍を黙々と漁るのではなく、ほら、君と二人で煌めく波を眺めながら、語り合えたら。

そうしたら何から話せばいい?
君の願い? 俺の夢?
嫌なことでも笑える話でも何でも構わない。

凪いだ海に映る夜の月が、優しく発光した波に揺れている。
虫たちの煌めきは、夜空の星より余程幻想的だろ?
この島に育って良かったと感謝したくなるくらい、俺は、君を、

抱きしめたいんだ。

突然、いや必然なのか?
穏やかなる行き交いの終焉がやって来た。

「出来損ないの分際で、娘をたぶらかしおって!」

逢瀬が見つかったのだ。
娘が居ないと騒ぎになり、村長を始め、村人たちが探して、結果この有り様だ。

殴られる
蹴られる

こんな痛みもあったのか、と乱闘に縁の無い少年期を過ごした俺には新鮮ですらあった。

「こういうことだけは一人前か!」
「他の男は皆、国の為に命をかけているのに、このクズが!」

日頃の鬱憤を晴らす大の大人たちが、抵抗出来ない弱った男1人を、寄ってたかって袋叩きか。

動けない。

痛みも分からなくなって、意識が遠くなる。

俺は、別に死んでもいいんだ。
何の役にもならない身体。
闘いには不向きでさ。

ただ、
「今は死ぬ訳にはいかない」
という、この世界にしがみつく理由が一つでもあればいいなと、
ささやかな夢を見るくらい、
許してくれたって、良かったんじゃないか……?

月が雲に隠れた。真っ黒になった海に、俺たちの桶では到底掬いきれなかった海蛍だけが、波の在り処をキラキラ囁くように教えてくれている。

この波の形……

にわかに天候が荒れそうだ。

乾燥させる為に砂浜に広げていた海蛍に、真上から土砂降りの雨が注ぐ。

苦労して浜辺一面になるまで集めた海蛍が雨に打たれた刺激で、一斉に発光し始めた。

全部無駄か。

あは、あはは…

乾燥させて水の刺激で発光するのは一度きりじゃなかったか?

起き上がれず寝転がったまま、腹を抱えて笑った。

何が密林、面白過ぎだろ、あはは…

俺は今まで誰の何の為にあんな馬鹿げたことを。

それに、
お前ら、ちっぽけな身体して、なんて綺麗に夜を灯してくれるんだ。

国のため?

そうなのか?

勝つか負けるか?

そうじゃないだろう?

勝って、だから何なのだ?

生身の人間を手駒にして、陣取り合戦と大富豪を演ってるだけじゃないか。

だから、炉心融解した発電所が都心でなくて良かったと、一国の大臣が平気で言えるのだろ?

互いの科学技術の自慢バトルをやるにしてもさ。

その秘密兵器の1つが発光する海蛍だなんて、本気で考えてる時点で、

もうこの国は、終わってたんじゃないか!

大戦が終わった。
島の海は変わらず穏やかだ。
俺の心も凪いでいる。

失意も失望も何事も無かったかのように。

目を閉じれば、砂浜で戯れる子どもがキラキラと声をあげている。

びっくりさせようとでも思ったか、砂まみれの手で目隠しされた。じゃれついてしばらく離れなかったが、おねだりに飽きたのだろう、波打ち際にまた駆け出してしまった。

楽しそうな後ろ姿を見送り、再び目を閉じる。

何から語り合おうか。君の願いでもいい。俺の話を聞いてくれるのかい?

波の音は、生きとし生けるものの脈動のようだ。

打ち寄せる波は大きく、あるいは小さく、新しい光を縁取っては寄せて、また返す。

新しい光を縁取っては寄せて、
また返す。

俺が何故この世界にしがみつくのか。

さあな。

ここには儚い光を発して生きる者達が居り、
その機微に触れる度に、こうして筆を走らせる為

とでも書いておこうか。








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