焦点ー幸せな家の設計図
「ひまりちゃんの演奏聴くのは、中三の時のピアノ発表会以来かな。一高(イチコウ)の吹奏楽はさすがだね」
6時半ぴったりに妻を連れ、姉ファミリーの家にやってきたオレ様。
吹き抜けの手すりの人影にチラッと目をやると、姪っ子ひまりがこちらの様子を伺っている。
面倒な挨拶がわりに少し大きめの声でそれだけ言った。リビングのソファーには小難しそうな専門書を読む義兄。オレの姉の夫ってか。その隣にドッカリと座った。
オレ様の設計した家だ、実に遠慮が要らない。
ただ、言っちゃ悪いが感受性の塊のような思春期真っ盛りの姪っ子とは、あんまり接点を持ちたくないのが本音だ。
んな訳で、本を読んでる義兄さんにチョッカイをかけてやろう。
「ついに老眼来ちゃいました?」
貴重な勝ち点は、遠慮なく取りに行くよ? あは。
「デキる男に見えるだろ?」
まあ相も変わらず無駄に見た目がいいとは認めるが、これは負け惜しみにしか聞こえないね。
たいした能天気な男め。
□
義兄さんは眼鏡を外し、読みかけの本をパタンと閉じて、オレに微笑んだ。
「イツキはどうした?」
樹はオレの息子の名前。よくもまあ息子を引き合いに、上手いこと話を逸らしたもんだ。
「アイツ口の中切ってんですよ。熱いの辛いの食べないってごねちゃって。
贅沢言うなって怒鳴っといた。
あとで来ますよ。ケガしたのが恥ずかしいんでしょ」
『こんばんはー』
「ほらね? 来た」
樹もオレと同じく姪っ子をチラ見して、それからキッチンに入っていった。
さすがオレの息子、今ので考えが手に取るように分かってしまった。
珍しくヘマやらかしたんだな。
その怪我したのだって、女の為に決まってる。
□
「さて、みんな揃ったか」
義兄さんが手のかかる娘をリビングに呼び寄せた。案外と素直に降りてきたひまりは、頭に手をのせられた途端、これだ。
「ボサボサにしないでよ?」
「イヤなら結びなさい」
「どっちもイヤ 」
似た者父娘なんだって。
微笑ましくもあり、
…馬鹿馬鹿しくもある。
テーブルに置かれた眼鏡。手持ち無沙汰なもので、義兄さんの眼鏡をかけたり外したり、レンズ越しにこの家にいる人たちの小競り合いを眺めて暇をつぶす。
あーあ。オレも数年後にはお世話になるんだろうか。
この老眼鏡…もとい、リーディンググラスってヤツは、屈折した光の焦点を網膜上に正しく結ぶ。
要はぼやけて見える物にピントを合わせてくれるんだが、
確かに物事をぼやかして誤魔化して騙そうとする事案は、世の中にはウンザリするほど存在する。
手元がよく見えないから老眼…もとい、リーディンググラスをかけるのは、オレにも理解できるんだけどさ、
果たして至近距離でぼやけているのは、活字だけなんだろうか。
ぼんやり映る活字以外の出来事には、
効果が有るかい? ってことだ、義兄さんよ。
リーディンググラス…もとい、老眼鏡なんてオレには逆にピントが合わないけどな。ほら。
ざまあ。オレ様の水晶体の方がまだまだ若いんだ。
慣れないレンズを鼻の頭にずらし、裸眼で仲良し父娘を眺める。いい加減煩わしくなり、心にも無い言葉を吐いてしまった。
「いーなー親父と娘」
「なら今からでも作ればいいだろ」
「お父さん、キショ…」
ププッ
娘の前で子作り発言は無いよ。ひまりは女子高生だぞ?
「あーあ。ワンパンチ食らっちゃって。お気の毒なオニイサマ」
「お前も娘がいればキショ仲間だ」
義理の兄弟だが本当に仲が良い
と、よく言われる。
見せかけだ。
この位の哀しいスキルが無きゃ、大人なんて演ってられない。
□
「ねえ叔父さん、防音室にちゃんとしたカギつけてよ。叔父さんなら簡単でしょ? キショいお父さんが侵入してくるから困ってるの」
そう来たか。
防音室はね、この家を建てる時にキショい義兄さんがオーダーしたんだよ。
書斎やらガレージより重要だったらしい。
今や全く楽器に触らないから、専ら娘がピアノを弾く為だけの部屋に成り下がってしまって。
自慢の音楽部屋が小娘1人に占領されている。お陰で設計者のオレ様ですら、敷居が高いじゃないか。
「あ、それダメ」
「なんで?」
「中から助けを呼んでも外に聞こえないだろ?」
「あたしはピアノ弾きながらだったら死んでもいいんだけど」
幸せに育てられたガキの分際で、軽く言いやがって。
「万が一、ホンモノの不審者と二人きりで閉じ込められたらキケンでしょうが」
オレたち姉弟のようになってもいいのか? ってな。
□
「叔父さん、キショ。あとお父さんの眼鏡ぜんぜん似合ってない」
あれあれ? 意外だ。お父さんのこと大好きなんだ?
だろうな、悪かったよ。
ずり落ちた眼鏡を外し、元通りテーブルに置いた。
コトン
…いや、もしかして、覚えてるのかな。
息子が常々バカ呼ばわりするこの姪っ子は、チビの頃に防音室で一度見てる。
見てはいけないオレたち大人のコミュニケーション。
義兄さんの所為だったと言い訳するにしても、だ。
アレだけはミスった。
それに比べたら眼鏡が似合わないくらい、どうって事は無いが。
「やべ、オレにはワンツーかよ」
「準備できたわよー」
優しい母を演じ、貞淑な妻を演じ続ける「姉」の声がリビングに透る。広い空間がデザインされた、実にいい家だ。一同がテーブルについた。このダイニングテーブルもオレがこの家のために特別に誂えた、一枚板の作品だ。
□
「ノンアルコールのワインか。フランス直輸入の。ありがとう。みんなで味見しよう」
義兄さんが手にした今夜のオレの手土産は、一見上質なワインに見えるノンアルコールだ。
見映えするだろ? ジュースなのに相応の瓶に入って赤、白、スパークリングの3種ある。
アルコールに弱い「姉」が喜んでくれれば、もうそれだけで。
「乾杯はスパークリングにするか?」
「任せますよ」
揃ってワイングラスで乾杯したあと、樹がイテ…と呟いた。
そういや口の中を切ってたっけか?
「なんだお前、デリケートだな」
「昨日父さんがアヒージョとか食わすからだろ」
「あはは…オレの所為かよ」
コイツもまだまだ高校生。友達ライクな親子関係を築いてきたのは、
お前とならいつか分かち合えて、酒を飲み交わせると期待しているからだよ。
但し、
オレのようには、なってくれるな
といつも願っている。
それだけが義兄さんに対しての良心だ。
オレは自分をいい人間とはこれっぽっちも思っちゃいない。
だが義兄さんの目が「姉」から一瞬でも目移りしようものなら、…
スパークリングワインに寄せる「姉」の唇に目を遣った。
ん?
ヤバくないか? ピントが合うまでの、このタイムラグ。
すぐそこまで来ている自分の視覚の衰えにやや狼狽えたが、それを認めると義兄さんを嗤えない。
なんつって、まあ杞憂だな。
ぽってりとして締まりのいい唇の像が網膜上に焦点を結ぶまで、たったの1秒もかかっちゃいないんだから。
セーフ。
そしてコッチも見落としちゃいない。
オレの視線の動きに気づいた妻に対しては、デキる夫の嗜みだ、艶よく微笑み、テーブルの下で妻の腿にそっと手をのせた。
今夜の予約。
…だろ?
□
一同がワイングラスをかざす。少し遅れてオレもまた。
幸せな食卓に、屈折した光。会話が途切れる。
今、ゴクリと音をたてたのは
誰だ?
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