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場面緘黙と分人主義

場面緘黙の分人性

場面緘黙(ばめんかんもく)とは、話したくても話せない不安症状のこと。家では問題なく話せるが、園・学校や職場などに行くと話せなくなってしまう場合が多い。

場面緘黙の症状として、相手や環境によって話せる度合いはかなり変わってくる。この場合の話せる度合いとは、自分を出せる度合いと言い換えてもいい。

例えば、家族とは問題なく話せるし表情豊かに会話できるが、先生とはうなずきでしかコミュニケーションが取れず無表情。近所の幼なじみとは笑い合えるが、教室でクラスメイトたちに囲まれると笑うことも声を出すこともままならない。初対面の人と一対一では話せるが、見知った複数人・集団では話せないなど。

(場面緘黙でいうところの)場面=人、場所、活動といった要因が絡まり合い、都度都度その人の話せる度・自分を出せる度に影響してくるのが、場面緘黙という不安症状の特徴だ。

また「場面緘黙によって確立されてしまった喋らないキャラを崩してはいけない」という強迫観念を持つことが多く、他者に対して、自ら一貫した私を強く保とうとする。「しゃべった!」などと注目され悪目立ちすることを避けたいし、話せるようになってからも、特定の相手に対して前回と同じ態度やテンションでなければならないと感じてしまうことも多い。「前とちがって大人しいね/よく喋るね」など何らかの反応(とくに症状由来の否定的な反応)をされるのを恐れているのだと思う。

分人主義とは

作家の平野啓一郎さんが提唱する分人主義という考え方がある。

分人主義とは、「個人」よりももうひとまわり小さな「分人」という単位で自分を見ること。

人は一緒にいる相手次第、場所次第で多種多様な自分を生きている。このように、状況によって変化する自分が「分人」だ。分人は、例えばTwitterで複数のアカウントを持つように、個人をより細かく分解したイメージのようだ。

一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。
「コミュニケーションを通じて、自分が嫌になったときに、それはあくまで幾つかある分人の一つなのだと相対化して見る視点は、大切でしょう」

「アイデンティティを複数化し、その集合体を自分とみなす」「本当の私幻想」を解体する。分人主義とは、ひとつのアイデンティティに依存しないこと。それは自身の社会的立場へのリスクヘッジにもなり、現代人の生きやすさにつながるという考え方だ。

場面緘黙に分人主義を応用する

場面緘黙は、症状として、話すこと(対人)において分人が発生するともいえる。不安症状なのでアンコントローラブル(自ら選択できない)ではあるが、誰とどういう状況で自分が話せなくなるか/話せるかといった傾向の認識や自覚を持つことはできる。

そこで、自分のどの分人が好きかといった考え方には、私は救われる気がする。たとえ相手と話せなくても、話せても、「今のは本当の自分ではなかった」と落ち込むよりも、「自分が好きになれる自分の分人」にフォーカスしよう、あるいはそんな分人を増やしていこうと考えられることは、気持ちを楽にしてくれる。

話せないことは、人間らしくふるまうこと・扱われる尊厳を失っていくことに等しい。多くの場面緘黙の人は自己否定感や自尊心の欠如を抱え続ける。それゆえ、自分の人格全体を否定しがちだ。だが、場面緘黙は自分の全てではないし、分人主義的に「私という個人全体の特徴ではなくあくまで一部分である」と捉えることは、話せないことへの自責や罪悪感を軽減してくれる。実際、大半の場面緘黙の人には、「話せる私」も存在するし、話せなくても自分の好きな分人=自分が安心していられる状態を持つことは可能だ。

拙著『かんもくの声』にも記したが、SNSで別人格を複数つくり出すことで精神の安定を保つ人は多いし、それは場面緘黙の私だけを責めないことにもつながる。とくに社会的場面で話せない・人とつながれない場面緘黙の人にとっては、どうしてもLINEやメール、ウェブやSNSが命綱になってしまうことは多い。だが、そのようなツールを駆使しながら、多様な自分を生きることは、分人主義の視点で言えば、むしろ生きやすさにつながる。

相互作用のなかで

コミュニケーションは他者との共同作業である。会話の内容や口調、気分など、すべては相互作用の中で決定されてゆく。

上記の引用は、環境や他者との相互作用の影響で話せなくなってしまう場面緘黙の本質にも重なる。

症状ゆえ、場所や相手によって、自分の態度や話せる程度にちがいが出てしまう。その結果、コミュニケーションの不自由や困難、日常的な生き辛さがつきまとい、苦しい。分人主義は、相手によって態度や話せる度合いが変わってしまうこと自体は悪いことではないと思わせてくれる。

また、誰しも「本当の自分」があるわけではなく、それは相互作用のなかで形づくられる自分なのだとしたら、場面緘黙の私は、環境による他者との相互作用の出方が極端なだけのようにも感じられる。

話せるようになっても「一貫した私」「本当の自分」などいない。そう思うと、他者との相互作用における影響の受け方を、極端に濃いところから少しずつ薄めていくという場面緘黙改善の新たなイメージも湧いた。分人主義を心に留めておくことは、場面緘黙の人たちの気持ちも楽にしてくれると思う。

【引用・参照】

私とは何かーー「個人」から「分人」へ 平野啓一郎 (講談社現代新書)

分人主義についての平野啓一郎さんのインタビュー記事

分人主義について平野さんが語るハフポストの動画では、熊谷晋一郎さんの依存先の分散に通ずるものも感じた。


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