見出し画像

風を待つ<第16話>兄からの書簡

 鎌子が帰ってからしばらくの間、文姫は茫然と書簡を眺めていた。

 文姫の膝には、首の座ったばかりの氷上娘ひかみのいらつめがいる。時折、膝をゆすってやると、ふわりと笑う。その笑顔につられて、文姫も微笑んだ。

 新羅に置いてきた我が子は、こんなふうに手元で育てられなかった。
 ――いまさら、この子を置いて帰りとうはない……

 庾信ユシンの書簡には、きっと「帰国せよ」と書いてあるはずだ。あれほど新羅へ帰る日を待ち望んでいたのに、あれほど王后と呼ばれる日を夢見ていたのに……

 文姫は書簡を読まずに、桐の箱へとしまいこんだ。
「読まれぬのですか、文姫さま」
 侍女たちが困惑したような目で文姫を見る。

 侍女たちは、新羅へ帰りたいはずであった。文姫の心変わりを、なんと思っているのだろうか。倭王の子を産むと豪語しておきながら、大臣の妻に成り下がった文姫を、蔑んでいるのだろうか。

「おまえたち、帰りたければ、帰してやるぞ」文姫は声を沈めて言った。「新羅からの使者が来ておるようじゃ、鎌子殿にたのめば、帰国を差配してくれるであろう」

 侍女たちはあわてて首を振った。
「何を仰せです、文姫さまは帰らぬおつもりですか」

 文姫は答えられなかった。帰らぬ、と言うべきでないことはわかっている。だが、今は帰りたくない。そのままの思いを言葉にすれば、ただの自儘であろう。

「文姫さまを置いて帰れませぬ。ともに帰りましょう。殿君が王位に就かれたのですよ。なにゆえ帰らぬのです」
「私は、死んだことにでもしてくれればよい」
「そんな――」

 侍女たちは、文姫のあまりの態度に衝撃を受けていた。文姫にはもう、王后となるおのれの姿を想像できなくなっていた。新羅がどうでもよくなったわけではないが、金春秋と庾信がいてくれれば、それでよい。文姫は、いま目の前にいる氷上娘を慈しみ、鎌子や奈津とともに穏やかに暮らしたい。政治に振り回されることもなく、歌を詠み、子を育てていきたかった。

 ――私はようやく、幸せをこの手にした。
 文姫はかたく目を閉ざした。

「いま、帰らぬと言うことが、どういう意味か。私は覚悟しておる。もう二度と、新羅へは戻れぬかもしれぬ。それでも、それでも私は……」

 頬に涙が伝った。氷上娘を産んでから、涙もろくなっている。

「氷上娘が大きくなるまで、そばにいたい。せめて、鎌子どのの男児を産みたい」

 自儘にしか過ぎぬ文姫のつぶやきを聞き、侍女たちはうつむいた。

 侍女のひとりが、ふと何かを思いついたように顔を上げた。
「なにも死んだことにしなくてもよいではありませぬか。文姫さまはご懐妊であるとしておけば、渡航は延期できましょう。いずれにしても、庾信さまには息災であるとお伝えなさったほうが、安心されると思います。……」

 侍女の提言はもっともだった。
 いますぐ新羅へ帰ると結論を出さなくとも、しばらく文姫は倭国にいて、兄と書簡を交わすことはできるはずだ。そうすれば、新羅との交誼を絶やすことなく、鎌子のそばで氷上娘とともに暮らせる。庾信も、文姫がしばらく帰らぬとわかれば、妹の宝姫を王后にするだろう。

「それも、そうじゃ」
 どうして文姫は庾信の書簡に怯えていたのだろう。庾信は、いつでも文姫の身を案じてくれていたはずだ。文姫は自分の意思を告げればよい。ただそれだけのことだった。文姫は意を決して、兄の書簡を広げた。

 文明王后金氏
 息災にしているだろうか。長らく書簡も送らず、申し訳なく思っている。
 おまえが新羅へと旅立った後、善徳女王が崩御された。倭国にも訃報は伝わっただろう。
 毗曇ピダムの反乱、善徳女王の崩御と続き、さすがの私も絶望した。倭国との交渉途中で殿君だけを呼び戻すこととなり、おまえを置き去りにしてしまった。心から謝罪したい。
 殿君も身を切る思いの十年であったろう。唐には文王(金春秋と前妻の子)を人質に残し、倭国にはおまえを人質に残してきたのだから。殿君は、悲しむ余地もなく、すべて新羅のために身を捧げて働いてこられた。おまえの夫は、実に偉大な人だ。

 だが、唐との同盟を結んだ矢先、真徳女王が崩御された。真徳女王は、かなりの心労を耐えてこられた。残念ながら善徳女王にも真徳女王にも後継者たる子が無く、これで真興王聖骨の血統は絶えることとなった。

 推戴され、殿君が新羅王位を継承された。おまえの子、法敏が王太子となったことを、ここに報告しておく。
 長らく待たせて申し訳なかった。
 今すぐにでも私が迎えに行きたいところだが、私は総官として敵の進撃を迎え討たねばならぬ。日を改めて迎えを遣わす。
 いましばらく待っていてほしい。
 金庾信
 


「兄上……」
 懐かしさに涙が溢れる。書簡からは、文姫の好きな香のかおりがした。文姫は兄からの書簡を読み終わると、すぐに筆を取った。

 
 上大等金庾信殿
 本日までのご活躍、風のたよりにて耳にしております。
 私は幸福な日々を過ごしておりますことを最初にお伝えしておきます。どうかご案じなさいませぬよう。人質という響きからは想像もできぬような厚遇であり、とても穏やかな生活でございます。
 兄上が私との約定を忘れることなく、帰国について差配していただけること、ありがたく感謝いたします。
 兄上と政治を語り合った日々が、まだ昨日のことのよう。ですが私は、いましばらく、倭国の地にとどまりたく考えております。私には、生まれたばかりの子がおります。しばらくは新羅へ帰らず、この美しき倭国にて子供を育てたい。どうか自儘をお許しください。
 殿君の即位を謹んでお慶び申しあげますとともに、王后としての即位を辞退いたしたく存じます。
 法敏の様子など、時折聞かせていただければ、これに勝る幸せはありませぬ。
 ご武運をお祈りしております。
 文姫

 書き終わって、顔を上げると、すっかり日が暮れていた。
 兄はこの書簡を読み、きっと驚くであろう。兄を刺激せぬように、子をいつ産んだのか、誰の子であるのかは書かなかった。大臣の子と知られれば、兄は激昂するかもしれない。書簡では文姫の想いを正しく伝えることができぬだろうから。

       *

 数日たって、鎌子が鏡宮を訪ねてきた。

「読んだのか」
「はい」文姫は頷いて、「これを、使者に預けていただけますか」と返書を鎌子に託した。

「……兄上は、なんと?」
 鎌子は聞きにくそうに言った。
「私を迎えに行く――とのことですが、お断りの返答をしたためました」
「なんだと」

 鎌子は驚愕して、目で理由を問うている。
「あれほど帰りたがっていたではないか。いまを逃せば、次はいつ帰国できるかわからぬ」
「いえ――新羅もまだ、戦闘が落ち着かぬようです。書簡には戦の詳細は書かれておりませんでしたが、兄はまだ戦の最中かと思われます」

「高句麗と韃靼が百済と連合し、新羅の国境を攻めていると聞く。新王の試練のときであろう……が」
 鎌子は文姫の肩にそっと触れた。
「だからこそ、新王と王后の基盤をつくるときだ。いま、帰らねば、別の女が王后に就くかもしれぬぞ」
「はい、おそらく妹の宝姫が王后となるでしょう。妹ならば、私も安心です」
 鎌子は、まだ納得できぬといった目で、文姫を見ている。

「置いてきた子が、気にならぬのか」
「気にならぬといえば、嘘になります。でも、法敏は私のことなど覚えてはおらぬでしょう。兄がしっかりと養育し、太子に立てられたようですから、心配は要りませぬ」
「うむ……」

「それに、私はいま、氷上娘のそばにいたいのです」文姫は鎌子を睨み上げるように見た。「これほど愛らしいむすめを、私に産ませたのはあなたですよ」

 鎌子は気まずそうに鼻を掻いた。
 庭では氷上娘が、きゃっきゃっと声を上げて葵の花を摘んでいる。
 文姫は氷上娘のそばに寄り、そっと抱き上げる。

 ――この子を置いて、新羅へは帰らぬ。
 文姫の心は、もう二度と新羅へは帰らぬと決意していた。ただ、あまりに明瞭に言い切ると、鎌子や侍女たちが心配するだろうと思い、「いまは帰るときではない」と曖昧にしたのだった。

 氷上娘の柔らかな頬、小さな手にいっぱい摘んだ花、優しく撫ぜる風。
 ――この日常が続けば、それだけでいい。

 この年は新羅だけでなく、倭国でも大きな出来事が起こった。
 天皇、崩御――
 十月に入ってから、病床につくことが多くなった天皇は、気温の寒さもあってか、急に危篤状態に陥った。鎌子も、中大兄皇子や皇祖母尊とともに、難波宮へと見舞いに赴いていた。
 六五四年(白雉五年)十月十日、天皇は在位わずか九年で崩御した。諱は孝徳とされた。
 享年五九であった。

 ――ついに、中大兄皇子が、天皇となるのか。
 文姫は考えたが、ところが中大兄皇子はまだ天皇位には就かないらしい。

 天皇となったのは、なんと皇祖母尊である。
 一度、退位した天皇がふたたび位につくことを「重祚ちょうそ」という。皇祖母尊は重祚し、諡号は斉明天皇と称されることになる。

 ――まだ、時宜ではないということ……?
 遠い日、中大兄皇子と大島山で語り合ったことを思い出す。

『大きく飛翔できる、風を待っている』

 高く高く飛翔したい皇子は、小さな風に乗るわけにはいかない。だれから見ても天皇になる時宜だと思うが、まだ皇子は、飛ばない。

 ――あまり待ちすぎると、飛べなくなりますよ……
 文姫は空を飛翔する鳥を見上げ、そっと独り言をつぶやいた。


 第17話へ続く


よろしければサポートお願いいたします。サポートは創作活動費として使わせていただきます。