見出し画像

風を待つ<第17話>襲撃

 六五九年(皇極五年)、文姫は男児を産んだ。
 不比等ふひとと名付けられた男児は、鎌子に似た凛々しい眉と、文姫に似た形の良い顔立ちをしている。

 不比等はすこやかに成長していった。不比等を育てながら、氷上娘を産んだとき以上に、至福の時を過ごしていた。

 あれから、兄からの書簡はぱたりと途絶えた。新羅の戦況を鎌子に訊くと、あまり良い顔をしなかった。鎌子はたまに鏡宮を訪れても、食事をするだけで帰ってゆく。

 ある月から、鎌子がまったく姿を見せなくなった。
 遠征に行くのであれば、文姫にも告げてゆくはずである。もしや、文姫に飽きてしまったのかと、胸にひやりとしたものを覚えた。

 文姫はすでに三十歳となっていた。若いときと比べれば、肌は乾燥し、白髪も生えてきている。鎌子が若い女人のもとへ通ったとしても、何もおかしくはない。
 事実、豪族の娘をひとり、妻に迎えたらしい。文姫は会ったことがないが、その妻が女児を産んだと聞いている。

 だが、そのことは文姫を悩ませなかった。むしろ、鎌子はもっと子をつくるべきだと思っていた。奈津にはもう子ができないようだ。妻のひとりやふたり迎えたところで、嫉妬する文姫ではない。

 文姫が憂鬱に過ごしていると、侍女が気を遣って、
「大友皇子と、鎌子様の娘さまとの縁談があるそうですよ」と耳打ちした。「だから、お忙しくて、鏡宮にお立ち寄りになれないのでしょう」

「なに、縁談を?」
 豪族の娘が産んだ女児は、氷上娘よりも年下である。氷上娘よりも先に縁談など、いかなる事情があるのだろうか。

「鎌子様の娘ともなれば、誰もが縁を結びたいでしょう。大臣の娘なのですから――。氷上娘さまの縁談は、きっと天皇の妃にとお考えなのでは?」
「中大兄皇子の……ということか」
「これで文姫さまの悲願が叶いまする」侍女は皺だらけの頬に、涙をこぼしていた。

 文姫の産んだ子が天皇の妃となれば、娘が倭王の子を産むことになる。
 文姫が新羅から来た目的を、我が娘が叶えてくれることになる。そう侍女は言っているのだった。

 事態が一変したのは、六六〇年の夏に入ったときだった。

 ――百済滅亡

 倭国を震撼とさせる一報がもたらされた。百済滅亡、と聞いた瞬間、文姫は平静でいられなかった。

 ――王と兄上が、ついに百済を倒した!

 これほど喜ばしい知らせがあろうか。ただ、王と庾信は無事でいるのだろうか。あの大国・百済を滅ぼすのに、どれだけの犠牲が出たのだろう。特に統官として戦場に出ていた兄は、生還したのだろうか――

 どんな小さな知らせでもよい。兄からの便りが欲しかった。誰か使者が訪れぬかと、文姫は鏡宮の中をうろうろと歩き回っていた。

 突然、ばたばたと宮の外で騒がしい音がした。
 ――まさか、知らせか?

 との期待は一瞬でかげった。
 騎乗した兵たちが宮を取り囲むようにして配置している。何が起きたのかわからず、文姫は動揺する侍女たちを鎮めた。

 兵をかき分けるようにして、白い肌の女人たちが文姫の前にあらわれた。
「騒々しい。何をしに来たのじゃ」
 文姫の冷声に、女人たちは叩頭する。

「女帝の命令で参りました。新羅の妃さまには、どうぞ飛鳥板葺宮へお越しください。女帝がお待ちです」

 女帝――皇祖母尊が、文姫を招致しようとしている。それも、おだやかでない手段で鏡宮を囲み、強硬に連れてゆこうとしている。

「女帝が私に、いかなるご用事であろうか」

 平穏な日々が長く続き、皇祖母尊に陥れられたことも亡失していた。逃げるようにして大海人皇子の湯沐邑から脱出し、中大兄皇子のもとへ身を寄せたことを思い出す。いまさら皇祖母尊が、文姫に何の用があるというのか。

「道中にご説明いたします。どうか――」
 女人は顔を上げて、文姫を見据える。ねっとりとした細い目が気味悪かった。

「去ね。私は女帝に用は無い」
 文姫は言い放った。
 女人は、ちっと舌打ちする。

「蘇我の兵が、あなたさまを捕らえに来ますぞ」
「なんだと?」
「あなたさまを新羅の間諜だと疑っておるのです。蘇我の一族は、鎌子殿に恨みを持っておりますから……あなたさまを捕らえ、拷問し、鎌子殿を追い詰めるでしょう。そこで女帝は、あなたさまの身をお隠しになろうと仰せになったのです」

 これは女帝の温情にございますよ、と女人は笑った。

「そんな重大な話なら、鎌子から私に伝言つてごとがあるはずじゃ。鎌子はなんと申しておる」
「鎌子様にもご理解いただいておりまする」
「虚言じゃな」

 これは何かの罠だ。女帝の温情言いながら、文姫を拘束し、何らかの陰謀に利用する気だ。まことに文姫の安全のためというならば、鎌子の指示がなければおかしい。
「文姫さま――!」
 侍女の悲鳴が聞こえた。同時に、み裂くような不比等の泣く声が聞こえる。

「不比等!」
 文姫は怒りに声を荒げた。全身の力を込めて、女人を突き飛ばした。不比等の姿を探す。不比等は、兵に取り押さえられていた。

「無礼者!」
 さらに兵が室内に入ってきた。兵たちが剣を煌めかせて襲いかかる。抵抗する侍女が、次々と斬られ、血飛沫で壁が染まった。女を容赦なく斬る兵たちの目は、どこか愉しげであった。

「子は殺すな、あとが面倒だ」
 まだひとりで歩くのがやっとの不比等を、兵たちは足で踏みつけている。激しい泣き声を上げて、不比等は文姫に救いを求めた。 

「さあ、もう抵抗はおやめなさい」
 女人はにやりと笑って、文姫の腕をつかんだ。

「そなたたちの好きにはさせぬ」
 刀子を懐からすべらせると、女人の顔面に斬りつけた。
「ぎゃあっ」
 鴨のような声を上げて、女人が倒れた。眼球を斬りつけられ、苦痛に悶えている。
「こいつ」
 兵たちが文姫に剣を向けた。ぎゅっと目を閉じる。とっさに眼裏へ浮かんだのは鎌子のおだやかな表情だった。鎌子どの、と心で叫んだ。

 ――どうか子だけはお守りくだされ!

 宮の外で男たちの咆哮が聞こえた。その声は、女帝の兵ではなかった。兵たちが気を取られた隙に、文姫は不比等を踏みつけにした兵に、刀子を突きつけた。
「ぐっ」
 無我夢中で不比等をすくい上げる。
「もういい、やっちまえ」
 別の兵に髪を掴まれ、後ろに引きられた。不比等が文姫の腕から転げ落ち、泣き叫ぶ。兵が文姫の身体に覆い被さった。

「死ね」
 殺気に満ちた声。鈍く光る剣先。絶望した文姫の表情を、嘲笑う兵の目。その目が、ふっと白目をむいた。

 ずるり、と首が落ちる。兵は何者かの剣で首を斬られていた。吹き出た血が室内に散り、文姫の裳を染めた。

「鎌子どの」

 兵を斬り捨てたのは鎌子であった。鎌子の姿を見た瞬間、文姫は全身の力が抜けた。鎌子が文姫の手を引く。自力で起き上がれない。鎌子は文姫を抱き寄せると、「時がない、逃げる支度を」といった。

「逃げるって――」
「新羅への船を用意している」

 文姫はうまく思考できない。鎌子がなにを言っているのか、わからない。

「不比等は。氷上娘は」
「無事だ。奈津に預ける」

 鎌子の兵たちは、あっという間に女帝の兵を斬り殺した。後に残ったのは血に塗れた惨状である。文姫に仕えていた侍女たちが、三人とも命を失った。悲しむ暇もなく、文姫は鎌子に担ぎ上げられるようにして鏡宮を出た。

 人だかりができている。村の男たちが、何事かと物見に来ていた。その中に、小さな奈津の姿があった。奈津は文姫の姿を見て、安堵したように崩れ落ちた。
 異変に気づいた奈津が、鎌子に知らせたのだろうか。奈津は不比等と氷上娘を大事そうに抱きかかえていた。子どもたちのそばへ寄ろうとしたが、文姫は輿に押し込められた。

「お待ちください……待って!」
 文姫は輿の御簾を下ろそうとした鎌子の手を止める。

「何が起こっているのです。なにゆえ新羅へ帰れと? 皇祖母尊がなぜ私を」

「おまえを捕らえようとしているのは、百済王子の豊璋だ」
 鎌子は早口で答えた。

 倭国に滞在していた百済の王子・豊璋が、百済へ援軍を送るように、女帝へ要求しているらしい。豊璋は、文姫が倭国へ滞在していることを知っていた。文姫を人質にして、百済へ出兵したいと女帝へ申し出たのだった。

「百済は滅んだのだ――新羅と唐によって滅ぼされた! おまえはいますぐ倭国から出なさい」
「嫌……嫌です!」
 文姫が目を剥いて叫ぶと、鎌子は不意をかれたように驚く。

「私の話を聞いておったのか? 百済の豊璋が、おまえを捕らえようとしておる! 中大兄皇子も、百済への援軍に同意しておる。もはや私もおまえをかばえぬ……だから、新羅へ帰るのだ」

 いや、と言いかけた文姫の口を、鎌子は手でふさいだ。
「わかってくれ。私の手で、おまえを豊璋に差し出したくはない」
 文姫の目から涙があふれ、止めることができなかった。いや、いや、と何度も首をふった。私は帰りませぬ、私の故郷は倭国です、私の夫はあなたさまです、と言いたかった。不比等と氷上娘を抱きたかった。心の叫びは、声に出すことを許されず、文姫は鎌子の胸に顔を埋めて泣いた。

「……この侍女が、おまえということにしておく」
 鎌子は、斬り捨てられ、息絶えた侍女に目を移した。文姫が自害したことにすれば、追及されずにすむ。

 侍女たちはどれほど故郷に帰りたかったであろう。遺体を弔ってやることもできず、文姫は鎌子に促されて、鏡宮を後にした。

 ――こんな別れは、いや……

 積み荷にまぎれこむようにして、文姫の身体は船に押し込められた。抵抗する気力もなく、文姫は倭国から引き離され、涙は碧海に消えた。

 こんなものは別離ではない。身を裂かれたのだ。文姫の身体は、新羅と倭国の間で引き裂かれた。だが、身体は二つに分けることはできない。心も。
 裂けてしまった文姫は、たゆたうようにして小さくなる島々を見つめていた。嵐が来て、文姫を押し返してくれればよいのに。憎いほど波はおだやかだった。

 第18話へ続く


よろしければサポートお願いいたします。サポートは創作活動費として使わせていただきます。