見出し画像

雑記 #2 自由律俳句ってなんだろう

私は十数文字程度の詩のようなものを日々投稿しており、これを「自由律俳句」と言い張っている。ところが、最近は「本当にこれは自由律俳句といえるのだろうか」という疑問が生じてきた。そこで、今後の活動の指針とするために、自由律の俳人の句を取り上げつつ私にとっての自由律俳句の定義づけをやってみようと思う。

代表的な自由律俳句たち

まずは、代表的な句をいくつか挙げてみる。

分け入つても分け入つても青い山 (種田山頭火)
咳をしても一人 (尾崎放哉)
こういう思想をもって黄ばんだ街路樹を仰いでいる (栗林一石路)
座った分だけ高くなる空 (せきしろ)

どうだろう。一言でいうと「味わい深い」といった感じだ。ただ、それで終わらせてしまうと身も蓋もないため、もう少し深掘りしてみる。
この4句において、パッと思いついたことは次の5つだ。

・リズムが良い
・共感できる
・有季定型俳句より散文的である
・通常とは違った視点でもって描かれている
・風情がある

一つずつ見ていこう。

リズムが良い

定形俳句は5・7・5のリズムだが、自由律俳句には決まりがない。しかし、俳句特有の「良いリズム」は保有しているように思える。
たとえば「分け入つても分け入つても青い山」は分けるなら6・6・5となりそうだ。「咳をしても一人」は3・3・3だろうか。あるいは、6・3か。
何をもって「リズムが良い」とするかは難しく、定性的な意見で恐縮だが、私はこれらの句のリズムは良いと感じている。

共感できる

自由律俳句には読み手の共感を誘うものがありそうだ。
たとえば「咳をしても一人」なんかは顕著だ。一人暮らしの中で風邪をこじらせたことがある人か、あるいは風邪をこじらせたが家族は会社や学校に行ってしまって一人ぼっちになったことがある人ならわかるのではないだろうか。
自分一人しかいない家に、咳の音がこだまする。誰かが応えてくれるわけでもなく、ただ響くだけ。そうすると、だんだん心細くなってくる。「ああ、自分はこのまま死ぬのではないだろうか」という思いがふつふつとわいてくる。「ああ、咳をしても一人なんだな...」といった感じである。
このように、共感性の高いものは自由律俳句に多そうである。

有季定型俳句より散文的である

これは、有季定型俳句にはない特徴だ。説明的になっても俳句として成り立つほど他の要素が優れているというべきか。
たとえば「こういう思想をもって黄ばんだ街路樹を仰いでいる」がそれにあたる。「こういう思想をもって」ってなんだ。私は有季定型俳句にまったく詳しくないが、おそらくこんな表現をしたらアウト。ぺけをもらうことになるだろう。
ただ、全体を俯瞰するとしっくりくる。散文的ではあるが、なんというか、妙にぴったり感があるのだ。

通常とは違った視点でもって描かれている

これは「その発想はなかった」というやつである。
たとえば「座った分だけ高くなる空」がそれだ。座るとその分だけ空が遠く、高くなる。まあ、言われてみればあたりまえである。しかし、こんなこと普通は思い浮かばない。
どうやって生きていたらそんなことを思いつくのか。そう思える句が自由律俳句に多いようだ。

風情がある

これは有季定型俳句と同じだ。読んだあとに、なんともいえない余韻が残る。普通の文章を読むと、脳に入っていつかしみ出してしまうだけだが、自由律俳句は違う。脳に入ってきたあと、いろいろな考えが頭をめぐったり、充実感が生まれたり、虚無感を覚えたりするのだ。これが自由律俳句を自由律俳句たらしめる最も大きな要素なのではないだろうか。Twitterで「いいね」が多くついているツイートは共感できたり通常とは違った視点でもって描かれていることがあるが、だいたいの場合風情はない。だから、それは自由律俳句とは言いがたいのだ。

結局、自由律俳句とは?

結局、自由律俳句とは何なのだろう。先ほど挙げた5項目をすべて満たしている必要があるかといわれると、そうでもない気がする。かといって、どれか一つだけでよいかといわれると、物足りない気もする。だったら、自分が自由律俳句だと思ったら自由律俳句だろうか。そう着地させるのは無理がある気がするが、それでいい気がしている。なんとなく、リズムがある。なんとなく、共感できる。なんとなく、散文的である。なんとなく、通常とは違った視点で描かれている。なんとなく、風情がある。そんなものを、先人たちは詠んできたのではないだろうか。それを踏襲してよりよい自由律俳句を詠めればよし、そこに自分らしさを加えて新たな自由律俳句を切り開ければなおよしだ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?