クレームに過剰反応する広告業界

 広告主は消費者に、物を売る前に媚びを売らなければならない。買い手の機嫌を損ねれば自分が損するからだ。だが「表現の自由」ばかりを規制して「解釈の自由(にも責任は伴う)」という発想を度外視していたら、それこそ大衆の甘え・勘違いが助長されるばかりだ。
(以下、引用は上記記事より抜粋)

>イギリスではステレオタイプ=つまり固定観念に基づく男女の役割を表現した広告が禁止されました。「人の可能性を過小評価させる」というのが理由です。

 広告者・表現者の意図に関わらず、また何の可能性であれ、それを過小評価するしないは「広告を視聴した側」つまり評価者・解釈者である(論拠詳細は感情自己責任論を参照)。表現によって過小評価するなら、それもまた評価者の選択の自由。表現者に解釈者の解釈の自由を左右する力がある、というのは傲慢である。

>女の赤ちゃんがバレリーナを夢見るのに対して男の赤ちゃんは数学者を夢見る・・・これは、ベビー用品のCM

 見た目で「これは女児」と決めつけている時点で既にステレオタイプを犯している。

>スーパーマーケットのCMでは…クリスマスの準備を全て請け負うお母さんと、ほとんど何もしないお父さん…。

 これも外見だけで性別判断している。実はお母さんの格好をした男性またはお父さん風の女性またはその両方なのかも知れないのに。
 仮にこのCMを見て「男性の格好をしている者は怠慢な者が多い」なる偏見・拡大解釈を持った者がいたとして、その偏見・誤認の原因はCM・表現者にはない。もっと言えば、仮にCMで偏見を持つよう奨励・指示・命令をしたとしても、それをどう解釈し咀嚼・消化し対応するかも解釈者自身の問題である(論拠詳細は感情自己責任論)。

>人の可能性を過少評価させるようなステレオタイプは有害

 どのように害の有無を判定したのか詳細が不明だが、いずれにせよ評価・解釈(誤解を含む)の原因は表現者ではなく評価者・解釈者にある(論拠詳細は感情自己責任論)。

>ASAは、さまざまなCMを子供を含むさまざまな人々に見せて反応を調べるなどし、今回のルールを導入

 ASAの過剰反応。大衆迎合の宿命は分かるが、ノイジーマイノリティのクレームにビビる前に彼らの文句を跳ね付けるだけの理論武装をすべきだろう。「誤認・誤解する者がいるから」と自主規制するのであれば、ある意味、広告消費者を馬鹿にしているとも言えるし、広告生産者が自身の影響力を過大評価しているとも言える。そうした自分たちの傲慢さを隠すために、「誰も傷付けない優しい広告」と称して自己欺瞞しているのではないのだろうか。

>女性が掃除をする、あるいは男性が車の運転をするといったシーンをダメだと言っているわけではありません。特定の役割が一方の性だけのものだと
強調されるようなことを避けようとしているのです

 何を以て「強調」なのかが不明瞭。一家族の”よくある風景”を示しただけで「強調」になるのであれば、「男性が運転している。これは差別だ」と宣うことは「強調」ではないのか。
 典型的な家族像の表現が「強調」だとしても、それは表現の自由の範疇。他者の人権を侵害しない範囲であれば、表現・言論・出版・報道・広告の自由は認められるべきだろう。当然、「不快」程度では人権侵害にならないし、そもそも不快感の原因は表現者にはない(論拠詳細は感情自己責任論)。
 「CMが不愉快」はそのクレーマー自身の問題なので、「貴重なご意見を有難うございます」と受け流すのが正しいクレーム処理法。先回りして「不愉快を無くそう」とするのは過剰反応・過干渉である。


(以下は感情自己責任論より抜粋)
差別・偏見・ヘイト・蔑視の目的は劣等感・情緒不安の払拭。そうでないものまで差別と見做すのは過剰反応。
自称反差別主義者や自称愛国者が差別や自虐史観を声高に非難する目的は、自身の心底に潜在する劣等感・情緒不安の払拭。己の差別心や自虐的国家観を自覚なく敵対者に自己投影して同属嫌悪する偽善者ほど、自身の平等主義や自慰史観に心酔し正義面する。

如何なる役職も、性別・年齢・出自・人種や障害の有無に関わらず、本人の希望・能力・熱意・人柄等に応じて採用するのが公平。
一律の年齢制限やアファーマティブ・アクションやクォータ制は逆差別・偽善・欺瞞。追求すべきは結果の平等ではなく機会の平等。
例えば「外で仕事する女性を増やしたがる人」の心底には「外で仕事する方が偉い・尊い」という差別心がある。職業に貴賎なし。
或いは「男女の収入格差を気にする人」は潜在的に「より多く稼ぐ人の方が偉い・尊い」という差別心を持っている。浅ましい拝金主義の裏返し。
また「女性政治家を増やしたがる人」にあるのは「男性政治家は女性を幸福にする政策実現力が乏しい。政治家は偉い・尊い」等の男性差別や職業差別。
男女の数や人種比、障害者の割合、出身地・出身校が気になるのは区別している証拠。同じ人間なのだからそもそも”区別しなくて良い”。

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