泣きぼくろあるのに(#ほろ酔い文学)
年に数回、娘家族が遊びに来るとき、サキさんは、ちょくちょくレンコンの天ぷらを作ります。
レンコンはこの町の特産品で、レンコンの天ぷらは娘の大好物です。
娘の小さかった頃にそっくりな孫のかな子も、そろそろ、この味がわかるかな?
そんなことを思いながら、サキさんは楽しい気持ちで天ぷらを揚げます。
女手一つで育てた娘が都会で暮らすようになってからも、さささっと一人分の食事を用意するサキさんですが、揚げ物だけは、こういう機会でもないと作りません。
スーパーの鮮魚店で買ってきた刺身の盛り合わせを大皿に移し替え、サキさんお得意の豚汁をお椀によそうときの言い知れぬ幸せ。
「お待たせしました~」と、できあがった料理をテーブルに運ぶサキさんの声は、思わず大きく弾みます。
***
「わぁ、ご馳走だ!」
まるで揃えたかのような三人の言葉が、サキさんの耳に優しく響いて、それだけでもう、サキさんはほろ酔い気分。
「たかしさん、長距離の運転お疲れ様でした。美由紀もかな子も元気そうで何よりね」と、サキさん、あらためて挨拶をしてから、ビールグラス片手に「乾杯」の音頭。
「かんぱーい」「かんぱーい」
大人たちに遅れて、一人前に乾杯の仲間入りをしたかな子の柔らかそうな頬に、サキさんは自分の顔をくっつけてみたくなりますが、娘の手前、ぐっと我慢。
「私ね、お母さんから頬ずりされたって記憶がないのよね」
いつだったか、美由紀にそう言われたことがあります。
何かの話の流れで、娘はただなんとなく口にしただけなのですが、サキさんの胸には、ずしりと深く響きました。
――きびしく育てすぎたもの……。
父親がいないぶん、自分が強くいなければならないと気を張って、幼かった美由紀と上手くスキンシップをとれなかったように思います。
それを娘の一言で思い知ったことが、小さなわだかまりとなったからでしょうか。
ごくごく当たり前に、かな子に頬ずりする美由紀の姿に安心する一方、自分が孫に頬ずりすることに微かな躊躇いが生じるのでした。
娘の里帰りというのは、過ぎ去った日と今が不意に重なって、嬉しい反面、妙にしんみりするもので、サキさんがいつも以上に一人っきりを感じていると――。
***
「おばあちゃんには泣きぼくろがあるね」
夕飯あとの食卓。サキさんの膝の上に座りこんできたかな子が、突然、思いついたようにそんなことを言い出しました。
泣きぼくろだなんて長らく使っていない単語に戸惑うサキさんに、たかしさんが、すかさず助け舟。
「最近、保育園で覚えてきたんですよ。ぼくのここあるのは衣装ぼくろと言って、一生、服に困らないそうです」
と、自分の首の後ろに指をあてながら、可笑しそうに説明してくれました。
「泣きぼくろがあるから、おばあちゃんは、泣き虫?」
――えっ?
子どもというのは、なんとまぁ、次から次と思わぬことを聞いてくるのでしょう。
サキさんは、またも、返答に困ってしまいました。
――すっかり忘れていたから。
目の近くのほくろを泣きぼくろと言うことを。
そしてそのとたん、サキさんの目から自然と涙が溢れ出て、サキさん自身が一番驚きました。最後に泣いたのはいつだったのか、思い出せないくらい遠い昔です。
まさか、こうして身内の前で泣くことがあるなんて、思ってもいませんでした。
――自分には泣きぼくろがある……。
なのに自分は、泣かなかった。
そう思ったら、どういうわけか涙が出てきて止まらなくなってしまったのです。
テレビ台の横にあったティッシュの箱を、たかしさんが、そっと、サキさんの前に置いてくれました。
そのティッシュの箱からティッシュを一枚引き抜いて、サキさんに手渡そうとしているかな子の小さな手。
温かな小さな手と握手するみたいにして、ティッシュを受け取ったサキさんに、「お母さん、泣けなかったもんね」と、美由紀がポツリ一言。
涙を拭くのに精一杯のサキさんでしたが、今、娘は微笑んでいる……ということは、娘の顔を見なくてもはっきりと伝わってきて思わず泣き笑い。
それでホッとしたのでしょう。かな子がおませな口調でこう言いました。「おばあちゃん、泣きぼくろがあるんだから、もっと泣いていいんだよ」
すっかり涙もろくなったサキさんの目頭は、またも熱くなりましたが、今度は涙は溢れ出ず、ピンボケみたいな視界がサキさんを包んでいきました。
(了)
あとがき
偶然は必然とも言われますが、今から8年前のとある朝、私は、毎朝見ている番組ではない朝の情報番組を見ていました。
たまたまだったのか、見たくないニュースを避けてチャンネルを変えたためなのか、どちらかの理由だったと思います。
ちょうど、全国の新聞に掲載された投稿を紹介するコーナーで、その日は、新潟の新聞に投稿された佐藤さん(85歳女性)の下記文章でした。
メモ魔の私は、出勤前の慌ただしい時間にもかかわらず、すぐに取り出せた用紙に走り書きして、帰宅後、正式なメモに書き写しました。
女手一つで子どもを育てあげた祖母と、母から聞いた祖母の思い出話、泣きたいときに泣いてきた自分。
そんな記憶を背景に、偶然出会えた「泣きぼくろ」の投稿は、この先も私の中に残っていきます。
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