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自己紹介〜私の双極性障害リカバリーストーリー〜

はじめまして。じゅんじゅんと申します。
作業療法士の資格を保有しており、双極性障害Ⅰ型の当事者でもあります。
現在はXやYouTubeなど、各種SNSで情報発信を行っています。

今年、第58回NHK障害福祉賞のコンテストに応募しました。
先日11月16日に結果が発表され、今回は残念ながら「選外」という結果でした。

結果を受けて再度、自分が書いた原稿を読み返してみました。
結果的に入選することはできなかったのですが、今回書いた作文が双極性障害を発症したころから現在に至るまでのリカバリーストーリーにもなっているのではないか?と思い始めました。

私のことを何も知らない人に向けての自己紹介的な役割を果たしてくれるかもしれないと思いましたので、今回コンテストで選外となった原稿をこちらで共有させてください。


第58回NHK障害福祉賞応募原稿
「自分探しはもうやめた!~双極性障害の自分を受け入れるまで~」

大学四年生の秋、双極性障害Ⅰ型と診断された。初めて体験した気分の落ち込みから、すでに四年の月日が経過していた。

今回、診断に至るまでの学生時代と障害者としての就職活動を振り返りたい。

高校時代 なんとか手に入れた大学への切符

将来の夢は、医療従事者。
人の役に立つ仕事に就きたいと子どもの頃から考えていた。

高校生の時に「作業療法士」という職業に出会う。作業活動をリハビリに取り入れるところに面白さを感じ、進学するならば、作業療法を学べるところが良いと考えていた。

高校時代は勉強も部活も中途半端。部活は弓道部に所属。
性格は基本的に真面目だが、楽観的で調子良く冗談を飛ばす一面もあった。昼休みや部活終わりに友人達と他愛もない話で盛り上がる、そんな時間が楽しかった。

高校時代の一番の思い出は、部活の友達と文化祭のステージに立ち、人前でものまねを披露したこと。幼なじみには「ちょっと変わったよね。」と言われたりしていた。

そんなわけで大学入試は人一倍苦労した。第一志望の大学は不合格、後期試験で合格した第二希望の大学に進学することになる。現役で合格できたことは、とても嬉しかったし、家族も喜んでくれた。

大学へ進学 初めて経験する気分の落ち込みに戸惑い

合格したのは新幹線等を利用して約四時間かかる県外の大学。三月末はアパートを決めたり、家電を買い揃えたりの準備でバタバタしていた。

入学式も終え、大学生活が本格的にスタート。緊張しやすいタイプではあるが、徐々に慣れていくさと簡単に考えていた。

私はどちらかというと社交的で、友達を作るのにも、そう苦労したことはない。

しかし、友達と会話のキャッチボールが上手くいかないと感じることが増える。
相手が投げてきたボールをポロッと落として、時間をかけて投げ返す。そのうち自分の身の回りの環境に対し、無関心というか、情報が脳に上手く伝わってこない感覚に襲われる。

リアクション(反応)の低下は、健全な友人関係を築く障害にもなった。気づくと毎日眠りが浅く、早朝覚醒があった。

朝から疲労度が大きく、重たい体を引きずり、シャワーを浴びて着替え、家を出る。そんな些細なことにエネルギーを使うようになり、どんどん気を張り詰めていった。

ある日、教科書をたくさん詰め込んだショルダーバッグの紐がプチンと切れた。そのとき、自分の中でもギリギリ保っていたものが壊れた。

大学生になって初めてのテストの日、逃げるように地元に向かう新幹線に乗った。乗車前には、甘いお菓子をたくさん買い込んだ。
甘いと感じる感覚だけが、現実を紛らわすものだった。

その日、心配した同級生からは着信やメールが何件も届いたが、そっと携帯の電源を切った。手を差し伸べてくれる人たちに応じることができず、申し訳なさや罪悪感に苛まれた。

そんな調子で地元と大学の往復を続けたので、大学の先生からの提案があり、実家でゆっくり過ごすことになった。
実家に帰ると、父の勧めで心療内科を受診した。体調を崩したのが四月だったこともあり、五月病の可能性を示唆された。

今振り返ると、これが初めてで自分史上最大のうつ状態なのだが、当時はうつ病に関する知識も乏しい。医師の見解を受け入れるしかなかった。
心のどこかではうつ状態を疑うこともあり、モヤモヤした気分だった。

親元を離れての初めての一人暮らし。知らず知らずのうちに疲れが蓄積したのかなと考えるようになった。

孤独な自宅浪人に転向することを決意する


実家での生活を経て、少しずつ気分の落ち込みが紛れてきた。やっとの思いで合格した大学だったが、退学願を提出する。

作業療法士に関して学ぶことができる場所は他にもあると前向きに考えることができるまでに回復していた。昔からの長所で気持ちの切り替えは早い方である。

自宅から通学可能な専門学校に行くことも考えたが、本心は「大学で学びたい!」だった。キャンパスライフへの憧れがあったからだ。

立ちはだかる大きな壁はセンター試験。再受験をするためには覚悟を決めないといけない。

また、当時は大学を中退したばかりで心にダメージを負っていた。予備校に行く気力は出ず、私が選択したのは無謀にも思える自宅浪人という道だった。

まずは、高校時代の勉強方法の見直しから始めることにした。「宅浪 勉強方法 独学」などで検索した。
すると、センター試験対策のフローチャートが無料公開されているサイトに辿りついた。わらにもすがる思いで信用し、八月から勉強を開始した。

最初の頃は、自宅の机で一日二時間くらいが限界。気分の落ち込みも徐々に軽減していったので、勉強する場を図書館に移し、七時間の勉強時間をノルマにしていた。

自宅浪人は孤独感が強い。社会からポツンと取り残されている気がした。
寂しい気持ちを埋めるように毎日のランニングと筋トレを習慣にしていた。

家に篭っていたころとは比較できないほどに毎日努力を積み重ねることができていた。自分の人生の中で最も心と身体が研ぎ澄まされていただろう。

ついに迎えた二回目のセンター試験。確かな手応えがあった。
自己採点をしてみると、現役の時と比較して大幅アップ。
そのままの勢いで二次試験を受験。

合格発表は直接大学に出向き、自分の目で受験番号を確認した。

「大学は中退したが、それを乗り越えて努力した結果が実った。まわり道もしたけれど、ここからがスタートだ。」と熱い涙が頬を伝った。 

2度目の大学入学 勢いよくスタートを切るも徐々に失速

「空手部に入部させてください。」

孤独な自宅浪人を経ての志望校合格が私にもたらしたのは、高揚感と爽快感だった。未経験で空手部に入部しようとするチャレンジ精神。

この頃の私の行動は思い切りがよく、集団の中心的存在のような感覚があった。SNSを活用し、学部を越えた交流会を実施するなど、リーダーシップを発揮する場面もあった。

大学の作業療法学専攻の雰囲気は和やかで、同級生ともすぐに打ち解けることができた。

気分の落ち込みを乗り越えた経験から、同じ境遇の人を救うべく精神障害領域を担当する作業療法士を志望するようになったのもこの頃だ。

最初は実家から電車で通学していたが、一人暮らしも始めた。

エネルギッシュな四月を経て、ゴールデンウィークも終わった。色々なことに対しての熱意がスーッと冷めていった。なんとなく周りの会話のスピードや雰囲気についていけない。

前の大学を中退した頃のことが脳裏をよぎる。
希望して入部した空手部も辞めてしまい、心にある喪失感を埋めるように大学のカウンセリングを受けた。そして、再び心療内科の門を叩くことに。

医師からは、前回と同じく、五月病と診断された。具体的な解決策は何もなく、大学の先生にも相談できないでいた。

ある日、同級生に「かにあつ、最初の勢い無くなっちゃったよね。」と指摘された。心臓がドクンと高鳴り、またふりだしに戻ってしまうのかという感覚があった。

大学一年生の前期、体調の変化を周りに悟られないようにしながら、なんとかやり過ごした。  

後期が始まる頃には、気分の落ち込みも快方に向かっていた。友人の誘いもあり、大学生協の組織に入り、「相手に伝える・伝わる」技術の習得に努めた。この経験は、その後の大学生活及び人生の礎となった。

この頃には調子を崩す可能性があることを忘れつつあった。順調に年を重ねていく。アカペラのサークルに入って練習に励み、練習後は食事をしながら楽しいお喋り。

伝えることに関心があったので、学習塾の講師のアルバイトにも挑戦した。このときは、「元気があればなんでもできる!」がモットーで、スケジュール帳にはぎっしり予定を入れていた。

何事にもポジティブなイジられキャラ、そんなポジションを大学四年まで貫いてきたと思う。

しかし、紙一重で安定を保っていた気分の波が、大きな津波になって私を襲う時がすぐそこまで近づいていた。

躁状態の兆しが表れ 精神科を受診 双極性障害と診断される 

大学三年生の時、大学院への進学を決めた。
長期実習を終え、残すは卒業研究と国家試験対策だけのシーズン。実習を無事に終えた解放感からくる気分の高まり。

「俺ってすげえじゃん。もっと色々なことを計画、実行、発信していこう。」と考えるようになる。

突然、新しいLINEグループを作り、誰もかれも区別することなく百人くらいグループに招待した。よく事情を知らない友人がメンバーになり、人が増えてくると、自分が考えていることを動画や文章で発信し始めた。

その頃は、多弁になり、話しすぎて声まで枯れていた。根拠のない自信がどこからか湧いてくる。自分の考えは論理的でスマートだと思い込んでいたが、客観的にみれば滅茶苦茶な考えだった。

その矛盾に気づくことはできず、私の考えに反対する人がいれば、罵倒する、胸ぐらを掴むこともあった。

「精神科を受診してみないか?」

大学院の入試を終えたタイミングで、大学の先生に呼ばれた私は、こう提案を受けた。今までの私の良いところが見えなくなってしまっていることを告げられた。

私は、幸運なことに医学部に所属していたため、精神医学の専門家に病気の兆を気づいてもらうことができたのだった。

病識もなかったので、そんな必要はないと答えたが、「気分の落ち込みを防ぐためにも」という先生方の言葉にハッとした。大学を中退した時の大きな気分の落ち込み、それはトラウマとなっていて、絶対嫌だった。

先生方に気分の落ち込みが以前もあり、心療内科も受診したが、五月病と診断されたことを号泣しながら告白した。

その日は自分のアパートに帰り、翌日一人で精神科を受診する手はずとなった。

自分は選ばれた特別な人間なのだ、外を移動すると狙われてしまう、危険だという考えが頭から離れず、精神科の受診は大学の先生にも付き添ってもらうことになった。

受診するときに何を発言したかは覚えていないが、この医師は本当に自分をちゃんと診ることができるのか?と考えていたのを覚えている。

その日は、気分の変動を抑制するために双極性障害という診断名は、告げられなかった。薬を処方され、実家で静養することになる。

実家でもたくさん知識を取り入れて、能力を伸ばしてやると思った私は、ボストンバッグに五十冊の本を詰め込み、地元へ向かう電車に乗った。
いつもなら不自由なく思考、判断、選択、行動できていることができないでいた。

電車に乗ったはいいが、切符を確認しにきた車掌に渡す運賃が財布の中にない。財布から取り出すのは非効率的だと考え、別の場所に収納し、その場所を忘れていたのだ。

困り果てていた私を、隣の座席に座っていた人が助けてくれた。足りない分の運賃を工面してくれ、「引き換えに面白い話をしてよ。」と言ってもらった。自分は天才で、色々なアイデアをひらめいているのだということを、三十分間ノンストップで大きな声で話した。

実家での療養開始 うつ状態で締めくくられた大学生の最後

実家に帰ったその日、処方された強い睡眠導入剤を服用して、二日ぶりのしっかりとした睡眠を取った。

あとから聞いた話では、両親は大学の先生から精神科へ入院させてはどうかと打診を受けたそうだ。結局、精神科に入院することはしなかった。

両親は私の早朝覚醒に合わせてドライブに連れ出してくれたり、多弁だった私の話を傾聴してくれた。

両親が不在の日中、自宅待機が難しかったときは、近所の人の家に厄介になっていた。再放送のドラマを一緒に見たり、パソコンで作業したり、大変お世話になった。

乗り物を運転することや大学のイベント事への参加も制限されている中、なんで自分だけという疎外感に苛まれることになった。
大学にも電話したし、同級生のグループLINEに何件もメッセージを投稿した。

躁状態から二ヶ月が経過した。気分も落ち着いてきて、家族に迷惑や心配をかけるような行動も少なくなっていた。

サークル活動にもぼちぼち復帰し、ステージに立って人前で歌ったりもした。自宅での待機期間での孤独な時間を取り戻そうと一生懸命だった。

そんな矢先、高校の同窓会に出席したのがきっかけで、翌日からうつ状態となり、自宅での療養が始まった。

ちょっとコンビニまで外出するのがやっとで、それだけでどっと疲れる。
この人は昼間の時間帯に学校や会社にも行かず、何をしているのだろうと思われているような気がして、すれ違う車の運転席を見ることも憚《 はばか》られた。

この間も大学の先生には定期的に時間を割いてもらい、面談してもらった。話をよく聞いてもらい、ちょっとした行動を褒められて元気をもらっていた。

気分の落ち込みは継続したまま迎えた卒業式。
なんとか卒業式には出席することができた。

外面は笑顔を作り、皆と一緒に写真を撮ったりしていたが、帰って休みたいという本心があり、心の底から楽しめてはいなかった。

謝恩会でも、出し物のステージに立つことはなく、下級生と観覧席から同級生たちを眺めるだけ。
最後の最後なのに、大きな区切りの実感もなく、大学の卒業はぼんやり終わった。

そのまま大学院に進学。環境自体は大きく変わらないので安心感はあった。しかし、この時の私は本当の自分というものを完全に見失ってしまっていた。

いつから双極性障害の影響を受けていたのだろう。
最初の大学を中退した時は大きなうつ状態で、大学一年生の最初が軽躁と軽いうつだった。大学四年の激しい躁状態が出るまではどうだったのだろう。

それでは、自分の本当の性格ってどんな性格なのだろう。
学生時代、自分が成し遂げてきたことは、病気の力によるものなのだろうか。そもそも原因はなんだったのだろう。自分探しが止まらず、悩み続けることになった。

そんな悩みを抱えたまま、大学院を修了。
作業療法士の免許も取得し、社会人としての歩みが始まることになった。

就職活動開始 自分に合った仕事探しに奔走


作業療法士にはこだわらず、障害者向けの求人も視野に入れて、就職活動をすることにした。障害者手帳を取得したのもこの時期だ。等級は三級だった。(現在は二級)
手帳は取得したが、障害者としての就職活動の方法が分からない。

WordやExcelなどのスキルは学んでおいても損はないだろうと感じていた私は、通院していたクリニックの医師から、障害者が活用可能な施設のパンフレットを見せてもらった。そこに掲載されていた就労移行支援事業所に通所することが決まる。

事業所では、パソコンやビジネスマナーの講座を受講した。他にもテープ起こしや封入作業など、事務作業を実践的に行う案件も経験させてもらった。毎日通所することで生活リズムも一定になり、通所にも慣れてきた。

そんな折、第一回目の精神障害者を対象とした県職員の募集が開始される。条件も良く、受験して、採用されることになった。

県職員の業務は、公立学校での事務だった。
お金に関する重要な書類の管理、電話・保護者への応対業務があった。

書類の管理、ファイリングは事務の基本的な作業で任されていたのだと思うが、小さなところまで気になる私にとっては精神的負担が大きかった。電話に出るのも怖くなってしまう。
事務室で一日執務することが難しく感じるようになり、こちらを約二十日間で退職する。

双極性障害の波が落ち着いていれば、健常な人と見た目や応対は何も変わらない。県も精神障害者を雇う、私も精神障害者として雇われるのは初めての試みだった。お互いに障害や特性のことが上手く共有できていない部分があったのだろう。

面接の時は採用されたいと思う気持ちがあるから、持ち前の明るさでハキハキと元気に受け答えできる。配慮してほしいこともたくさん挙げすぎると、採用されないかもしれないと心配になるところだ。
障害者の就職活動で難しいところだと思う。

自己理解に努めた時期 HSPの存在を知る


県職員を退職すると、就労移行支援事業所の所長さんが出戻りを快く受け入れてくれた。今回は、事業所と別に障害者職業センターの利用も行った。

私の具体的目標として、

  1. 職場でのコミュニケーションについて学ぶ

  2. リラクゼーションの手段を増やす

  3. 自分に合った働き方の理解を深める

ことが挙げられた。

前職を退職することになったきっかけを掴むヒントが与えられたみたいで行動の指針になった。

また、このときにHSPという考え方との出会いを果たす。HSPの人を繊細さんと呼ぶ専門家もいる。病気でも障害でもなく、気質である。物事を深く処理する、過剰な刺激を受けやすい、共感性が強い、些細なことに気づきやすいといった特徴がある。

二度の早期離職を経験して、私は新しい環境が与える刺激を受けやすい傾向があると感じていた。他人との境界線がぼんやりしているところがあり、人のネガティブな表情や、態度が目に入ってきやすい。さらに、それを自分ごととして捉え、緊張が高まり、疲れ切ってしまう。

HSPの気質が早期離職をした原因の全てと捉えるのは早計かもしれないが、一因を担うはずだと感じた。

自己理解も深まり、早期離職の傷も癒えた頃、県内の市役所の会計年度任用職員として採用が決定した。

二度目の就職 働く日々が自分の自信となる

市役所の仕事は、引越しや各種届出があった場合のシステムへの入力業務だった。

三月に職場を事前に見学させていただく機会をもらって、前任者の仕事を直接見ることができた。自分の仕事をする姿をイメージできたことは大きかった。

四月から本格的に仕事が始まる。
チューターの方についてもらい、マンツーマンで丁寧に仕事を教えてもらった。質問する人が特定されている方が自分にとっては安心だった。

五月半ばに持ち場を一人で任されるようになる。日々、勤続日数最高新記録を更新する嬉しさと、社会人として初めて給料をいただくことが自分の自信になっていった。

仕事面では、入力の正確さと小さな間違いに気づくことを褒められた。
細部にまで注意を払い、深く思慮するHSPのポジティブな側面が活かされていたのだろう。

また、作業療法士としての感性も役立っていた。
作業療法は、患者さんを知る作業「評価」から始まる。評価をもとに患者さんが困っていることを明らかにし、問題解決を手助けする。

一件一件のタスクの内容を吟味し、問題点や課題がないかを探究し続け、実行していたことが正確な作業遂行につながっていたはずだ。
作業療法士の在り方を他職種に転用できたことは嬉しかった。

市役所の仕事は二年間勤め、任期満了で退職。現在は就職活動中だ。

自分探しの終結 ひたすら前に進む意志

双極性障害と診断され、本当の自分を見失うことになってしまった。

自分を探し回り、過去の元気に溢れた自分に憧れることも。しかし、今の自分を自分だと受け入れ、「自分づくり」をしていくことが大切だと思えるようになった。

双極性障害の気分の波は、今後も服薬によってコントロールしていかなければならない。

気分の波が落ち着いていても、様々なことに興味・関心をもち、ワクワクすることはできる。躁状態からくる高揚感や多幸感ではなく、もっと健康的なものだ。

このように考えることができるまでになったのも、人生の節目で支えてくれた人たちとの縁があったから。発症時に離れた縁もあったが、より強く結ばれた縁もたくさんある。

これまで出会った人たちへの感謝を心に秘め、後ろ向きにならず、明日を見つめて今日を懸命に生きていきたい。


ここまでお読みくださった方、ありがとうございました。

今年、八木仁平さんの自己理解プログラムを受講し、
8月から

  • メンタル疾患をもっていて社会復帰をしたい人

  • メンタルヘルス不調の予防を考えている人

に向けて、スライドを利用したプレゼン形式でYouTubeで情報発信をしてきました。

現在の心境としましては、うつ病や双極性障害などの気分障害の方のリカバリーに役に立つ情報や、当事者の私の経験や見解をお伝えしていこうと考えています。

継続して各SNSでの発信を頑張っていきます。
今後ともよろしくお願いします。

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