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ひとりでは生きていけない

前置き

大変です。

音声日記が三日坊主どころの話じゃないです笑。

すいません、何が原因かと言いますと

「赤ちゃん、なかなか寝ない問題」

これです。。

私、出産する前までは赤ちゃんとは、起きてる時間がとっても貴重で「あーん、また寝ちゃったー❤️」みたいな寝ることが仕事の生き物だと思ってたんですけど、そんなこと無いんですね。。(そういう赤ちゃんもいるとは思いますが)

それでも新生児の頃は、今から考えるとトータルの睡眠時間は長かったと思います。

でも、当時は一回の睡眠時間が短すぎて絶望してました笑。だって折角寝てくれたと思ったら、モロー反射でビックリして5分とかで起きちゃうような有様でしたから。。(モロー反射とは、赤ちゃん特有の原始反射のひとつで、ビクビクっと痙攣する動作の反射です)

今は、段々首が座ってきたこともあり、モロー反射はほぼ無くなり、それに伴ってモロー反射起因の目覚めは無くなりつつあるので、その点はホッと一安心なのですが、、

まだ残された問題はいくつもあり、、

そのうちのひとつが

「赤ちゃん、めちゃくちゃ音に敏感問題」

これです。。

区の赤ちゃん訪問のときに来てくれた助産師さん曰く「一人目の赤ちゃんには多い」とのことで、うちの娘も御多分に洩れず。。

寝てるときは特に敏感で、ペットボトルのパキッと鳴る音や、赤ちゃん自身のオナラの音で泣いて起きたりしてました笑。

不可抗力だから!!それくらい許してー!!と心底思いました。。

でも、それも段々とマシになってきて、周囲の生活音にも慣れてきたようです。今も大人の大きい笑い声とか、くしゃみ、咳、水の流れる音とかにビクッとしたりしてますけど、大分マシになりました。

言い訳が長くなりましたが、そんな訳で、赤ちゃんの睡眠のために音声日記するのが難しいのでは?という状況かつ、ちょっと音声日記のやり方も色々模索してるので、しばらくまた文章投稿でいこうと思います。。

本題へ

で、やっと本題なのですが

このように最近の私は赤ちゃん育児に日々、奔走し疲弊しています。そのなかで自分は社会の一員だったんだな、と今更ながら実感出来るようになりました。

今まで私は何となく「自分は、自分ひとりの力で生きている」という感覚を無意識に持っていました。

無意識に、というくらいなので、本当に普段は意識したり感じたりしてないんです。

孤立や孤独とは少し違うんですけど、どこかポッカリと自分の存在が浮いてるような不安定さとでも言いましょうか。根無し草とか浮雲みたいな、そんな感覚です。

勿論、理屈として、自分の家族、友人など身近な人々をはじめ、コンビニの店員さんや駅員さんなどに至るまで、自分の生活に関わる人々のおかげで、平和に、便利に、安心して生きてる、彼らに支えられて私は生きている、ということは理解していたつもりだったのですが、どこかで「それでも私はひとりで生きているんだ」と思っていました。

これは「一社会人として、経済的にも精神的にも独立せねば!」という気負いもあったとは思うのですが、今となっては間違いだったと感じています。

なぜ、そんなことになったかというと、理由はおおまかに2つです。

1.頑張ればもっと出来るという勘違い

「頑張ればもっと出来る」

この言葉によって、私は今まで努力することを学びましたが、自分の許容量以上のことをやり過ぎたり、現実に即してその目標は可能か不可能かということを自分で判断しないまま、闇雲に行動するという悪習を身につけてしまいました。

今は、昔より自分の能力や許容量、範囲に照らし合わせて、頑張るということが出来るようになっている、と、思います(思いたいという願望もありますが笑)

特に、子育てにおいてこの目測を誤ると、一家共倒れですから、このことは肝に銘じたいのですが、白旗を上げられること、助けを求められることが、子育てには必要なことで、また、私が上げたこうしたヘルプの声に応えてくれる周りの人々の存在というのが、必要なのだと思います。

このことには、また後ほど触れます。

ともかく、この努力万能論により、私は独善的に一人で生きているような気になっていたのです。

2.間違った理想の大人像

私の理想としていた大人や親の姿が間違っていたいうことも原因のひとつでした。

ようは、目標設定自体が間違っていたんですね。

私にとって目指すべき大人とは「経済的に自立していて、親からの援助は受けず、むしろ親を援助できるような人」であり、「精神的にも自立しているので、何か問題が起こっても経済力で解決したり、自力で解決するだけの力がある人」という存在でした(金の話ばっかりですいません。。)

それゆえに、親になるのに相応しい人というのも、こういった大人になってから!という思いもありました。

だからこそ、現実の自分と照らし合わせて、自分は社会人として一人前じゃないとか、親になる資格がないとか、卑屈になっていたのです。

でも、物理的に子供が目の前にいる、出産しちゃった!(しちゃったとは、、)という状況になった今ならわかるのですが、そんなこと言ってる場合じゃないのです。

というか、そんな大人や親を目指す必要がないということがわかりました。

そりゃ、経済的自立は大事!出来るに越したことはないし、親に援助とか立派!としか言えません。それに、親に無用な心配をかけないような人生を歩むのも親孝行だと思うし、良い人生だと思います。嫌味なしで。

でも、現時点での私には無理なんです。

ひとりじゃ娘を育てていくことなんて出来ないんです。

というか、本当に誰の援助も受けずに生きるって、無人島で生きてるみたいなもんなので、そんな人いないのでは?と思うのです。

周りの人々への関わりと感謝

そんな感じに色々間違えていた私も、今目の前の現実として、子育てというタスクが日々のしかかってくると、本当に一人では出来ないことが山盛りになっていきます。

子供をお風呂に入れるのだって、頑張れば1人で出来るけど、出来れば2人の方がいい。

寝かしつけだって、頑張れば毎日1人で出来るけど、身体的にも精神的にもキツイから、他の人にもやってほしい。

頑張れば1人で出来るけど、ということの積み重ねであることが、育児の悩ましいところなのだと思います。

そして、その頑張ってるという物差しは自分にしかわからないのも辛いところです。

養育者の心身が健康かどうかは、赤ちゃんの命に関わります。

なので、赤ちゃんにミルクをあげたり、オムツを替えたりすることだけが育児ではなく、養育者がヘルプの声をあげるのも育児のひとつだと思うのです。

また、ヘルプの声を受け止める周りの人々の存在も欠かせません。

周りの人々とは、夫をはじめとする家族は勿論、ちょっとしたことを相談出来る友達や、専門家(医療現場の方々、地域の保健師さんや助産師さんなど)ですが、私は幸運なことにそれぞれの方々のフォローがあり、今のところ楽しく育児をさせて貰っていると感じます。(今のところ…

子供を持って1番意外だったことは、日本は意外と子供を育てることに対して助成やフォローが充実していると感じたことです。

以前の私は、日本は子育て世代に優しくない国と感じていました。しかし、妊娠出産を経験して、その印象は変わりました。

母子手帳の交付手続きのときに、区の保健師さんから面談で色々相談できたり、出産した病院でも助産師さん、看護士さんは真剣に向き合ってくれたし、赤ちゃん訪問なる地域行政による出産後の産婦の精神的フォローもありました。

とにかく皆んな、私(母親)と赤ちゃんを生かそうと一生懸命になってくれている、と感じました。

昔は、地域コミュニティによって社会が子供を育てる世の中でしたが、今は家族の他は専門家の介入によって子育てが成立しているのだと感じました。

まあ、でももっと子育て世代に優しくしてくれてもいいんだよ?とは思いますが笑。

少し脱線しましたが。

夫や、母や妹が私の娘の世話をしてくれるのは、私が家族の一員だから。

友人たちが、子育てのアドバイスをしてくれたり、たわいもない世間話で癒してくれるのも私を友人だと思ってくれてるから。

こういったことを再認識することで、すごく温かい気持ちになり、周りの人々への感謝の気持ちでいっぱいになりました。

また、こうしたことを体験させてくれた娘の存在にも感謝し、大切に大切に育てたいと気持ちを新たにするのでした。

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