予備校講師だったおじいちゃんが伝えたこと
おはようございます。今日は朝からコメダ珈琲に来てのんびりモーニングを楽しんでおります。
みなさん井上陽水さんをご存じでしょうか。
私は井上さんが大好きです。
日本人ですが、黒人音楽のようなリズムとその声に魅了されております。
少年時代のようなノスタルジーを掻き立てられる曲から、氷の世界のような狂気的な曲まで、この人の頭の中はどうなってるんだといつも思って聴いてます。
当時72歳でこのパフォーマンスはすごい以外の言葉がみつかりません。
ちなみに40代の井上さんはダンディズムの境地のような色気を出しております。
70歳を過ぎてなお力強く、精力的に活動できる人間になりたいものです。
本題に行きましょう。
さて、本題に行きたいところなのですが、今日は変なことを書きます。
特に意味のないことを書きますので、よほど時間に余裕がある人以外は読む必要がないかもしれません。
これは予備校に通っていた時の話です。
私は一時期山梨県の予備校に通っておりました。親には申し訳がないのですが、たいして成績も伸びずに、ただ通っていただけでした。
そんな中で、今だに覚えていて、私の生きる1つの指針になっている言葉があります。
現代文の先生の言葉です。
現代文の授業の内容はお世辞抜きに1mmも覚えていないのですが、当時でお年の先生が雑談で放った一言が強烈な印象を残しました。
「僕の友人が先日亡くなりました。その友達が僕に言うんです。
人生の最後が近くなり、ベッドに横たわった時の楽しみって何があると思う?と。君たちは何だと思う?」
と聞かれて、食事、家族、友人との会話などと当てられた生徒は答えていたかと思います。
するとそのおじいちゃん先生は、
「昔の思い出を振り返ることだよ」
と言いました。
「幼少期から、学生、社会人、引退後それぞれの出来事を振り返って後悔したり、よかったなと思ったり、そういう時間を過ごしているんだよ」と教えてくれました。
その時の18歳の私はふと疑問を持ちました。
「ん?待てよ、じゃあ今これだけ一生懸命部活や勉強をしているのは死ぬ間際の思い出作りのためでしかないのか?」
そう考えると生きるのが馬鹿らしくも感じたのですが、
逆に考えると、死ぬ間際の思い出の振り返りを充実させるためには、生きている期間を充実させることが大切なのではないかと。
だいぶ前の話ではありますのが、私はこの話を30代を過ごしていてもことあるごとに思い出し、いい機会だから今日noteに書いておこうと思った次第です。
この考えがあるので、辛いことが起きても、
「これでまた振り返りの思い出ポイントがたまるぞ」
のような感覚になって、辛いことはそうなのですが、一方で楽しんでいる自分もいることに気がつけるのです。
「死ぬこと以外かすり傷」という言葉がありますが、本当にそう思います。
選択する必要があるときに、どちらが思い出ポイントを貯められる経験ができるかが判断基準になります。
そしていま私たちが生きている中で経験していることすべてが思い出になり、最後の最後はお金も、家族も残して最終的には自分一人で死を迎えるわけでして、今生きているこの世の中も所詮思い出として消費される出来事でしかないと捉えられるわけです。
だからと言って人生に対してネガティブになる必要は全くなくて、むしろわくわく生きていくことが、死の間際に”わが人生一点の悔いなし”と言って目をつぶっていくことができるのではないでしょうか。
もちろんベッドで最期を迎えられるかどうかもわかりませんが、それもまた人生です。
私はこのおじいちゃん先生から、現代文を教えてもらったのではなく、
人生観、死生観を教えてもらいました。
今後の人生も大きな意味で充実させていこうと思えます。もうあれから15年ほどたっておりますので、おじいちゃん先生も今頃ベッドで思い出を振り返ってるかもしれません。
それでは今日も楽しく過ごしていきましょう。
では、また。
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