見出し画像

三権分立の図に欠けているものは何だろう?

行政が国民を監視する?

官邸のWEBサイトに載っている三権分立の図が、ほかと違っているという記事が話題になっています。

画像1

問題になっているのは、内閣と国民の間の矢印です。

何人かの方が記事にしているようですが、白井のりくにさんの記事では、「→」は監視という意味で引かれているので、「行政による国民への監視という意味」になるのではないかという指摘がなされています。

元記事にもあるように、他の図ではこの部分は、国民から行政への監視として「世論」が当てはまっているのが、一般的なようです。衆議院の説明でも、世論となっています。

衆議院の図

世論というのは、主にメディアを通じて「世の中の人々はこの政策に反発していますよ/歓迎していますよ」と伝わってくるもの。政府への大きな牽制となり、その力で行政を動かすことができるというのは、確かにそのとおり。報道の自由や表現の自由がその下支えをしています。

しかし、制度ではないので法的には強制力も何もありません。なので、おそらく官邸の図を作った人は、違和感を覚えたのかもしれません。国政選挙や裁判官の国民審査と同じように、自分たちが世論によってコントロールされるのはおかしい。そんな風に考えたのかもしれません。

行政の無謬性神話が矢印を逆転させた?

むしろ、自分たちは行政によって国民に働きかける側だと思い、逆向きの矢印を描いたのではないでしょうか。しかし、そうすると白井さんの指摘のように、矢印の意味はほかと同じように監視になってしまいます。

好意的に読み取ったとしても、せいぜい

(1) 行政が国民を導くために政策を施行する
(2) 納税者である国民に行政サービスを提供する

くらいなものでしょう。(1)については、意思も都合もバラバラな国民を有能な官吏が束ねて一つの方向へ統治しようという無謬性神話が前提になっているのであれば、監視とさほど意味は変わりません。

(2)についても、我々納税者は個別の行政サービスに対価を払っているわけではないので、「便利なサービスを受けられてよかったでしょ」みたいな態度を取られても困ります。政策制度により逆に不自由や困難を抱える人だっていくらでもいるので、それこそ国民からの監視をいくらでも受ける姿勢が必要です。

余談ですが、現在、子ども向けと思われる「首相官邸きっず」に載っている三権分立の図に描かれたイラストでは、国民が首からマイナンバーをぶら下げています。どういう意図なのでしょうか。

画像5

橋本行革の頃からこの矢印だった

ちなみに、官邸のホームページをさかのぼると、1998年の時点ですでにこのような矢印になっているようです。

画像6

それ以前のものが確認できないのですが、この図が載っていたのは1998年1月。橋本政権下での行政改革、いわゆる「橋本行革」が推し進められていた時期です。この行革では、官僚組織に対する官邸機能の強化と、行政組織の改編が目玉となっていました。一方でこの矢印。国民との関係においては、直接の監視を受けようという意思は持っていなかったであろうことが伺えます。

当時、地方自治においては、住民投票が盛り上がりを見せ、住民が直接、地方行政における政策制度の設計に介入を試みようとしていた時期でもあり、国レベルでも同様の仕組みができないか、在野で議論が出ていた頃と記憶しています。

さらにさかのぼること1年ほど前、1996年12月には旧民主党代表(当時)の菅直人さんが国会の質問で、憲法第65条「行政権は、内閣に属する」について、地方自治体の行政執行権はその限りにないという画期的な答弁を内閣法制局長官から引き出したこともありました。地方自治から国民が行政に直接手を入れようとする機運が高まっていた頃でしたが、国における国民と行政との関係にまで、メスは入れられなかった歴史でもあります。

最近は「行政機関が政策を実施する上で政令や省令などを決める際、あらかじめその案を公表し、広く国民の皆様から意見、情報を募集する制度」としてパブリックコメントという制度も運用されています。しかし、これも意見を募集する行政側のさじ加減次第なので、世論に代替する制度とは言い難いです。

間接民主主義の限界

矢印が逆に向けられている状態で、国民は内閣をどう監視しているのか。官邸の図に則って、それをアレンジすると、制度的にはこうなるでしょうか。

行政を間接的に縛る

内閣が国民に向ける矢印に対し、国民は、国会もしくは最高裁判所を経由して、間接的に力を行使する。選挙で与党を入れ替えることで、内閣も入れ替え、行政の施策を変えさせる。もしくは、行政訴訟として裁判所で政府を訴えて、違法性を指摘する。

しかし、これではまわりくどくないでしょうか。選挙が来ないと内閣は変えられない。重大な損害を受けてからじゃないと政府を訴えられない。前者は、間接民主主義として説明される部分でもあります。国民が主権を行使する機会は、非常に限られています。

三権分立に欠けている視点

また、三権分立についても検討しましょう。三権分立とは、立法権、司法権、行政権を分け、別々な機関に預けることで、互いに監視をさせ、独裁を生み出さない仕組みだというのが、一般的な理解でしょう。

もうひとつ踏み込むべきなのは、その三権をそれぞれ国民が直接、コントロールできるものであるべきという視点です。そうやってみると、元の図はこう見るべきではないでしょうか。

行政を直接縛るものがない

国民から内閣へ向かう矢印は、制度的には存在しない。三権分立を機関同士の監視とだけ捉え、国民の権力の発動は間接民主主義のみで制約されている。世論は大きな牽制力になり得ても、媒介役となるマスメディアやSNSに対して、国民自ら信頼性に疑問を置いている。国際NGO「国境なき記者団」の報道の自由度ランキングにおいても、(順位のつけ方への疑問は残るにせよ)日本は180か国・地域のうち66位で、「問題のある状況」と指摘されている。だからこの矢印は、限りなく消えかかった点線でしかない。これが制度的にも、実情的にも実態ではないでしょうか。

直接民主主義を取り込もう

国民から内閣に向かう矢印を明確にするには、直接民主主義的な制度が必要ではないでしょうか。アメリカやイギリスではインターネットでだれでも政府へ直接、請願ができるそうです。日本では、デジタル・ガバメント実行計画が策定されましたが、請願の電子化は実現しませんでした。

国政の重大事項について国民投票を行うべきではないかという議論も、いまではだいぶ下火です。1990年代の政治改革の頃、当時社会党だった上田哲さんが「国政における重要問題に関する国民投票法案」を作り、衆議院の議員立法の提出要件である衆議院議員50名以上の賛成を集めたものの、受理されず、裁判でも退けられるという憂き目にあっています。
いまでは国民投票=憲法改正のような構図になってしまっているのも残念です。

国民から内閣に向ける矢印として、どんな制度があればよいか。そんな議論が盛り上がっていけば、国民は主権者としてもっとできることを増やせるのではないでしょうか。

この記事で取り上げた図が話題になる契機となった検察庁法改正案の扱いについても、国民が大きな矢印を1つ欠いていることで歯止めがかかりにくくなっているのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?