世界農業遺産 傾斜地の農耕と暮らし
祖谷での2週間の滞在で、一番の衝撃はこの景色だった。一枚の写真で、人が生きるのに必要な資源の量が一瞬で把握できるからだ───
人類の争いごとは、すべて「資源」にある
自給自足する家族
広島県三原市に自給自足の暮らしで農場を営むがご家族がいるという。その方は、世の中における争いごとの原因は、ほぼすべて「資源」にあるという。食糧か、材料か、燃料か、自国で得られない希少な資源を巡り戦争をしている。このご家族が自給自足の暮らしをするのは資材争いから独立する狙いがあった。
必要な資源が一目でわかる展望所
私の探し物
私が、「住み続けられる暮らし」を追い求めているのにも、彼らと近しい動機がある。一家の自給自足ではなく、もう少し大きな、集落としてのコミュニティにおける必要資源量が知りたかった。
落合集落展望所
私にとって、祖谷での2週間の滞在で、一番の衝撃はこの景色だった。いち家族に対する農地の量、獣や山菜を確保する自然の山、建材は集落を囲うスギ。農的暮らしには自然に対してどれだけ切り開く必要があるのかが一目瞭然である。
東祖谷 山村集落
人の寄り付かぬ深い谷
四国は、7, 8割を山地が占めている。その険しい山々の中央に位置するのが祖谷である。祖谷は「いや」と読む。民俗学者柳田國男によると、祖谷とは先祖の霊がいる谷を指すそう。
なぜ斜面地に暮らすのか
人の住みつかぬこの地に最初に住み着いた背景には「平家の落人伝説」があるという。先日、平家の末裔とお会いした。正確には、阿佐家の末裔というべきか。源氏に敗れた平家は、平の性を捨て、逃げ延びた阿波(徳島県)と土佐(高知県)の境の深い谷に身を隠したことから阿佐と名乗っていた。傾斜地で暮らしていたのは、彼らにとって、身を隠しやすかったからである。
なぜ山の上に家を建てるのか
東祖谷の山村集落は、主に祖谷川沿いにある。川沿いに道があり、上に住まう者は、毎度山上に上り下りを繰り返す。では、なぜ山上に住まうのか。想像してみてほしい。
祖谷の深い山で隠居していたとしても、一歩も集落から出ないわけにはいかない。道が整備されていないと当時、ゴツゴツした川沿いよりも、一度頂上に登り、山の尾根沿いに山越えをするのが一番歩きやすいとされていた。一度山頂に向かうため、山上に拠点を構える方が都合が良かったのだ。
家を建てては必要分の農地を開いていたため、山に間隔をあけながら住まいが建てられたとされる。では、平地が限りなく少ないこの地で、いかに作物を育ててきたのか。世界農業遺産にも指定されているにし阿波の傾斜地農耕システムをご紹介する。
にし阿波の傾斜地農耕システム
世界農業遺産に登録されたにし阿波の農耕
傾斜地の農業といえば、一般的に段々畑をイメージするだろう。ここ、にし阿波(徳島県西部)に点在する200の集落では、傾斜地のまま農耕が行われてきた。400年以上継承されてきた文化は「傾斜地農耕システム」として2018年、世界農業遺産GIAHSに登録された。
穀物文化
斜面地では水田をひくことが出来ず、穀物を育てていた。徳島県は昔、「阿波」と呼ばれていたが、この「阿波」も、よく育てられた穀物の「粟」が語源である。「大和」が昔「和」の一文字で「やまと」と呼ばれていたように、二文字のほうが縁起が良いとされ、「粟」から「阿波」という文字を当てられた。
育てられた穀物は寒さや乾燥に強い種が求められ、稲や小麦は適さない。粟の他には、小黍、高黍、稗、ソバ、ヤツマタがある。
山間に残る暮らし
よびごと
場所を見つけ、住まいを開き、集落を形成してきた。隣り合う集落同士は、「よびごと」といい、谷を挟んで、声でやりとりしていた。峡谷を挟んで、集落同士が連携をとっていたのだ。
平家が隠れ家として住みついたこの地には、独自のスタイルで暮らしていた。斜面地というアドバンテージの中で生き抜く人々の知恵の先には自然と共存した暮らしがあった。豊かな山菜、豊かな薬草、豊かな湧水。自然の恵を吸収した栄養価の高い祖谷の山は、我々が忘れてしまった日本人の暮らしを思い出させてくれる。
〈参考資料〉
世界農業遺産 にし阿波の傾斜地農耕システム世界が認めた「にし阿波の農業と暮らし」徳島剣山世界農業遺産推進協議会
重要伝統的建造物群保存地区「三好市東祖谷山村落合」
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