草笛双伍 捕り物控え一 鬼平暗殺3
清水門外の役宅が見えてきた。天空には三日月が昇っている。
そのわずかな月光の中、双伍は地に降りた。
なぜなら、清水門外の役宅に通じる道は、民家からは遠く離れている。
双伍は物音も立てず、闇に溶け込んで走った。
清水門外の役宅の壁は、10尺を優に超えていた。
だが、<風魔>の双伍にとって、なんら傷害ではなかった。
壁を蹴るように、駆け上がる。そのまま敷地内に着地した。
そこは屋敷というより、小さな城だった。
あまりに広大で、長谷川平蔵の居場所はすぐにはわからない。
双伍は素早く床下に潜り込んだ。
匍匐しながら、前進しては止まり耳を澄ます。
そしてまた前進する。
蜘蛛の巣や鼠の死骸が転がる中を、呼吸を乱さず探索していく。
半刻ほど経った頃、人の気配を感じた。
床下から頭部だけを出して、様子を伺う。そこは庭園だった。
おそらくこの真上の部屋に、長谷川平蔵がいる。
双伍は横転しながら、床下から出た。無論、何の音も立てない。
目の前には縁台がある。そして障子戸。双伍は耳を澄ました。
かすかな寝息が聞こえる。それもふたつ。
ここだ―――。
双伍は確信した。
双伍は縁台に膝を立て、うづくまった。
障子戸の溝に手早くロウを刷り込む。
それから用心深く、障子戸を開けた。
その間は12畳ほどの広さの座敷だった。
そこには布団がふたつ。やはり思った通りだ。
長谷川平蔵とその妻に違いない。
双伍の胸裏に一瞬、逡巡の気持ちがよぎった。
だが、ここでやめるわけにはいかない。
双伍はクナイを手にした。
せめて一撃で頭を貫いて、楽に死なせてやろう。
クナイが空を切る音がした。
確実な手ごたえ・・・はなかった。
クナイはそこにあったはずもものではなく、
枕に深々と突き刺さっていた。
「久栄、起きろ!曲者じゃッ!」
長谷川平蔵の怒号が響く。
それに目を覚ました久栄と呼ばれた女は、
反射的に隣の襖を開けて転がり込んだ。
よく訓練されている動きだった。
双伍はその動きに、不覚にも遅れをとった。
気付くと目前に、黒い人影が居合いの形を見せていた。
その人影は長谷川平蔵である。
平蔵の一瞬の剣の閃きは、双伍の鼻先をわずかに反れた。
天の才覚とも言える、双伍の反射神経が、
必殺の太刀筋をかわしたのだ。
だが、続いて二の太刀、三の太刀が双伍に襲い掛かる。
双伍は風のごとくそれらをかわした。
3本のクナイを長谷川平蔵に向かって連投する。
長谷川平蔵の剣はそれらのクナイを弾き飛ばす。
闇夜に火花が3度散った。
その隙に、双伍は背の忍び刀を抜いた。
逆手に構え、平蔵と対峙する。
おぼろげな月明かりが二人の顔を照らした。
長谷川平蔵は、その異名のとおり、鬼の形相だ。
対する双伍は冷徹な獣の眼光を放っている。
双伍は事前に知っていた。
今、長谷川平蔵の手に握られている剣は、
<粟田口国綱>か、もしくは<井上真改>。
どちらにしろ、名刀だ。しかも使うは長谷川平蔵。
双伍の持つ忍び刀では、まともな勝負はできない。
斬り合いではなく、かわすのだ。
そして一瞬の間に懐に入り、仕留めるしかない。
じりじりと互いに間合いを狭めていく。
先に動いたのは双伍だった。
時間をかけていては、増員が来るかも知れぬ。
そうなっては、逃げ切れるかどうかさえ危うい。
双伍は踏み込んだ。それはまさに疾風のような速さだった。
長谷川平蔵は袈裟斬りに斬り込んで来た。
双伍はその太刀を左手に持ったクナイで
受け止めた。しかし、凄まじい衝撃が双伍の腕に走った。
双伍のクナイが火花を散らす。
体勢を崩しながらも、双伍は必殺の間合いに入った。
逆手に持った忍び刀を長谷川平蔵の腹部へ
突き立てた―――かに見えた。
だが、平蔵は双伍の刀を鞘で受け止めていたのだ。
次の瞬間、長谷川平蔵は刀の柄の先―――頭と呼ばれる
部位で、双伍のこめかみをしたたかに打ち据えた。
双伍は凄まじい衝撃を受けて、よろめいた。
思わず片膝を畳につく。
気付いた時には、目前に長谷川平蔵の持つ、刀の切っ先があった。
双伍は目を閉じた。これまでか・・・。
ところが双伍が耳にしたのは、信じられない言葉だった。
「お前、名はなんという?」
それはつい一瞬先まで、死闘を繰り広げた相手とは
思えぬ、ゆるやかな口調だった・・・。
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