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影をもって、際立つは光

 彼がグラウンドに足を踏み入れた瞬間、張り裂けんばかりの歓声が起こった。それまでの両チームのホームラン、奪三振、好プレーの全てがかき消えるほどの熱と期待が渦巻き、声として、拍手として、あふれ出しているようにも思われた。球場にいた全員が、今日一番の歓声だと感じていた。――歓声を受ける、当の本人を除いて。
 試合は3点ビハインドの九回表。おおよそ歓声が起こるとは思えない場面。勝ちパターンの温存のために送り出される敗戦処理。本来なら、彼が今マウンドに立つのはおかしなことだった。しかし、そのおかしなことが起こってしまうほどに、彼は苦しんでいた。
 プレーがかかり、投じられた一球目。彼の手から離れたボールは、低い外角に鋭く刺さった。ボール玉とは思えない拍手がマウンドに降り注ぐ。その後も、一球一球の球筋、回転、変化、あるいは彼の表情、腕の振り、ボールを押し込む指先に、余すことなく視線が向けられていた。全ては期待だった。彼へ向けられる期待の全てが、視線にこもり、熱をはらんでいた。
 2つのアウトを取った後、3人目の打者。打たれたのはカットボールだった。三塁手の逆を突く、鋭い当たり。グラブが当たったことで、進塁は一塁で止まった。内野手たちとアイコンタクトを取って迎えた4人目の初球。インコースを狙った自慢のストレートが甘く入り、ライトの前へ飛んだ。2人のランナーを背負いつつもフルカウントまで追い込んだ、5人目の打者、六球目。力みか緊張か、僅かにストライクゾーンを外し、バッターが歩を進めた。
 この時の彼がどのような心持ちだったかは、祈るように見つめるファンも、マウンドに寄って声を掛けた内野陣も、見守る首脳陣もわからない。ただ確かなことは、彼の表情が変わらなかったことだ。悠揚として迫らざる、エースを超えた風格だった。
 3人分のプレッシャーと、ファンの期待を背中に受け、相対した6人目のバッター。一球目、かかる重さがボールへ伝わったのか、強く地面を跳ねた。瞬間キャッチャーの手が伸び、逸れることなくミットに収まる。1人で背負わせはしない、と言っているようにも見えた。二球目、アウトコースへのストレート、審判の手は上がらない。ツーボール。彼と同じ背番号のユニフォームを着た女性が、指を組む力を強めた。手作りのボードを持った少年が、真っすぐ彼を見つめていた。彼の名前を印刷したいくつものタオルが、より高く掲げられた。じりじりと追い込まれながらも、黒い舞台は彼のものであった。
 三球目。振り抜かれた腕から伸びたストレートは、低めのアウトコースへ向かう。見逃され、ストライクがコールされた。拍手と歓声を受けながら、キャッチャーのサインを視界に入れる。四球目。力いっぱい投げられたボールは、一球前より甘く入った。勢い良くバットが回る。が、ボールはキャッチャーのミットに収まり、バットは空を切った。
 そこで初めて、彼の表情に変化があった。驚きだった。ボールがバットをすり抜けたように見えていた。しかし彼は知らなかった。彼のストレートが打たれるはずがないことを。彼は、目の前でリードをする女房のことも、後ろで守る野手のことも信じていた。しかしその信頼と同等の自信は持ちかねていた。いや、持つことをためらっていた。自分の一振りの腕で、壊してしまった試合。痛みはまだ残っていた。苦しさも消えそうになかった。それでもその瞬間、バットに当たらなかったボールは、間違いなく彼のものだった。周りは知っていた。彼が、打たれるはずがないことを。
 そして迎えた五球目。女房のサインは、ストレート。彼の代名詞とも言えるボール。グラブの中で確かめるように握りなおした。今までも何度となくここに立った。何度となく打たれ、歩かせた。しかし、何度となく打ち取っても来た。そうだ。

 ――彼は、知っていた。自分が、信じられていることを。

 打者を捉えた目は鋭さを増した。痛みを、苦しさを、全てを振り切るかのように、腕を振った。放たれたボールはアウトコース低めの、ストライクゾーンの際を貫いた。打者がボールを追い、後ろを向く。キャッチャーミットの音が響き、アウトをコールする審判の声が続いた。一瞬の間をおいて、球場が沸いた。客席から降り注ぐ歓喜を受ける彼は、ようやく表情を崩していた。チームメイトが駆け寄り、言葉を交わし、背中を叩いた。束の間の安堵でしかないことは、彼もチームも理解していた。それでも、この瞬間の喜びを共有せずにはいられなかった。
 役目を終えて戻ってくる彼を、ベンチの端に座る監督は目を細めて見ていた。それが、ナイトゲームの中で煌々と光るライトのせいか、戦いを終えて戻ってくる未来のエースのせいかは、定かでない。
 ただ、確かに「眩しい」と、監督は感じていた。


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