「なぜ世界は存在しないのか」マルクス・ガブリエル著 【前半】
あぁ~~遂に、2回読んでしまった!!
はっきり言って「カントと地理学」以降の《哲学書》の中で、出会ってしまったという「ショック」が・・・・ですね、はい。
なんせ哲学書っていうのは、ややっこしい言葉が羅列するイメージですが、これはいろいろな例が出てきて、そういう点では、かわいい本でした♪
まずは、「あなたと宇宙」というところで・・・
居間の話をするのと、惑星の話をするのとでは、根本的な違いがある。対象領域が違う。(=特定の種類の諸対象を包摂する領域)
そりゃ~リビングの話と、惑星とでは違うよね。
なに、その、対象領域って?
居間の対象領域:食事する、アイロン掛ける、テレビを見るなど
惑星の対象領域:観察する、他の天文学的な対象との距離を測定するなど
政治の対象領域:有権者・地域のお祭り・一般党員など
自然数の対象領域:1・5・7・自然数など
こうやって書いてくれると、わかりやすいね。
まぁ~、それぞれあるもんね。
「宇宙」はもっぱら、物理学の対象領域で、「居間」がその中に含まれるのではない。
おぉ~~、なるほど。
「居間」は、「物理学」っていう枠じゃないもんね。
第1 どんな対象も何らかの対象領域に現れてくる。
第2 対象領域は数多く存在している。
そうね~、大きな枠の中に、ロシアのマトリョーシカ人形みたいに何重にも重なってあるのではなくて・・・
それぞれがバラバラになっている枠が、いっぱいある感じね。
数ある対象領域のひとつを、世界全体とみなすという間違いを犯している。
ほ~ほ~、そういう考え方ね。
存在するとは?たった一つの世界なるものは存在せず、無限に数多くもろもろの世界だけが存在する。それらはいかなる観点でも、部分的にはお互い独立しているし部分的には重なり合う。存在することとは、何かの「意味の場」に現れること。
なるほどね、世界がいっぱいある感じだね。
それらがお互い関係し合ってるのが、「意味の場」って感じだね。
「宇宙にせよ、時空にせよ、私たちのような存在者がこの美しい惑星上に存在することには、何の関心も持ってない。人間が存在するということが大きな全体からは、ほとんどどうでもいいことなのだ。しかし、あなたと私の関係(意味の場)は、どうでもいいことではない。」
なるほど、「今、ここ」の「ここ」の部分には、物理学的宇宙はどうでもいいことだしね。
目の前の、あなたと私、だもんね。
私たちはあらゆる瞬間ごとに、どれほど些細な瞬間でも絶え間なく「意味の場」の転換を経験している。私たちはこうして無数の「意味の場」を絶え間なく移動し続けていて、全てを包摂する究極の「意味の場」に到達することなどない。
おぉ~~!
まぁ~究極なんて、べつにあってもなくても、だもんね~。
全ての世界像は間違っています。世界像という観念を手放すこと。
「世界は存在しない」と「果てしない派生の中で果てしなく増殖していく無数の『意味の場』だけが存在する」という洞察によって、何らかの特定の世界像に依存することなく、人間をテーマにすることができるようになる。
きた~~!! 世界像っていう「観念」を手放すってことだって~!!!
そうねぇ~ある意味、虚像であり、幻想っていうものに「依存」してきたのかもしれないねぇ。
そして遂に「人間をテーマにすることができる」って言い切ってるし~!!
前半は、この程度にしておいて・・・
明日、後半に続きます。
今日も一緒に考えて下さって、ありがとうございましたm(__)m
拙い文章を読んで頂いて、ありがとうございました。 できればいつか、各国・各地域の地理を中心とした歴史をわかりやすく「絵本」に表現したい!と思ってます。皆さんのご支援は、絵本のステキな1ページとなるでしょう。ありがとうございます♡