ヤマモモとモモと日本神話と春の一日
ヤマモモの花が咲いていた。花といっても毛虫のような形になっており、小さな花がかたまっている。
ヤマモモは、「山にあるモモのような実のなる木」という名前だ。モモと違って、赤い小さな実ができる。
では、本来のモモは山にあるかというと、山に自生しているのを見たことがない。
モモは中国原産で、それが日本に伝わってきた。伝わったのが古く、纏向遺跡など縄文時代や弥生時代の遺跡から、モモの種が見つかっている。
そんなに古くからあるのなら、自生するモモもあってよさそうなものだが、昔のモモの種は割れていて、なかなか発芽しないらしい。なかなか芽を出さないモモを、人は、接ぎ木や挿し木などの技術で増やし、栽培していたのだろう。
当時のモモは、そんなにおいしいものではなく、明治時代に甘い白桃が発見されるまでは、祭りに使ったり、薬として食べていたらしい。おいしいモモが食べられるようになったのは、明治時代に白桃が発見されてからだ。
モモは、神代の昔から、食用というよりは、邪を払う果物として貴重だった。
「古事記」には、黄泉の国から逃げるイザナギノミコトが鬼を払うことにモモを使った話がある。
ここに伊邪那岐命、見畏みて逃げ還ります時に、その妹伊邪那美命、「吾に辱見せたまひつ」と言したまひて、やがて予母都志許売を遣はして追はしめき。
爾、伊邪那岐命、黒御鬘を取りて投げ棄てたまひしかば、すなはち蒲子生りき。これをひりひ食む間に逃げ行でますを、なほ追いしかば、またその右の御みづらに刺させる湯津津間櫛を引き闕きて投げ棄てたまへば、すなわち笋生りき。これを抜きて食む間に逃げ行でましき。
また後には、その八雷神に千五百の黄泉軍をそへて追はしめき。かれ、御佩せる十拳剣を抜きて、後手にふきつつ逃げ来ませるを、なほ追ひて、黄泉比良坂の坂本に到る時に、その坂本なる桃子を三箇取りて待ち撃ちたまひしかば、ことごとに逃げ返りき。
ここに伊邪那岐命、桃子に告りたまはく、「汝、吾を助けしが如、葦原中国にあらゆるうつしき青人草の、苦き瀬に落ちて患惚しまむ時に、助けてよ」と告りたまひて、意富加牟豆美命と號ふ名を賜ひき。
ブドウどころか、タケノコを生で食べる鬼が、モモは食べずに逃げた。当時のモモはおいしくなかったのだろう。花の観賞用や、実を薬用、マツリ用に使っていたのだろうか。
昔の桃太郎の桃は、先っちょがとんがっていて赤い実をしている。酸っぱいモモだ。今のモモとは全然違う。
おいしいのはヤマモモの方。種は多いし、果肉で赤くなるが、熟れた実は甘い。これなら鬼も食べただろう。イザナギが投げたのはヤマモモじゃないかと昔は思っていた。
モモは、モモから生まれた桃太郎が鬼退治をするように、霊力があると思われていた。それなら同じ「モモ」という名をもつヤマモモも神聖視されていたのだろうと思っていた。
モモの仲間の(バラ科)ウメも中国原産で、自生したものを見たことがない。モモもウメも、人間の手によって広がったものだろう。
種から芽が出にくいものは、挿し木や接ぎ木をする。けっこう古くから知られた技術のようだ。今でも1本の木に、赤と白の花を咲かせるウメの木を見ることがある。接ぎ木をしてあるからだ。人間は、すごい技術を古代から持っていた。
ヤマモモやサクラは、自分で種を広げ、芽を出し、成長して巨木になっている。サクラも、公園などにあるソメイヨシノの場合は、種が発芽しないので、人の手によって広められた。山の木々の間にあるサクラは、ヤマザクラやシダレザクラだけ。ソメイヨシノは公園や道路沿いにしかない。それなのに桜の名所といえば、ほとんどソメイヨシノ。それだけ人はサクラを植えてきた。
モモも、それだけ植えられたのだろう。こうして古代の遺跡から大量のモモの種が発見された。
モモにも多くの長い歴史がある。
ヤマモモの花を見ていたら、いろんな思いが次々駆け巡る春の一日。
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