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本質はエビデンスや科学が届かない領域にある?

前回の投稿から随分時間が経過してしまいました。
年も明けちゃいましたね。

さて、今日は私たち医療者が診療において日々重視していますエビデンスについて考えてみたいと思います。

エビデンスとEBM


そもそもエビデンスとは何でしょうか?
エビデンスを別の表現で言うと、証拠とか、裏付け、科学的根拠と言った意味があります。私たちは、様々な研究から蓄積されたエビデンスを診療に活かして医療を行っており、それをEBM(Evidence-Based Medicine)とか根拠に基づいた医療と言ったりします。よく誤解される事ですが、エビデンスを重視するあまりそれを患者さんに強いたり、この治療はエビデンスがあるからこの治療を受けないなんてあり得ないなどエビデンスを単純に患者さんに当てはめるようとする事はEBMとは言いません。EBMはエビデンスを患者さんの病状と環境,患者さんの価値観,医療者の臨床経験に全て照らし合わせて、それらをバランス良く擦り合わせて、最終的に患者さんと共に意思決定をしていく診療過程のことです。ですので、同じエビデンスを用いることになったとしても、診療を受ける患者さんや医療者が異なれば、全く別の方針になり得ることは至極当然の事なのです。

と、前置きが長くなってしまいましたが、今日はそのエビデンスそのものについて考えてみたいと思います。

科学的手法〜帰納法と演繹法


エビデンスとは科学的根拠というお話をしました。
では、科学的と言うのはどう言う方法のことを言うのでしょうか?
科学的な方法には主に2つのアプローチの仕方があると思います。
それは帰納法と演繹法です。帰納法というのは複数の事例などから共通点を探し、根拠を元に結論を導き出す方法です。一方、演繹法というのはある前提となるルールや法則に基づいて論理を展開していく方法で、例えば有名なところでは、「人間はみんな死ぬ。ソクラテスは人間だ。よってソクラテスは死ぬ。」というような論法です。

エビデンスを得るには主に帰納法的な方法を用いています。そのためには臨床研究が必要で、臨床研究は、仮説を立てて、その仮説を検証するために、ある特徴を有する集団とその特徴がない集団を設定して、その特徴がその集団にどのような影響を及ぼしているかを実際に比較したりします。例えば、タバコを吸っている集団とそうでない集団で肺がんが起きる確率を比較したり、高血圧がある患者さんたちをAという薬を投与する集団とBという薬を投与する集団に分けてどちらの集団の血圧がより改善されるかを比較したりすることです。それ以外にも、医学の研究は新しい病気の発見にも役に立ちます。例えば近年知られた病気で、エプスタイン症候群というものがありますが、それは(1)血小板減少、(2)腎機能障害、(3)難聴という特徴が若い時から見られる病気で、その特徴を持った集団を調べていくと、どうやら遺伝子に異常があることが分かり、その特徴があるものをエプスタイン症候群と名付けましょうという形で病気の発見にも役立っています。つまり、エビデンスは共通する特徴を持った集団を集めて様々な研究をして、何かを発見することで得られる知見のことです。

エビデンスは本質に届くか?

エビデンスをかなり大雑把に例えて言うなら、上の4枚の絵画をそれぞれ眺めて、「これらは流れている水を跨ぐようにアーチ型の建造物がある」といった共通する特徴を発見し、「これらは橋の絵と言って間違い無いですね」というようなものかと思います。ミルクボーイの漫才のネタみたいなイメージでも良いかもしれません(笑)

しかし、左上の葛飾北斎の富嶽三十六景の1つ、深川万年橋下という絵を例に挙げると、エビデンスでは「これは橋が描かれている絵」というのは分かりますが、どうして北斎がこの構図で富士山を描こうと思ったのか、どうしてこの色合いで表現したのかなどと言った本質に迫る固有の事柄については全くアプローチできないのです。

つまり、エビデンスとはあくまでもあらゆる要素の中のたった小さな特徴をピックアップして、それをこうすればこういう影響につながる可能性が高いなどと主張するもので、それは全体ではなく着目している要素に対する一つの可能性です。エビデンスでその人の本質を理解したりすることはできないのです。言い換えると、エビデンスはどこまでいっても「客観」の域を出ないので、当たり前の事ですが、「客観」であるがゆえに、それは「本質」ではないという事です。「本質」はエビデンスが届かない領域にあるのだと思います。たとえ最終的に表に現れている表現形は同じでも、固有の「本質」から始まって、その表現形に至る固有の「ストーリー」は千差万別です。それ故、エビデンスは固有のものである「本質」にも「ストーリー」にもアプローチするのが難しく、それはエビデンスの役割ではないのだと思います。エビデンスを扱う際には、その事を十分理解しておく必要があると思います。どんなにエビデンスを集めても、個人の本質やストーリーを捉えることはできないのです。

演繹法でも届かない世界


一方、科学的な方法のもう一つ、演繹法はどうでしょうか?演繹法の例えは先ほどお話しした、ソクラテスが死ぬという論理がありますが、ソクラテスが人間だという前提が本当に正しいかどうかは確固たる証拠がなく、もしかしたら宇宙人かもしれませんし、そうなればソクラテスは死ぬとは限らないかもしれません。また人間は死ぬというのは定説になっていますが、未来永劫絶対に人間は必ず死ぬという保証もないわけです。前提が崩れれば、演繹法の論理展開も脆く崩れてしまいます。数学の世界には不完全性定理というものがあり、全ての公理は突き詰めて証明していくと、必ずどこかで証明できない命題にぶつかるという事が数学的に証明されています。つまり、演繹法というのは前提というものを仮に設けて論理を展開しますが、その前提が真実ということを言い切ることが難しいわけです。それに、例えば物事の最初の始まりがどうして起こったのかを説明することは演繹法にはできません。例えば、タンポポという花がありますが、タンポポがどのようにして地球上で誕生したのか、地球上で初めて咲いた1本目のタンポポはどのようにして存在することになったのかという始まりを演繹法では迫ることはなかなかできないでしょう。つまり演繹法でも届かない領域はあるということです。

「科学的」は本当に信頼に値するのか?


昨今はありとあらゆる場面で科学的根拠を叫ばれていますが、私は「科学的」が扱える領域というのは限りがあり、特に個人的なことや体験など本質的なもの、始まりのもの、目に見えて表現される以前のもの等にはなかなか届かないのではないかと思っています。

そもそも「科学的」というのが便利な言葉ですが、とても曖昧な表現だと思います。科学的と科学的でないことは境界線がなく、どこからが科学的なのか、どこからが非科学的なのかというのが人によって感じ方、捉え方が違うと思うのです。例えば、1÷2=0.5というのはルールでそう決めてはいるものの、人によってそれで納得できる人もいれば、納得できない人もいます。りんご1個を2つに割ると、実際はちょうど0.5ずつに切れることは滅多になく、0.45と0.55の2つになる場合もあるし、0.3と0.7に分かれてしまうかもしれません。それなのに1÷2を0.5という一つにしてしまうのは真実でも実証的でも科学的でもないと感じる人もいるでしょう。

他にも、例えば地球外生命体がいるのかいないのかという議論においても、実際に遭遇したという人から言えば誰がなんと言おうといるでしょうし事実と感じますが、見たこともない人からすれば、そんなの非科学的で信用できないとなるでしょう。人によっては宇宙には地球のような星が数多くあるので、地球外生命体がいないと考えるのはおかしいと思うでしょうか。「科学的」かどうかには再現性があるかどうかというのも大事な要素と思いますが、地球上で宇宙人に遭遇したという話は枚挙にいとまが無く、再現性というのがどれぐらいあれば科学的なのかというのも曖昧です。地球人のほとんど全員が地球外生命体に遭遇していたとしたら、それは誰もが当たり前のように納得して、科学的根拠があると感じるでしょう。では地球人のうち1/10だけ地球外生命体に遭遇したことがあった場合はどうでしょうか。もし自分が遭遇したとして、それをそのまま「地球外生命体はいたんだ!」と納得する人もいれば、「いや、これは人工的に作られたロボットかもしれない」と思う人までいると思います。地球外生命体のミイラの骨が明らかに地球上の生物と異なっている事を目にして、やっぱりいるんだと思う人もいれば、DNA検査までして初めて納得する人もいるでしょう。つまり、科学的という言葉でも人によって捉え方がかなり異なり、それはどれだけその人が理解・納得でき、腑に落とすことができるかどうかによって「科学的」の定義が異なるというか「科学的度」が異なるように思います。それに科学的であるかどうかというのと、真実や真理であるかどうかというのは全く別のことだと思います。誰かが「これは科学的に証明されていない」と主張しているとすると、それは別の言葉で言うと、単に「私には理解できない」と叫んでいるだけではないかと思います。しかし、それはそれで健全だと思います。自分に理解できないものを、人の言葉を単純に信頼して鵜呑みにしてしまう方が危険で、自分のフィルターを通して理解でき、腑に落ちるまで待てばいいのだと思います。

そして「科学的」というのは思っている以上に客観的なものではないということです。「科学的」の代表のような科学論文においても、研究の結果、「AとBを比較して、Aの方がBよりも何%効果があった」などというエビデンスを持って、Aの方を選ぶ方が科学的に正しいと主張しても、その何%の効果を多いと解釈するのか少ないと解釈するのかは価値観によって左右されるので、必ずしも正しいとは限らないのです。つまり判断をするという段階で必ず受け取る人の価値観が入ってくるので、完全に科学的で客観的で正しいことというのはないと思います。「正しさ」という言葉そのものが誰かの価値観を表している以上、誰にとっても科学的で客観的で正しいなんていうことは理論上あり得ないのです。

本質に触れるには・・・


かつて以心伝心という言葉が実体験として多くの人が共有していた概念だったと思いますが、もはやその言葉が伝説というか幻のようにどんどんと私たちから遠い世界のことに思われる時代になってしまっている気がします。私たちは今や何でも言葉や文章にして出来る限り「科学的に」表現しないと通じ合えない世の中になってしまっていると思います。日本は西洋の国と比較して、いちいち説明しなくても表情や仕草などで通じ合える文化をかつては持っていたと思います。それをハイコンテクスト文化と呼びますが、それがどんどんと失われつつあり、誰かとのコミュニケーションもどんどんと文章や数字、データなどでのやりとりが増えてきているようで、アバターを使ってのコミュニケーションまで登場しています。

しかし私はエビデンスや科学的という客観だけでは、本質に触れる本当の理解はやってこないのではないかと思っています。本質に触れるためには、客観から少しその人の主観に近づくこと、間主観的なアプローチが必要なのだと思います。それについてはまたの機会でより深く考えていけたらと思います。私も医療者としてエビデンスを診療ではとても重視していますが、患者さんの本質に触れること、固有のプロセスを理解することは大事にしたいと思います。

それでは長くなりましたが、最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。


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