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044 いい頭は幻想の中に

無知と博識の差

 時に知識の多さが頭のよさのひとつと言われる。博識といえば、頭がいいという意味を付随する。そこで頭の知識について少し考えてみる。
 まず、量から考えてみる。量のなかでも深さから考えてみる。もう何年も前から学術の一分野の専門家ですら、自分の専門とする論文のすべてを確認できない状況にある。特に世界で広く流行しているものは論文の数が多く、それにただ読めばいいものでもなく、いちいち理解するには相当の時間がいるのである。そんなことをしていたら自分の研究が進まないのである。一分野ですら、それぐらいの知識の量が作られているのである。
 次に広さを考えてみる。学術の数が年々増え、それに伴い専門的な知識もどんどん増えている。そしてそれが、なにも学術だけではない。料理やインテリアなど素人の発する独創的な生活の知識も多くなっている。それに日常生活にいる法律や商品など必要な知識も多くなっている。使われるかどうかは別にしても、これからも知識はどんどん増えていく。それは何らかの記録に残され減ることはない。
 だから、いろいろなことをよく知っている人がいたとしても、それは知識の上澄みの一部でしかない。博識者といっても全知識の中では極少知識なのある。全知識という立場に立てば知識の多い博識の人と知識が少ない無知な人との差は極々少なのである。知識からみれば個人の学びうる知識の大小は瑣末(さまつ)だとういうことである。どの人間をとっても知識が多いなどといえないことは断言できるのである。それは全知識の0.1%ですら把握できないのだから比較すること自体が不毛なのである。換言すれば、どんぐりほど差が無いのである。知機の量では比べられないのである。
 では質の違いがものを言うのだろうか。厳密に言えば、それですら差があまりないのである。まず、根拠の根拠までは、なんらかのデータや理論があっても、そのまた根拠は最新の科学の世界であり、検討中なのであるのである。
 そしてなによりも、科学で示せるのは、仮説とその確率なので、いくら科学を駆使しても、それが必ずそうなることを保障することは原理原則的にいって不可能なのである。それ以前に、それがそれであることすら証明できないことが、すでに哲学や数学で証明されてしまっているのである。そんな中確実に言えるのは、どんな理論であれ、絶対の理論はないということである。そんな不確かなものでは不確かな比較しか出来ないのである。
 結局知識の量も質でも確固たるものさしとして比べることは不可能なのである。なにをどうしても全体の立場に立てば、個別の知識の質量も差異がないどころか、無いに近似するのである。これは無知の知の中の一つである。
 無知といっても名ばかりで何の知識もなく生きるなんてことは不可能であるし、博識といっても名ばかりで博識といえるほどの知識を有するのも不可能なのである。両者にいうほどの差がないのが実態なのである。
 わずかな差がかなり大きく感じるときがある。それは下から上を見ているときである。上から見れば、下とは差などほとんどなく、それが脅威となるのである。ちょっとしたコツの差であり、それは後ろ側にあるからである。

真に頭がいい人はいない

 ここで一旦、頭のいい人がいたとして考えてみる。
 しかし、どのようは方法を用いても、その頭のいい人の頭のすべてを知ることは出来ない。それと比較対照する自分の頭についてもすべてを知ることが出来ない。いやすべてでなくてもいいが、過半を正確に知るのもほとんど不可能なのである。だからどうしても比較対照できない。だから、その人を頭がいいとはいえないのである。
 いやでも、可能性はゼロでない。だから仮に比較できる対象のデータが充分に取れたとしよう。しかし、そのデータの善し悪しを判断するものさしが自分自身のものさしでしか計れない。そのものさしはどうしても個人の主観でしかない。だから、万人に宣言できるほど客観的に頭がいいとは言えない。
 いや、客観的すなわち万人に完全に共通しなくても、自分自身のものさしが万人と、ほぼ似たものさしである可能性もある。だから、仮に比較対照できる頭の質と量を測れ、優劣を付け、頭のいい人が見つかったとしよう。しかし、それは本当の頭のいい人でないのである。
 仮の頭のいい人がいたとしても本当の頭のいい人は見つからない。それは、頭のいい人は、頭のいいと思われることを頭のいい事とは考えないからである。自身が頭がいいと目立ち、他人を嫉妬させるのも、卑屈にさせるのも、畏(かしこ)まらせるのも到底、頭のいい人がやる事とではないからである。その相手からの一方的な距離感が自身のコントロール下にないのを頭がいいとは思えないのである。
 それに、頭のいい人は、頭がいいから馬鹿と区分される人からもよさを学ぶ能力がある人であり、凡人からは馬鹿と見える事柄も自然に身につけているのである。結局は頭のいい人は馬鹿さと賢さの区別をつけないし、付かない人のである。何事についても悪い面は比較的簡単に直感が教えてくれるが、良い面を知るのには少しばかり冷静でいる能力がいるのである。少し注意深く周りを見れば、それに近い雰囲気の人はいるだろうが、決して頭がいいとは悟れまいとしているはずである。「能ある鷹は爪を隠す」同種のことわざは世界各地にある。

いい頭は幻想の中に

 古今東西、多くの賢人がいた。それぞれの賢人は言い方こそ違え、世の中が進歩することに懸念を表している。時には復古の生活を実践した賢人もいるが、その影響力は少なく、それ以降これほどまでに進歩してしまっている。古今東西の賢人の情報を簡単に手に入れられる現在においてなお、これほど進歩是認する人が大勢いるという現状は、これまでに本当の賢人いなかった事を示してしまっている。残念ながら、ある一部の中で頭がよかっただけであり、とても万人に共通するほど頭のよかったといえる人がいないのである。それは、その界隈で少し賢いといったことであり、それは残念ながら大きな視点からみればすべて小賢しいということになってしまうのである。
 その小賢しさを勝手に崇めていてはだめなことである。なぜなら、それは弟子の仕事である。賢人はそんなことを望んでいないのである。また、勝手に下についてはその賢人の持つ本当の凄みを知ることは出来ない。そして賢人のなかでも凄みがある人にはある共通性がある。それは文字を記していないということである。そこに本当の教えであるのである。
 話を戻して、古今東西と範囲を広げて見ても、頭がいい人はいないのは史実なのである。だから「あの人は頭がいい人」という表現は、幻想の中でしか成り立たっていないのである。頭のいい頼れる人はいまだかつて存在せず、今後も存在しないのである。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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