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065 人生わなわな

人生にはわながある。
それは精巧に作られている。
到底わなとは気づかせない。
だからいつの間にかどっぷりはまってしまっているときがある。
そんな時わなわなしてしまう。

何かについて失敗する。
いずれ冷静になり原因を考える。
そうならないように対策を考える。
なんども同じ失敗するのも嫌なのでやり直す。

やり直すのは非常に面倒である。
なんだか非常に馬鹿馬鹿しく感じる。
それにやはり失敗したときの気分も嫌である。
だから事前によく考えるようになる。

いくら想定しても事前にすべてがわかるわけでない。
それでも想定しないころよりも、失敗は減る。
なるべく期待なく、冷静に考えた時の方が結果はいい。
ことをするときよりも事前の準備こそを大事にするようになる。

事前の準備は早いことにこしたことはない。
時間をかければ、他によりよい方法も思いつくときがある。
常に先手をとり、少ない力でことを成すことができる。
効率的に合理的に生きることに向くようになる。

では、どこまで先を考えればいいのか。
考えたくもないが、最期は死である。
死までの過程も普通の常識の範囲で考えれば大体想像がつく。
なんだか人生がわかってしまう。

それなのに多少の達成感を多く得たところでなんなのか。
他人との競争に勝ったところでそんなに喜べるのか。
そんなことを積み重ねてなんなのか。
なんだか人生が一人上手で面倒になってしまう。

人間は存在と同時に社会の恩恵を受ける。
その社会は数多くの問題(病気)を抱えている。
だから一人上手で居ていいはずもない。
なんらかの社会の問題を一つでも無くしたり、減らすことを人間の使命と考える。

数多くある社会問題なかでもまずは自分の関心があるものを解決しようとする。
今までのように事前に徹底して準備をして、あわせて全身全霊を込めてしてみる。
紆余曲折し、多くの人に助けられ、なんとか解決の方向にいくことになる。
だから目の前の社会問題は減っていくようにみえる。

その結果たしかに効力感を得たり、充実したりする気分を味わう。
もっと大きな問題も解けるのではと思い挑戦もする。
そのように進めば、だんだん効力感を得られなくなる。
結局は物足りなさを感じるようになる。

ここまで少なからず、努力をしてきている。
極わずかだろうが少しは社会も良くなっていることだろう。
そこで一旦立ち止まって全体をよく見てみる。
どこをどうひいき目でみても社会が一向によくなっているとは思えないのである。
おいおい、今までの努力はなんだったのか。
どうも努力したほどに不毛ではないか。

対象にした社会がいけなかったのか。
不特定多数相手では自分の存在感を示せないのではないか。
それに相手の存在感を知れやしない。
今度は特定少数が構成員の社会を相手にしようとする。

これまでは、社会問題と言われるものを解決することだけを社会貢献としてきた。
しかし、なんであれ、仕事により収入が得られるならば社会貢献のはずである。
それは、だれかのためになっているからである。
やはり特定少数の自分には特定少数の相手がいいだろう。

確かに不特定多数より特定少数のほうがやりとりが濃くなる。
関係性がつよくなり、相手の存在も自分の存在感も強く感じられる。
しかし、これでも自分を満たすことはない。
いくら他人に喜ばれようが、それにより自分自身を心底喜ばすことはできない。
あたりまえだが自分と他人は違うからである。
それに人にしてもらったことで、心底喜ぶことはないのである。

仮に社会や他人に貢献したとする。
しかしそれが長い目でみてほんとに貢献かどうか断定できない。
社会や他人に貢献する自分の姿をみるために貢献していることは確実である。

特定少数でもだめである。
特定人物にしぼらなくてはならないのである。
ただし社会のなかの人ではだめである。
自分自身のためでなくては、だめなのである。

本当の自分は常に自身の反対側にいるのである。
自分は自身を微笑んで見ているのである。
そうと気づかれるまで。

成長にはなんらかの自己否定が含まれる。
自己否定されれば、はじめ気分が悪くなる。
しかし、その結果、新たな自分と出会うことになる。
新たな視点が、行き詰まった自分を成長させるようでもある。
だから、だんだん自己否定するのも苦にならなくなる。

自己否定であっても、だんだんエスカレートしていくようになる。
ついには人生がいやになるような自己否定に突き当たることになる。
そこには大きな恐怖感が付きまとう。
それを遂げた後では、人格が今まで以上に大きくなった気がする。

ただ人生がいやになる自己否定を二度すれば、自己否定そのものが嫌になる。
自己否定もただの快楽のようになるからである。
そうまでして楽しみたくなくなるのである。
そうして成長としての自己否定を手放すことになる。

「わな」とは元々どういう意味であるか。
「わ」には「我」の意がある。
「な」には「汝(あなた)」の意がある。
だから「わな」のもともとの音意は「我汝」である。

我とあなたの間には縮まらない距離がある。
「わな」とは我とあなたの「間」のことである。
それに、「あなた」とは「万物」のことである。
だから「わな」とは「関係性」のことである。

我と万物との間に距離が見えないとき「わな」にはまっているのである。
一体になれないものが無理に一体になっているのである。

ではそのわなはだれが仕掛けるのか。
先ほどの「な」には「自分」の意もある。
だから「わな」の音意には「我自分」もある。
現代語なら「自分自身」である。
そう、人生にわなを掛けられるのは、唯一自分なのである。

人間はいつでも自己従属しているのである。
また、すべての見立ては自己見立にほかならないのである。

#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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