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『ボヤニアイスクリーム』(1/2)※創作大賞2023

【あらすじ】

 恋人の佐知子と同棲している僕(雄介)の元に、「家が燃えた」と母からの連絡が届く。燃えた家のことを案じた僕は佐知子を助手席に乗せて車を走らせる。飼い犬のコン太は無事なのか? そして母は? 実家は?
 日常と非日常の間で、僕は過去の母と父に間接的に出会うことになる。
 時と場合に関係なくやたらアイスクリームを食べたがる佐知子を助手席に乗せ、僕は何を思い、何をして、何を言うか。



『ボヤニアイスクリーム』

 風呂から出ると、テレビの中で男女が別れ話をしていた。ほんの十数分前には見つめ合ったり抱き合ったりしていた男女が、「あの時の言葉はなんだったの!」などとダイニングテーブルを挟んで罵り合っている。女性が手近にある小物を掴み男性の足もとに投げつけたが、画面上を通り過ぎる残影だけでは何が投げつけられたのか判別できなかった。
 僕の十数分間と、架空の関係性の男女の幾分かの期間。映画でもドラマでもアダルトビデオの前半の小芝居でも、媒体が何であろうが追体験としてリアリティがどんなに高かろうが──作り物の他人の時間をそっくりそのまま相乗りすることはできない。
「ねえ! わたしサーティワンが食べたい」
「あ? 今から? もう閉まってるよ」
「サーティワンが食べたい食べたい!」
「こんな遅くまで空いてないでしょうよ──」
 週末のテレビのロードショーは中盤を過ぎており、スマートフォンで検索すると確かに開いている店はなかった。
「サーティワンは諦めた方がいい」
「むう」
 佐知子の言い分は直ちに通らないことが確定した。そして、通らないワガママだと分かって言っているであろうことも知っている。そんな佐知子に対してか、佐知子の奔放な言動を「閉店」しているという事実で即座に否定した自分に対してか──どちらのせいか分からないが僕は自身の体内でため息をつく。
 どうせCMが終われば佐知子はロードショーの画面に向き直る。付き合って一年も経てば彼女の行動の想像くらいはつくもので、実際、佐知子は僕の想像どおりの行動をとった。
 佐知子がソファーの上で体育座りをすると小さくまとまっていて、ソファーの一角を定位置とされたぬいぐるみみたいなる。肩に触れる程のウェーブのかかった髪がよりぬいぐるみ感を醸し出している。可愛いものだとは思うものの、愛でるためのぬいぐるみとただそこに在る置物のちょうど狭間のような感じがして、注視するほどではない。また、わざわざ感想を言葉にすることもない。

 画面内の男女の関係性に興味を失った僕は、放っておいた洗い物に手を付けることにした。袖を捲りあげ、両手を泡だらけにしたところで、キッチンカウンターの上に置いていたスマートフォンの画面が光る。母から「家が燃えた」と、たったそれだけのメッセージが届いたことが通知される。僕は実家が燃えている様子と、飼っている柴犬の家が燃えている様子をほぼ同時に想像した。スマートフォン上の数文字よりもリアリティのある──もちろん空想にすぎないが──火の粉を飛ばしながら燃える炎の映像が脳の視野を埋める。
「燃えた。家が燃えてるらしい」
「家? 雄介くんの実家のこと?」
「そう、実家。あ、でもこれ過去形だから。燃えてるんじゃなくて、もう鎮火したんだろうか」
「なにそれ、一大事じゃない。洗い物してる場合じゃないでしょう」
「ああ」と返事をしながら、すすいだ手を振りタオルで拭く。
 母に電話して聞くと、燃えたのは犬の家──犬小屋の方だった。僕が高校生だった数年前、実家の裏山から木と竹を切り出して自作したものだ。細い竹の枝を同じ長さに切って、犬小屋の前面に可動式の柵を作ったことを覚えている。庭の端に造った犬小屋は背後の一軒家に比べると小さく見えてしまうが、我ながら力作だったと思う。
 電話口の母は「それがね、あんたも知ってるだろうけど、火の気なんてないはずなのよ。なのにね、コン太がキャンキャンキャンキャン吠えるもんだから何ごとかと思って──あ、ちょうどロードショー見てたんだけどね、不審者かなとか思ったけど──いや、まあこんな田舎で不審者って言ってもねえ、いないだろうけどさ。あんたさ、何か心当たりある?」
 とんだ疑惑のかけ方にうんざりしたので、「コン太にも実家にも恨みはない。それに僕は不審者でもない」と要点だけを説明してから電話を切った。幸い、消火器で対応できたので消防には連絡しなかったらしいが、近隣の住人から通報されているかもしれない。とはいえ、実家のご近所の家々なんて片手一つで数えることができるほどしか存在しない。トラブルというトラブルを起こさないように生活すべき田舎であって、妙な噂が流れるとしたら先に自ら事情を吹聴してまわればよいのだ。まあ、既に実家を出た僕の知ったことではないけれど。

 電話中、最初に確認したのだが犬のコン太は無事だった。
 なぜなら犬小屋は天気がいい日のコン太の昼寝場所になっているくらいで、普段使いや夜の寝床としては全く使用していなかったからだ。可動式の柵はほとんどの時間で開け放たれている。実家の母からすれば、僕がどれだけ苦労して犬小屋を作ったかは知ったことではないらしい。
「サーティワンが食べたい!」
 こちらにも僕の事情など知ったことではない人間が存在した。“家が燃えた”ことについて、僕がひと通りの説明を終えたと見るやいなや、すぐに発せられた発言がサーティワンについての欲求である。
「さっき調べたけど、21時閉店らしいぞ。諦めた方が良い」
「ええー、サーティワン食べたいのにい──」
 僕が佐知子の要望をスルーしたところで、映画の中の男女のように数分後に別れ話をすることにはならないだろう。少なくとも、アイスクリーム店が営業していないのは僕のせいではない。それに、僕は佐知子との関係をある程度は良好だと思っているし、関係を破壊するような言動だってしていないつもりだ。いや、実際のところ内心は分からないけれど──僕は佐知子に対する良い行いを一つずつ思い出し、その数をかぞえながら皿を洗った。皿洗いに夢中だったので、映画の中の男女の結末は知らない。

 翌日、休日だった僕はハンドルを握った。
 実家の小火の原因を突き止めるのは難しいかもしれないが、自身が作った犬小屋が燃えたとなれば気になるもので、一度現場を見ておきたかったのだ。実家の近くにアイスクリーム店は無いが、佐知子は助手席に座っている。
「ねえ、なんで犬なのにコン太って名前なの? なんだかキツネに付ける名前みたい」
「さあな。覚えてるのは死んだじいちゃんが付けたってことだけだな。コン太って呼ぶのが当たり前だから、理由なんて覚えてないよ」
「そう。ゴン太ならなんだか犬っぽいのにね」
 もし僕と佐知子が犬と一緒に暮らすのなら、それらしい名前というのを考えることにしよう。少なくとも、ニャン太とかポン太みたいな名前は避けた方が良さそうだ。いや、ポン太は犬らしいかもしれないが。

 犬小屋には表札らしいものを付けなかった。高校生の僕にとって「コン太」はあくまで呼び名であって、掲げる気にはならなかったのだろう。あるいは表札を付けることによって、アニメの背景の犬小屋みたいに作りものっぽくなるのを避けたかった気もする。
 いずれにしても、コン太の小屋は焼け焦げて真っ黒になっており、表札をつけていたとしても焼け残らなかったと思う。
「やっぱ火事の後って焦げ臭いんだな」
「そうね。これじゃコン太くん昼寝できそうにないね」
「かといって、僕はもう一度コン太の小屋を作ろうとも思わないけどね。あれはあれで大変な作業だったんだ。週末をニ週間分潰した記憶がある」
 焼け焦げて崩落した犬小屋を傍から見ても、出火原因は特定できない。そもそも僕は消防士でも警察官でもないわけで、原因追求のための知識も技術もない。ただ、いくら小火であれ、出火原因が不明な火事は通報しておくべきなのではないかと、適切な後処理について考えた。母は「コン太がこうして寝てるんだからいいのよ」とのんきなことを言っていたが、場合によっては実家もろとも燃えていたかもしれないのだ。
 ただ、焼け焦げて炭になった木材と竹材を見ているだけでは、ちちちぱちぱち、と鳴っていた炎の様子は想像できない。また、消火器で鎮圧する瞬間の母の心情さえも、先程の母のコメントからは想像できなかった。鈍いのか無頓着なのか、あるいは、気にしないよう装っているだけなのか。

 ひとしきり母と話して、家を出てすぐのこと。
「サーティワンはあとでいいから」と佐知子は言い、僕らは交番へと向かった。事件当日の様子を直接見ていないにも関わらず、口頭で説明した。放火が重罪らしいことくらいは知っている。だから、放火された側だという可能性があるにしても嘘はつきたくなかった。そのせいで曖昧な説明が続いてしまい、いやに時間がかかった。警察が知りたいのは事実であって、伝聞や僕らの心情ではないのだ。そのうち母にも連絡が行くだろう。勝手なことをしたかもしれない、とは思ったが、僕は自作の犬小屋が燃えたのだから当然のことをしたまで、といえば正直な対応と言えよう。
「サーティワンが食べたい!」と佐知子は閉店時間が過ぎた車内で繰り返した。


 小火からしばらく経った週末の夜、再び僕のスマートフォンにメッセージが届いた。
「家が燃えてる」との母からの連絡だ。燃えるとすればコン太の家はもう無いのだから、それこそ実家が燃えたのだ。これはただ事ではない、と脳内で危険信号を発する物質が騒いだ。燃え盛る炎を絶望の眼差しで見つめる母とコン太の姿が脳内に浮かぶ。いや待て、緊急事態なら電話でもしてくればいいのに、と発信ボタンをタップした。
「燃えてるの? 家が燃えてるの?」
「う、うう……あ、あ」
「消防には? 言った?」
「ああ……ああああああ」
 背後から近づくサイレンの音が聞こえる。風切音で母の嗚咽が遮られる。会話にならない。
「母さん、待ってて。すぐ行くから──」
 通話を切ったスマートフォンを片手に、部屋着に薄手のパーカーを羽織り財布と鍵をポケットに差し込む。慌ただしく動く僕に佐知子が聞く。
「どうしたの? 何? もしかしてだけど、火事とか?」
「うん。燃えてるらしい。ほんとに。家が」
「え? ちょっと待ってよ。それ怖くない? やっぱりあのときの小火って──」
「分からない。原因はいい。まずは行ったほうが良さそうだ。さっき母さんと電話してたんだけど会話にならないし」
 玄関に向かおうとする僕を佐知子が止める。
「待って! 私も行くから。少しだけ待って」
「いいよ。うちのことだから、僕が行けばいい」
 僕の遠慮の返事を意に介さず、佐知子は小さなバッグだけを提げウォークインクローゼットから出てきた。カーディガンを羽織っているが、起毛素材のため火事現場には近寄らせないようにした方が良さそうだ。
「すまん、行こう」
「ん」
 部屋の灯りを消し、最後にテレビの電源を落とす。画面の中の映画には見知らぬ男女が映り、ダイニングテーブルで食事をしていた。
「卵焼きはね、私のうちでは甘かったの。こんなにしょっぱい卵焼きなんて私初め──」
 台詞の途中で切ったため、女性の発言が喜びから来るものか、あるいはその反対か、僕らには区別がつかなかった。

 燃えたのは風呂場とその隣室のニ部屋分だった。
 片道一時間ほどの間に火の手は消し止められ、鎮火に至っている様子だ。家の周りを防火服の消防士が見回っている。それとパトカーも到着し警察官らしき人もいる。ぱちぱちという音は一切なく、滴る水音しか聞こえないが、鎮火後にも関わらず未だ物々しさが感じられる。おそらく、焦げついた煙の匂いのせいだろう。鼻の奥の細い空洞にこびりつくような嫌な匂いが漂っている。僕らが立っている庭をコン太が駆けていた当時の記憶なんてまるで嘘みたいに。
 改築したときの新しい木の匂いも、コン太の小屋を作ったときの切り出したばかりの竹の匂いも、僕の記憶のすべてが消されてしまいそうな危うい雰囲気を含んだ煙の匂いと光景だ。
「ごめんね、ごめんね」と母は言った。
「何が? とにかく無事だったんだから、謝るのとかそういうのいらないから」と僕は答えた。消防や警察に状況を説明できるほどに母は落ち着いている様子だったが、何度も謝ることをやめなかった。
「いくら遅くなってもいいから、今日はとにかく僕のとこに泊まったらいい」
「いいの。私はいいから。ごめんね」
「母さんが良くても、さすがに僕としては心配すぎるって」
「いいの。私はいいから、あんたと佐知子ちゃんに迷惑をかける気はないから。ごめんねえ、佐知子ちゃんも、ごめんねえ。それに、コン太もいるから。私はここにいなくちゃならないの」
 僕と佐知子のふたり暮らしの家に、母が来ないようにと努めていたのは知っている。しかし、今は緊急事態だ。それくらいのことどうってことない、と佐知子も思っているだろう。
「あの、お義母さん。私達のところが気を遣うようなら、どこか近くの宿にでも泊まったらどうでしょうか。コン太くんがホテルに泊まるのは難しいだろうから、私達が預かりますので」
「でもねえ、コン太は長旅したことないし。まあ、雄介とは仲良かったのはしってるわよ。でもねえ──」
 佐知子の提案は予想していなかった。しかし、僕より冷静で正しい提案かもしれない。それに佐知子と母が変に気を遣い合うのもお互いに疲れるだろう。僕は佐知子の意見に賛同し、火事の後始末の様子を見ながら母を説得した。ひとまず今日は、火事にあった家で母を寝させるという選択肢をどうしても避けた方が良いように感じた。

 母は一週間ほど町の安宿で過ごした。その間、コン太は僕らの家で眠った。落ち着きがない態度が最初の二日間ほど続いたが、犬も疲れというものを感じるのだろうか、夜になるとよく眠った。
「コン太くーん、朝ごはんだよー」
 佐知子がそう言いながらドックフードの保管ケースに近づくと、コン太は駆け寄るようになった。コン太の適応が早いのか佐知子が犬に好かれやすいのか、僕には分からない。週末に実家の片付けを手伝うために僕が家を出る時は「コン太くんと一緒に留守番してるよ、私は大丈夫だから」と佐知子は嫌な雰囲気を一つも出さずにコン太と過ごした。
 出火原因はしばらく経っても判明しなかった。明らかに風呂場近くから発火しているらしいが、リフォームの際に電気温水器を導入した実家の風呂場には火の気がない。確かに昔は薪をくべて焚いていたような古い風呂だったから、風呂焚き用の窯は形を残したままだった。しかし、窯の近くには薪もマッチも置いていないのだ。

 別の週末、コン太と佐知子を連れて、燃えた実家の様子を見に行った。すっかり佐知子に慣れたコン太のリードの端は佐知子が握っている。
「ねえ、コン太くん。お家燃えちゃったんだってさ。ほら、こんなに真っ黒。コン太くん、何も知らないよねー?」
 風呂場の外を回っているとコン太がふいに立ち止まる。リフォーム前、薪を燃やしていた窯の付近だ。鼻先を真っ黒な窯に近づけて「ぷしゅっしゅっ、ぷしゅっ」とクシャミのような咳のような、空気ばかりの声をあげる。
「そりゃ焦げ臭いよな。コン太、無理しなくていいぞ。僕ら人間がこれだけ焦げ臭いんだから、お前は何千倍も何万倍も臭いんだろう。やめとけって」
 僕の声を無視して、コン太は窯の前に執拗に鼻先をつけて離れない。よく考えれば、窯はリフォーム以来使われていないわけで、今回の火事とは異なった匂いがするのかもしれない。だが、出火原因とは無関係に思える。最終的にコン太は窯の前に座り込み、「ここを一歩も動かんぞ」と鋼の意志を見せた。
「そこに何があるってんだよ」
「コン太くん、何してるの? そこ開けてほしいの?──ねえ、雄介くん、これ開かないの?」
 窯の前面は重い金属の扉がになっているが、蝶番が壊れているかもしれないし、固まってしまった炭と煤で動きそうにない。
「たぶん開かないと思う。当分使ってないはずだからね」と、脚先でつついてみた。ガタタッ! という音がして金属の扉が少しだけ浮いて位置がズレる。その音に驚きコン太がひゅっと鼻先を引いた。四つ足を緊張させて立ったまま窯の様子を伺っている。
「雄介くん、これ、開くんじゃない?」
「んー、何かひっかけて引っ張れる道具があれば開けれるかも。つっても、開けたところで何があるわけでもないと思うけど」
 諦めの返事をしつつ、僕は物置を漁りバールを持ってきた。コン太の犬小屋を作るときには必要なかったバールだが、祖父は物置に大量の工具を遺していたらしい。使える道具は探せば出てくるのだ。

 ガゴゴと金属製の蓋がずれ、蝶番からはメリメリと焦げ付いた炭が剥がれ落ちた。窯の中は暗い。光が届かないためか、長年で焼け焦げた炭や煤のせいなのかは分からない。
 コン太は更に鼻を突っ込みたそうにしており、今にもヘッドスライディングで身体まで窯に飛び込みそうな勢いだ。
「ちょ、ちょっとコン太くん!」
 佐知子が強くリードを引き、なんとか踏みとどまらせている。家の周りじゅうが焦げ臭いので、窯の中の匂いとの違いが僕らには分からないが、コン太には分かっているのかもしれない。ただ、焦げ付いた匂いに差があったところで、いずれも燃えてしまった後なのだから何ら新しい発見はないだろう。
 僕は念の為くらいのつもりで、コン太を制し、スマートフォンのライトを点けて窯の中を照らしてみる。
 暗闇の中にライトの光が射して、ちらちらとホコリが揺れる。炭の欠片は不規則に散乱しており、窯の天面まで真っ黒だ。それと──ノートか? プリントの束か? 幾重にも重なった紙が原形を半分とどめて残っている。バールで突付くとほろほろと端から崩れる。
「キャアン!」とコン太が鳴く。
「これがどうかしたのか?」
「コン太くん、何か気になるの?」
 燃えた紙束は全部合わせるとノート数冊分くらいはありそうだ。バールの先で引き出してみる。ざざざ、と摺りながら進む元紙束は徐々に崩れ落ちて小さくなっていく。
 窯の入口まで引き寄せると、ノート数冊と少し程の大きさになった。
「ねえ、それ焼けてないとこあるんじゃない?」
「そんなわけないだろ」
 バールで何度かバンバンと叩いてみると、更に元紙束は小さくなる。中から白いノート地が覗いた。
「ほら、ね?」
「キャン! キャン」とコン太が吠える。犬の目がノート地を捉えているわけではないだろうが、もしかすると何か別の匂いの出現を感じたのか。
「いや、ココホレワンワンじゃないんだから」
 と冗談を言いつつも、僕の頭には疑問が浮かぶだけだった。風呂を焚いて使っていたのは何年前だ? 確かリフォーム以降の四年前以来、窯は使われてないはずだ。いや、しかし消防や警察の現場検証でスルーされるとは思えない。とはいえ、目立たない場所にあるのは確かだし、リフォーム後の窯は外構の飾りのようにも見えなくもないし、実際僕の前に開けられた形跡はないと感じた。重大な見落としか、偶然か必然か。ただ、出火元であるはずの風呂の周辺に燃え残ったものが存在しているという事実は、明らかに火事があったという事実と矛盾している。
「ノート、だよね?」
「たぶんな。少なくとも僕のじゃない。高校生の頃はルーズリーフばっかり使ってたし。ノートはこんなに持ってない」
「じゃあ、お義母さんの?」
「どうだろうな。じいちゃんが日記をつけてたから、じいちゃんも大量にノートを持ってたはずだし」
 しかし、リフォーム前に死んだじいちゃんの遺品の整理は終わっている。おそらくじいちゃんの所有物の可能性は排除していい。父が家を出たのも僕が十歳になる前のことで、父の所有物の可能性も排除される。
 コン太がノートの束を鼻先で掘り返しそうなので、佐知子の持つリードの途中を一緒になって掴んで引き止めた。
「ちょっと母さんに聞いてみるよ」
「ん。コン太くん、行こ」
 見つけた紙束はそのままにして、僕らは一度窯の前を離れた。佐知子と二人でコン太のリードを引いたが、コン太との散歩でこれほど強く抵抗されたことはなかったように思う。

 焼けていない木の匂いと土の匂い。そして、植物から立ち上る湿度を包む木陰の匂い。
 実家とその周辺の裏山は僕の名義になっている。母が相続すれば単純な話だったのだが相続を拒否した。
「僕もどこまでがうちの土地か正直なとこよくわかってないんだよな。ほら、あそこに木の棒とタグがあるだろ?」
「あの黄色いやつ?」
「そう、黄色いテープがついてる杭がうちの土地の境界にぐるっと打ってある、らしい」
「らしいって?」
 裏山の道なき道を歩くのは何年ぶりかも覚えていない。じいちゃんが死ぬ前に「土地を把握するためだ」と案内してもらったが、一度きりだった。それに、山の中を歩いたところで景色はこれといって変わらず、ただただ進んで曲がって進んで曲がってを繰り返すだけで、記憶に残そうとしても覚えておくのは難しいと思う。
「目印がないと山の敷地の様子なんて覚えられるわけないし、その杭も埋まってるやつがあるし。僕の名義になってはいるけど、正直なところ実感がないんだよ」
 見渡しても木々ばかり。不法投棄するような人も来ないくらいの、至って自然的な真っさらな山。僕の少し後ろを付いてくる佐知子の様子を確認すると、きょろきょろと辺りを見回しながら歩を進めている。マンション暮らしだった佐知子にとって、持ち山は珍しいものなのだろう。
「でもおっきいじゃん。なんでもできそう」
「どこがだよ。山には山しかないから。こうやって僕らが入って歩いたところで何もワクワクすることは起こらない。もちろん、サーティワンもないよ」
「んまあ、はっ、ワクワクより、息──あがってきたよ、はあ、ちょっと待って──」
 僕らが山を登る目的は燃え残ったノートを埋めることだった。佐知子が連れてきたがったのでコン太もいる。リードはたわんでおりコン太は佐知子のペースに合わせているらしい。
「とにかく、もう少し奥にしよう」
 踏みしめる地面は枯葉で覆われ、一歩一歩進むたびに足裏が沈み込んで疲れが溜まる。枝があったり妙な窪みがあったりで、足裏の接地の仕方が一歩一歩不規則なのだ。しかし、アスファルトの地面を数千歩あるき続ける方が疲れるに決まってる、山の方がマシだろうと想像することで、僕は足の疲れを覚えることなく歩を進めることができた。

 急斜面は長くは続かない。数メートル登るたびになだらかな斜面がやってくる。長年の自然の摂理によって出来上がった斜面に人為的な要素は全く感じられないのに、僕らを拒んではいないように思える。裏山に面している道路が見えなくなりしばらく歩くと、円形に開けた平坦な木陰にたどり着いた。
「井戸? あれって古井戸じゃない?」
「確かに僕んちには井戸水が引いてあるけど、山に井戸があるなんて聞いたことなかったな。じいちゃんも土地を教えてくれるんなら、何がどこにあるかくらい教えてくれればいいのに」
 円筒状のコンクリートが葉の積もる地面から顔を出している。口は天を向いているが、周りを埋めている地面は斜面になっており、ちょうどちくわを斜め切りで半分にしたような姿の井戸だった。
「ねえ、中から誰か出てくるとかないよね。あれ、えっと、なに子ちゃんだっけ? ショウコちゃん? ウタコちゃん?」
「貞子だな。井戸だから中はよく冷えてるだろうけど、別にサーティワンじゃないから、アイスクリームも出てこないからな」
「ノート埋めたらサーティワン行くの? サーティワン?」
 佐知子の目が輝いたのを見ると、井戸を怖がって貞子の話を出したのではないと分かる。
「あそこにするか。井戸の中に放り投げてしまえば、濡れたノートなんて開けなくなるし。うちの井戸なら誰も調べたりしないだろうしな」
「埋めるんじゃなかったの?」という顔で佐知子が一時停止する。
「ちょっと開けてみるか」
 コンクリートでできた円盤状の蓋は井戸の上面にただ置いてあるだけで、もちろん井戸の蓋に鍵などない。さして重くなく、僕一人が両手で押せば、ずずずとスライドした。コンクリートが擦れる音は山の木々や葉っぱたちに吸収され、深夜に冷蔵庫を一人で開けるような後ろめたさはなかった。自然の割合があまりにも大きいと、人工的な音や物の影響力はこれほどまでに小さくなるのだ。
 足元には石が転がっていなかったので、太めの木の枝を拾い数本に折った。蓋の隙間に耳を近づけたまま枝を井戸の中にバラっと落とすと、壁に数回当たる音が反響した後「ぴちゃ、ぴ」と水音が二回返ってきた。確かめてはみたものの、枯れ井戸であろうが生きている井戸であろうが、もうどちらでもよかった。
「ここなら大丈夫」と僕は目的を達成し、井戸の蓋を元に戻した。コン太はその様子を佐知子の横でただただ見ていた。尾も振らず、鼻先を上げて空気の匂いの動きを確かめるでもなく、持っている視覚の性能を精一杯使っているようだった。
「サーティワンなんにしよっかなー」
「もう考えてるのか? まだ山の中だぞ」
 名峰でもなんでもない裏山の帰り道は方角さえ間違えずに山を降ればよいだけだ。佐知子はコン太と共にすっすと先を行った。僕は短髪にも関わらず、後ろ髪を引かれる思いを感じながらその後を追った。

 集合商業施設の一角で事件は起きた。
「えっ」という佐知子の一言を把握できるまでの間に、ダブルで頼んだアイスクリームは床に落ちていた。しかもアイスクリームの側を下にして。
 店員からお釣りを受け取ろうと右手を差し出した僕は、先に受け取っていたアイスクリームを左手で佐知子に差し出して離した。一年も付き合っていればノールックパスくらい通るだろうと鷹を括っていたが、なんとまあ、この有様だ。
「うわ、床だけじゃない。僕の靴にも半分かかってる」
「だ、大丈夫ですか?」と一人の店員が親切にもカウンターから紙ナプキンを何枚か持って出てきてくれた。周囲からの視線が痛い。佐知子はハンカチで僕の衣服をとんとんと叩きながら、アイスクリームが付着していないか一周り見てくれた。僕は適当に靴をナプキンで拭き、床に落ちたアイスクリームの残骸を拭う。
 ほんの数十秒の慌ただしさのあとで冷静になって気づく。アイスクリームを落としたのは僕と佐知子の連携不足にある。一番の戦犯はノールックパスを出した僕の方だ。
「すみません。同じもの注文します。あ、もちろん順番は後回しでいいので」
「ごめんなさい。私がよそ見してたから。ごめんなさい」
「いや、いい。誰も怒ってないから」
 あれほど勇しく「サーティワンサーティワン」と繰り返していたのが嘘みたいに佐知子の表情の温度は下がっていた。曇天にアイスクリームは似合わない。

 帰りの車内で別れ話になった。アイスクリームが似合わない夕刻の曇天の空の下だった。
 こういった場合、アイスクリームの受け渡しを誤ったのはただのきっかけに過ぎない。大概にして別れ話というのは積もり積もったものが原因のほとんどを占める。もし、アイスクリームを落としたことが別れるための一番の理由だとしたら、そもそも交際自体が正しく成り立っていたかどうかを疑うべきだ。
「で、佐知子はどうしたいわけ? というか、そもそも同棲し始めてまだ半年も経ってないよね」
 車内のオーディオの音量を絞り、信号待ちをしながらシートに深く座り直した。
「どうって、まあそれは別れたら、どちらかが出ていくしかないんじゃないかな」
「まあ、んん。別れるなら一緒に暮らすわけにはいかないだろうね。そりゃあ、家賃や光熱費のことを考えたらルームシェア的な意味では同棲してる方が得だろうけどさ。たしかに今住んでる場所は僕も佐知子も通勤には都合がいいから、ルームシェアを続けるっていうのなら、しばらくはそのままでもいいかもしれないけど。いや、まあ、僕が悪かったのかもしれない。分からないけど、僕が悪かったのかもしれない。実家のこととかさ、佐知子にはまだ関係なかったはずなのに巻き込んでしまって。けど──」
 一気にまくし立てながら、支離滅裂なのは自覚していた。それに青信号で発進すると同時に喋る気が失せてきた。何が「ねえ、私達もう別れたほうがいいと思う」なんだろうか。一方で、原因の話をする前に今後の話をしてしまった自分に失望してしまう。これまでの人生で片手で収まるくらいの女性としか交際したことはないが、僕は毎度毎度振られてばっかりの振られ男なのだ。こうも振られ話が続くと、”振られ慣れ”みたいな妙な癖がついてしまったのかもしれない。
 夕食のメニューを考えながらスーパーにでも寄ろうと思っていたが、何も思いつかなくなった。佐知子もそれ以上何も言わなくなり、ボリュームを下げたままの車内では、流している音楽が誰の曲かすら分からなかった。

 燃えかけた母の日記帳の文章は断片的に読み取ることができた。一日あたりの日記は数行ほどが平均で、長くても一頁を越えている日はない。一点、母のクセなのか別の理由があるのか、日によって文字のスタイルが違うことが気になった。焼けて抜け落ちた文章の上で、字体の違いだけは明らかだった。
“【X月Y日(火)】燃えるゴミの日。二袋分を捨てた。衣替えをしたから一袋分は古着でいっ──”
“【X月Z日(土)】──太は雨が好きらしい。風のせいで雨が横殴りに降っていたけど、散歩の催促がいつもより──”
 こういった日常の記録といえる出来事は、よく見たことのある母の字で書かれていた。小学校の持ち物に名前書きをするような殊更に丁寧な字ではなかったが、読み手が誰であろうが可読性が保証されている。一方、
“【M月N日(木)麓には尖ったささくれがあって──安全に山に火──】”
“【M月O日(日)机の中で薪を燃やせば未来に──肌は焼けていて──】”
“【M月P日(火)──ルカは体温が焼けるように──火傷は怖い】”
 可読性はある。が、字が右上から引っ張られたみたいにつり上がっている。筆跡にはスピード感があり、一画一画を打つテンポが明らかに速いと思われる。母がそのような字を書いていた記憶が僕にはなかった。
 また、可読ではあっても、焼けて抜け落ちた部分を補完する言葉について想像がつかなかった。下手くそな日本語の教科書の例文の一つみたいにデタラメが書かれているように感じる。僕の妄想に過ぎないことは分かっているが、つり上がった文字で書かれた日記の一節は、母の怨みの塊が表出した何かなのではないかと想像してしまった。

 父と暮らした記憶は多くない。が、父と母の関係性についての記憶はある。父が母に怒鳴っている姿は記憶に全くなく、「すまん。わしが全部悪い」と白髪の混ざり始めた頭を軽く下げて謝っている姿が印象に強い。前後の会話の文脈なんてそれこそ記憶に無いのだけれど。
 父は左側の眉毛がなぜか真ん中で二つに割れていて、普段は三つの眉が並んでいるように見える。困惑や畏れから眉の端が斜めに下がっても、八の字にはならない。しかしそれでも申し訳無さそうな表情を作れるのだ。不揃いの三つの眉を使って「わしが全部悪い。わしが全部悪い」と繰り返していた映像は、輪郭がふやけつつも僕の記憶に残っている。そんな時、母はため息をついていただろうか、諦めた表情をしていただろうか、あるいは何事もなかったように表情一つ崩さなかっただろうか。これもまた覚えていないのにも関わらず、叱責、悲鳴、暴力とは無縁だったことは断言できる。僕の記憶の中に惨劇の色は全くの一つも混ざっていないのだ。
 燃え残った日記のことを問いただした僕に、母は「捨てなさい」とだけ言った。溜まった洗濯物を干している最中に声をかけたので、「捨てなさい」と発した瞬間の母の表情は読み取れなかった。しかし、僕は母の声に制限の色を感じた。いつもなら「捨ててしまいなさい」と言うはずだろう。微妙な違いとはいえ、「捨ててしまいなさい」には僕の行為に少しだけ自由度がある気がする。だが、今回の母の「捨てなさい」は強制の色が強い。僕は戸惑うことには戸惑ったものの、従うしかないと感じたのだ。息子だからそう感じたのだろうか。
 とにかく、僕と佐知子と──それとコン太が燃え残った日記を見つけたことは、母からすれば罪が深いことだったのだと自戒させられるような「捨てなさい」の一言だった。


(つづく)

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。