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『ボヤニアイスクリーム』(2/2)※創作大賞2023


 結論から言えば、佐知子も僕もどちらも家を出なかった。別れ話の切れ目を不用意に作ったのは僕だ。にも関わらず、別れ話の再開の仕方が分からなくなったのだ。僕はあの夜、佐知子と意図的に口を利かなかった。
 帰りしなに駅中の弁当屋に寄って「どれにする?」と僕は聞いた。別れ話の切れ目から最初の一言だった。すると、佐知子は指差しだけで応えた。確かに指差しのみで成立するやりとりなのは否定しない。しかし用件はただの用件でしあって、何もそんな不遜な態度をとらなくてもいいのに、といやに腹が立って仕方なかったのだ。
 夕食に会話はなく、ダイニングテーブルで弁当をビニール袋から取り出すガサゴソとした音、クロスしてかけられた輪ゴムを取るビンッという音、割り箸を割る乾いた音、レンコンの煮物を箸の先でつまむ音まで聞こえた。食事が終わるまで繰り返された無言の咀嚼音は、夏の終わりに粘り強く鳴く蝉のように煩くてしかたがなかった。

【A月B日(日)記録として、口にしなかった言葉を文章として残しておくことにする】
 僕は自分の本棚にある真っさらな大学ノートを開き、日記をつけることにした。そうでもしないと、無言の咀嚼音と一緒に飲み込んだ言葉達が僕の喉につっかえて、気管が窮屈にさえ感じてしまいそうな気がしたのだ。家庭内に対立がある状況では、父のように「僕が全部悪い」と言えばいいのだろうか──いや、僕と佐知子のケースでは反面教師とするべきだろう、と僕は謝ることもしなかった。
 そして、いよいよ翌朝まで謝ることも問いただすこともできずに「いってきます」と言ったら、「いってらっしゃい」と佐知子は言った。僕らの同棲状態は一言の挨拶だけをもって維持されることになったのだった。

 以来、夕食は僕が勝手にメニューを決めて二人分作った。夕食の度、何を作っても佐知子は「ん、んーんふー(おいしい)」と口に食物を詰めたまま同じリアクションしかしない。冷蔵庫でよく冷やしたサラダであろうが、調理直後から程よく熱が散った野菜炒めであろうが、佐知子にとっては「んーんふー」なのだ。
 出会った頃に僕が初めて料理を作った時も佐知子は「んーんふー」と言っていた。ただ、おそらく当時は今と違う。口の中に入れてすぐには味なんて分かるはずないのに、感想を言わなきゃという気持ちが先走っていたのだろう。おそらく佐知子の癖のようなものだ。僕はそれを受け入れていた。
 しかし、今となっては佐知子の「んーんふー」が煩わしくて仕方ない。なんとなく義務感のニュアンスの混在を感じずにはいられないのだ。

 以前までは僕が三日分のメニューの選択肢を提示して、佐知子が選んでいた。日によってはメニューを完全に委ねることもあった。
「何か食べたいものある? 僕が作れるものならなんでもいいけど」
「なんでもいい。雄介くんが食べたいのでいいよ」
 と僕に決定権を委ね返す。決まり文句のようではあったが、他意は感じない。
 そんな日はうんと手を抜いて、切り刻んだり煮込んだりする手順のない料理を作った。豚こま肉を焼いて醤油とみりんで味付けし、卵をチンして固めて潰してからマヨネーズとケチャップとからしを加えてタルタルソースを作る。それと、作りおきの浅漬けと乾燥ワカメとネギを放り込んだだけの手抜き味噌汁を用意する。十五分もかからない。
 料理に手を付けて、僕は自画自賛した。
「こりゃうまい。天才かもしれない。いや、まあ天才なのはお手軽料理のレシピを考えた人だけど。作った僕も天才ということで」
「んん、おいしい。天才だよ、雄介くんは天才だもんね」
 佐知子は箸を休めながら言った。明らかにお世辞を言わせているのは分かっていた。ただ、佐知子のお世辞にはほんの少しの真実味が含まれていた。返事までに一呼吸ある時は特に、だ。
「まあ、僕が本当の天才だったら苦労しないんだけどね。与えられたレシピ通りに作ってるだけに過ぎないし」
「たしかにそうかもね。だってさ、雄介くん煮物作るときずっと鍋見張ってるでしょ。急に火が出るわけじゃないんだから。天才なら茹で加減なんて感覚で分かりそうだし、離れてても大丈夫だと思うんだけどな」
「あれは、なんかその、次の瞬間には吹きこぼれるんじゃないかって不安で仕方ないんだよ。火加減ってよく分からないんだ」
 自称天才を咎められ、不服の表情の置き場所が食卓の上を彷徨う。佐知子は僕が困っていると嬉しそうに、リズムよく次の箸を進めた。
 ただ、あくまでもこれは僕の記憶の中の出来事で、ここ数日の静かな食事と同じダイニングテーブルの上で起こった出来事なのだ、と言っても説得力に欠ける光景だろう。

【A月C日(木)日記をつけ始めて数日経ったが、もう書くことがなくなった。相変わらず僕の生活には佐知子がいて、この事実を僕は良いこととも悪いこととも捉えられない。そもそも良い悪いで判断する範疇にないような気さえしてくる。危険性も事件性もないのだから。
 まるで父と母の関係のようだ……なんて、冗談にはならない想像をしてしまう。それならば、いっそのこと母の日記のように狂気じみた文章を書くほどの精神状態になってみたい気もする。いや、母の日記はあくまで日記でしかなく、離婚時の母の心情は僕にはまったく想像できない。ただ単に、母が母の中で溜め込んだものを起点にしたに過ぎない離婚であって、母が狂っていたかどうかとは別のことなのではないかと思う。
 一方で、婿入りしていた父の心情もまったく分からない。僕が小学校に通っているうちは離婚後も月一で会っていたが、核心に触れる会話をした記憶がないからだ。僕が思春期に差し掛かってからは、どうしてか会っても話してもいない。
 僕と佐知子は結婚を前提に同棲を始めた。まだ婚姻届を提出してはいないし、予定も未定だった。その佐知子と相変わらず一緒に暮らしている。暮らすとは生活するということ。別れ話をした相手と僕は生活している】

「雄介、それじゃ火は点かないよ。まずは新聞紙をふんわり丸めるんだ」
「新聞紙? 木じゃなくて?」
 父と火遊びをした記憶がある。祖父母も母も不在の週末のことだった。
 実家には駐車場が二ヶ所あって、母屋の脇に二台分と、離れの更に隣にある物置小屋の側にもう一台分。後者の駐車場は人目につかない。遅い時間の昼寝から目覚めた僕を連れて、父は特殊部隊みたいに手際よく火遊びの準備をした。
 しゃがんで木を組んでいく父が三つの眉を寄せながら説明する姿は、火遊びが秘密の遊びであることを一層強調しているように見えた。
「新聞紙はよく燃える。あとは乾燥した松の葉とか小枝があればいい」
「松ってトゲトゲの?」
「そうだ。乾燥したやつだから、トゲトゲが茶色くなってるやつにするんだぞ」
「あ! 庭の端っこに落ちてるやつだ!」
 父に言われたとおりに僕は火遊びの材料を家の周りから集めた。新聞紙が無ければ、使い終わったラクガキ帳のはし切れでもいいらしい。
「もう一つ雄介に大事なことを教えておく。火遊びは人目につかない所で、誰にも見つからないようにやることだ。見つからないのなら駄目だったテストを燃やしてもいいぞ」
 零点のテストなんてアニメでしか見たことがない。それどころか、僕は九十点以下のテストの答案を持っている自分の姿を想像することができず、少しだけ不遜な態度をとってしまった。しかし、父がマッチを渡してくれた時は、たったその事実だけで嬉しくなったことを覚えている。男としてか、人としてか分からないけれど、とにかく一人前だと認められた気分に僕はなったのだ。
「ごほっ、えほっ。ねえ父ちゃん! なんで僕の方にだけ煙がくるの?」
「ははは。そりゃ雄介の日頃の行いだな」
「行い?」
 目に入った煙は指でこすっても掻き出せない。涙目になりながら、僕はどっしりとしゃがんで火に向かい合う父を見た。
「“行い”はな、ワガママを言ったりちゃんと謝らなかったりすると、雄介の中に溜まっていく穢れみたいなもんだよ。煙は穢れを祓ってくれてるんだ」
「ケガレ?」
「ああー、まあ、ゴミみたいなもんだ」
 父は足元の小枝を割って焚き火に投げ入れた。炎がとても近くにあるのに、父が腕を上から振ったせいで火の粉が散る。
「ふうん。ゴミか。ゴミなら燃やせばいいね!」
 僕は父の言った「煙が祓ってくれる」とは完全にズレた理解をしていたが、当時の僕には父の言葉を理解することなんてどうでもよかったのだ。「いいぞ、もっとやれ」と声をかける父に煽てられ、集めた木々を次々に放り込んでいた。
 一連の火遊びの中で、父が左側の眉を切ったのはちょうど僕くらいの歳の事だったと教えてくれた。火遊びの時に熱く熱く燃えた何かの破片が飛んできた、と。「あの時は目が焼けて燃えてしまったかと思ったね」なんて笑っているが、一歩間違えたら父は目を一つ失っていたのかもしれない。
 以来、眉を二つに切断した傷跡からは毛が全く生えず、三つの眉になってずっとそのままらしい。
「父さんにはいつか三つめの目ができるかもしれない。この眉毛みたいに、ぴったり真ん中から割れてね」
「怖いよそんなの! 目は二つで十分だよ」
「ははは、もし三つめの目ができたら、雄介に一つ譲ってやろう」
 父は左手で瞳の上をぐしゃりと撫で、目玉を取り出すフリをした。僕は怖くなって、父が差し出した左手が開かれる様子を直視することができなかった。
 父との火遊びの記憶はそこまでで、火の後始末をした映像が僕の中には全く残っていない。ほどなくして、父は離婚して家を去って行った。


「いってきます」と言うと「いってらっしゃい」と返ってくる。「いただきます」と食べ始めたら「ごちそうさま」と言って席を離れる。
 別れ話をしてから二回目の週末、僕が「おはよう」と言うと「おはよう」と返ってきたので、佐知子を連れて出かけた。
「サーティワンじゃないけど、セブンティーンでいいか?」
「ん、いい」
 赦されたわけではないだろう。そもそも僕には赦されなければならないことがあるのだろうか。僕は父のように問答無用な謝罪はしなかった。ハンドルを握り、法律のことについて考えた。
 昨夜調べた限りでは、火事に発展するような焚火や、火事と誤認する恐れのある焚火をする場合には届け出をしておく方が良いらしい。
「佐知子はチャッカマンって知ってる?」
「たぶん」
「マッチじゃなくてチャッカマンな。マッチョマンでもなくて、チャッカマン」
「ん」
 点火器具のことなんてどうでもよかった。なんとなくふざけたかっただけだ。佐知子にはあまり響かなかったようで僕は口をつぐんだ。すると、道路の継ぎ目をタイヤが乗り越えて衝撃をいなす音が「マッチョマン、チャッカマン、マッチョマン、チャッカマン」と代弁し、僕はなんだか煽られているように感じた。
 佐知子が言う。
「オオイヌノフグリって知ってる?」
「知ってる」
「タチイヌノフグリじゃなくてオオイヌノフグリね。オオバコ科クワガタソウ属」
「んん、そこまでは知らない」
 過ぎてゆく道路の継ぎ目を眺めて目を正面に向けたまま佐知子は続ける。
「犬のキンタマ」
「なんで体言止めするんだよ。答えに困るんだけど」
「私ね、猫派なの」
「えっ──」
 知らなかった。佐知子が猫派だなんて。ペット不可のマンションで育ったので「文鳥しか飼ったことないの」と言っていた記憶はある。しかし、猫派だと断定して言われたのは初めてだった。
 道路の継ぎ目が「マッチョマン、チャッカマン」と煩い。
「だって言ってなかったもん。ホントはね、猫と暮らしてみたかったの、ずっと。あ、でもね、コン太くんと暮らすのはイヤじゃなかったよ。別に犬は嫌いなわけじゃないし、犬と暮らしてる人のことを否定してるわけじゃないの」
「まあ、犬が嫌いじゃないことくらい見てたら分かったけど。コン太の散歩にも行ってくれたしな」
「ん。でもね、ただ私は猫と暮らしてみたかったの、ずっと。それだけ」
 佐知子の告白はそこで終わった。僕は実家に向かっている車を方向転換させ、ペットショップに走るべきかと逡巡したが、マッチョマンとチャッカマンのリズムに邪魔されて行動には移せなかった。

 母は畑の草取りをしており、農作業をするための腕抜きと麦わら帽子を装備していた。実家の田畑は八割方が使われておらず、母が趣味で何種類かの野菜を育てている一枚の畑と、あとはコン太が駆けるために草取りを続けている畑が一枚ある。
「あら、時間ぴったりじゃない。混んでなかった?」
「混んでても混んでなくても、間に合うように早めに出てるから」
「コン太は中で寝てるから、相手でもしてやって」
 僕が母の言ったとおりに日記を処分したかどうかについては確認されなかった。信頼されているのか無頓着なのか判断がつかない。ただ、家の周りをコン太と歩いていても、時折鼻先をスンスンと建物や草むらに向けるくらいだ。キャンキャン鳴き続けたり、一定の場所に執着して居座ることはなかった。この家から特殊な匂いは確実に消失している証拠と言えよう。
 その後、裏山に続く脇道を通り、家の裏側をぐるりと周回して表側に出てくる散歩ルートを一周したが、コン太は佐知子にリードを引かれ終始ご機嫌そうだった。
「少しだけおやつあげよっか」
 玄関前まで戻ってきて佐知子が言うと、「おやつ」という単語を聞き分けて理解しているのか、コン太は伏せて佐知子の顔を見上げながら尻尾を振った。
「おやつだってよ。佐知はおやつくれる人だもんな」
「他にも散歩したりご飯もあげたからね」
 散歩の後は冷えた玄関の床で寝るのが習慣になっており、僕はコン太の首輪からリードのフックを外した。案の定、佐知子から与えられたおやつをひと息に食べたあとはリラックスモードに入った。
「夕飯の買いもの行ってくるけど、あんた達晩御飯は?」
「ああ、まあ都合が悪くないなら食べて帰ろうと思う」
「そう。適当なものでいいなら作るから、食べていきなさい」
 母は言い残すと、軽自動車のエンジンをけたたましくふかして出ていった。燃焼の後の廃棄ガスが庭に漂い僕の鼻を掠めたが、数をかぞえる間もなくすぐに風に流されて拡散した。

 物置を探り手に入れたチャッカマンにはガスが残っており、レバーを二回目ほど引くときちんと火がつく事が確認できた。僕は小さな炎を手に入れ、佐知子に問う。
「さて、僕は何をしに佐知を実家に連れてきたと思う?」
「さあね、なんでだろう。私には分からない」
「燃やすためだよ」
 僕はチャッカマンの引き金をカチカチと鳴らし、小さな炎を明滅させてみせた。
「燃やす? ちょっと、雄介くん。冗談でも今それは言っちゃだめな気がするけどな」
「それは佐知が正しい。ごもっとも。とはいえ、まずは燃やすものを集めよう。大した量じゃなくていい。ほんの小さな小火を起こすくらいでいいから」
 佐知子を率いて材料を集めた。父の言ったとおりに乾いた松の葉も拾った。それと、持参した僕の日記帳だ。数ページをまとめて破り、ふんわりと丸める。
「ほら、佐知も」
「これ破っていいの? 雄介くんがせっかく書いた日記なのに」
「僕の日記だから、僕が破っていいと言ってるんだから破ればいいんだよ」
 佐知子は僕に視線だけで最後の確認をし、数ページをまとめて引っ張った。ビンッと紙が張り詰めただけで破れない。
「硬い。無理だよこんなの」
「いやいや、そりゃ上か下かどっちかに倒しながら破りなよ」
「あっ」と納得してから、佐知子は数個の紙の塊を作った。途中で手は止まらなかったので、おそらく日記の内容は読んでいないのだろう。興味がなくて読まなかったのか、興味はあるがあえて読まなかったのかは分からない。どうせ僕自身だって一度も読み返していないし、どこに何を書いたかも覚えていないのだ。それに、どのみち見られたところで遮る気はなかった。
 いずれにしろ燃やしてしまう日記に対して僕は諦めていた。日記の内容を知られようが知られまいが、佐知子は書いてあることの意味を理解してしまう気がしていたのだ。
 駐車場のコンクリートの上に木を組み上げれば、あとは点火すればいい。
「火遊びしたことある?」
「私? んー、たぶん無いと思う」
 佐知子は僕の言うとおりに手を止めることなく木材を組んだ。しかし、経験から来る手際の良さではなかったらしい。
「火をつけたことは?」
「ない」
「マッチを使ったことは?」
「たぶん、ない」
「チャッカマンは?」
「ない、と思う。あったとしても記憶にはないから、忘れてるんだと思うよ」
 いくらマンション育ちだろうと火遊びくらい──いや、僕が田舎育ち過ぎなのかもしれない。つまり、火の性質や怖さを体感で知らないのだ。だとすると、消化後のコン太の小屋や実家を見たところで、小火の原因なんて佐知子には分かるはずがないだろう。

 チャッカマンを手渡すと佐知子は僕がやっていたとおりに指を引いた。しかし、ストロークが遅く火がつかない。
「もっと思い切っていい。パチっと火花を飛ばすくらいの勢いで」
 アドバイスになってはいなかったが、何度目かでコツをつかんだらしい。
「紙のとこに火をつけたらいいの?」
「そう。下から火を差し入れて」
「ん」
 佐知子の返事から数秒の間に、炎は紙から乾いた松に、松から細い木々に燃え移った。そのスピードは父との火遊びで記憶していた火の動きよりも速かった。
 青い炎は一切なくオレンジ色に燃え上がる。不規則に揺れてうねる炎はコンクリートに映る陰と寸分の狂いもなく息を合わせて踊る。一方で、ぱちぱちという音と、するすると立ち上る煙にはなぜだか因果関係がないのではないかという思考が僕の頭に浮かんだ。もし、小火の発生原因がチャッカマンではないのなら、コン太と母は救われるのだろう。
 僕の思考とは違う位置にいる佐知子は初めての火遊びの感想を率直に述べる。焚火との距離を維持して立ったままだ。
「火って怖いね。こんなのすぐに全部燃えちゃうじゃん」
「んん。だから、コン太の家も実家も、小火で済んだのが奇跡みたいなものなのかもしれないな。二回も連続で全てを焼かずに済んだんだから」
「一回目はコン太くんが見つけたんだよね? それなら、二回目の小火もコン太くんが気づいたのかな?」
「どうだろう。僕は聞いてないけど」
「んー、結局原因も分からないし、わからないことってわからないままなのかな」
 僕が言葉を返す前に、佐知子が盛大にむせた。
「えほっ、ごほっ、えほっ。ちょっと! なんでこっちにばっかり煙が来るの!? えほっ」
「それは佐知の日頃の行いだよ」
 返しが適切ではないと分かっていって僕は言った。確かに煙の量は増え続けており、佐知子の黒髪の間を通り抜けている。おそらく匂いも移ってしまっているだろう。
 すべての小枝に火が回り火の粉が飛びはじめ、そのうちの一つが佐知子の手の甲かどこかに当たる。「熱っ」という佐知子の一言を合図に僕は火遊びをやめることにした。
「そろそろ消すか」
「どうやって消すの?」
「そうか。佐知子は火遊びしたことないんだもんな。じゃあ、僕は消さない。佐知子がやりなよ」
「えっ、私わかんないよ」
 会話の間にも火の粉は飛び続けている。
「実は僕もわからないんだ。いや、わからないっていうか覚えてない。父さんと火遊びをしてた覚えはあるんだけど、消すときの記憶がまるでないんだよ。だから、何も準備してない」
「ちょっと! 雄介くんがやろうって言ったんでしょ? それこそまた家に燃え移ったりしたらどうするの?」
 佐知子は火を見下ろし、僕を見上げ、また火を見下ろした。僕は一歩も動かずに言う。
「アイスクリームでもかけてみたら? アイスクリームを買ってくるのが早いか、家が燃えるのが早いか、試してみる? 運転は僕がするから」
「ふざけないでよ、もう。雄介くん、今日は冗談が過ぎるんじゃない?」
 怪訝そうな表情で言葉を吐きながら、佐知子は火からも僕からも目線を切った。横顔しか見えなかったが、たった半分しか見えないの顔の筋肉の動きから、両眉の端を下げたしかめっ面が想像できた。僕は黙って火から遠ざかり、駐車場を離れた。

 小屋の脇の水道に繋いであるホースを伸ばし、駐車場まで引いた。予め蛇口を捻っておいたので、ホースの先端のシャワー口を「開」に回すと勢い良く水が出た。
「もう、驚かせないでよ」
 ひとしきり水をかけて消火を終える頃には佐知子の眉は元の位置に戻っていた。
「おいてかれると思った?」
「思った」
「じゃあ、なんで追いかけてこなかったの?」
「わかんない。なんとなく」
 信頼か、当惑か、焦燥か、困惑か、あるいは別の迷いか。いずれかの理由で佐知子は火の前に留まった。消化後の煙の匂いはすぐに風が連れ去り、畑と夕暮れの冷めた匂いが辺りを包んだ。
 母が買い物から帰宅する前に、畑に火遊びの残骸を埋めた。その中には僕の日記の燃えかすも混ざっていたはずだったが、原形はまったく留めていなかった。
 処理を終えて家に戻ると玄関の上がりたてにコン太が突っ伏しており、鼻先の一つも動かさない。両前足をだらんと伸ばし、肉球をフローリングに付けている。どうやら深く眠っていたらしい。

 母の作ってくれた夕食を囲んでいる際、佐知子は終始上機嫌に見えた。日頃作りもしない味噌汁の味付け方法を聞いてみたり、僕がピーマンをどうやって好きになったかを母から聞き出した。よほど上機嫌なのか笑いながら頭をひょこひょこと動かすので、肩口でくるんと跳ねた髪がヒヨコの尾のようにぴょこぴょこと向きを変えた。
「ねえ! 私、サーティワンが食べたい」
 母がトイレに立ってから佐知子が言った。
「じゃあ、今から出ようか」
 僕はすぐに腰を上げた。コン太に「また来るからな」と告げ、頭を三往復だけ撫でる。コン太は尾を振って答えた。
「たぶんね、小火の原因はコン太くんが知ってるんじゃないかな。なんとなくだけど、私はそう思うの」
「コン太が知っているとして、彼は人間の言葉を喋れないからな」
 深夜の誰もいない道の駅の駐車場で、シートを最大限に倒す。足が宙ぶらりんになって眠れそうにない。佐知子は眠気を堪える様子もなく話し続けた。
 僕らの住んでいる家で、朝聞く鳥の囀りはヒヨドリの鳴き声であること。佐知子の実家のマンションはIHヒーターであり、やかんで湯を沸かしたあとに指先を火傷した経験があること。
「あとね、私、雄介くんと別れ話、してみたかったの」
「は? じゃあ、あれは僕を試してたってこと?」
 佐知子は仰向けでフロントガラス越しに空を見ている。ガラス一枚を隔てるだけでも遮蔽物なのは確かだ。大した星は見えないだろう。
「んーん。試すとかそういうんじゃないの。ただ、別れ話がしてみたかった。それだけ」
 それだけ、のことが僕ら二人にとって大事な話であるはずなのだが佐知子は感情を込めず淡々と続けた。
「だってさ、雄介くんはさ、振られ慣れしてるみたいなこと言ってたじゃん。だからね、どのくらい慣れてるのかなって、なんとなく思ったの。悪い意味じゃないよ? 悪い意味じゃないし、私も悪いことをしようと思って言ったんじゃないの。だけど、うん、やっぱり、悪かったとは思ってる」
「んん。じゃあさ、関係ない質問を一つしよう」
「なに?」
「今日のカラ元気はなんだったの?」
「ふふっ、気づいてた?」
 衣擦れの音。
「そりゃね。母さんはどう思ったか分からないけど、あれはカラ元気だね。だからといって、僕は佐知のこと全てをお見通しだ、とは言えないけどね」
「ん」
 佐知子としては僕らの関係に事件性がないことが事件だったのだろうか。いや、おそらく違う。わざわざ別れ話をして事件を起こそうとしたのではないと僕は思う。
 コン太の小屋と実家の小火みたいに出火原因が特定できないような──原因が断定できないからこそ可能性として自然発火を排除できないような──それでいて一番の被害者であるはずのコン太や母が追求する気が起きない事件のような──

 辺りが白んできても、ぼんやりした意識では夜明けなのか日暮れなのか理解するのに時間がかかる。どこまで話して眠りについたのか覚えてない。佐知子は助手席のシートの下に脱いだ靴を転がしており、こちらを向いて膝を抱えたままブランケットを肩まで巻いていた。僕の腹部にはブランケットより一回り小さな膝掛けが知らぬ間に掛かっている。早朝の車中は二人分の身体で湿度が高く、その湿度で丸められた空気の匂いに朝日の香りが混ざっている。
「おはよう」
「ん、おはよう」
「サーティワンが食べたい?」
「ん」
 佐知子は目をこすりながら曖昧な返事だけして、天を向く。
「わかった。それならペットショップを襲撃しに行こうか」
「え?」
「燃やしたりしないよ。襲撃しにいくだけだ。僕だって猫と暮らしたかった。猫派だからね」
「えっ?」
 笑い合うでもなく僕らは停止した。佐知子が驚いている様子はない。僕自身だって驚かせるつもりもなかった。
「雄介くんと犬と猫の話ししたことってあったっけ?」
「あった」
「じゃあなんで私達は今頃になって猫派だなんて確認し合ったの?」
「わからない。わからないけど、猫派だって言う雰囲気になったことが一回もなかったのかもしれないし、わざわざ何派だなんて言うことに僕らは重きを置いてなかったんだと思う。あるいは、問題だと思っていなかったから問題提起をしなかったのかもしれない」
「一年以上も? 一回もそんなタイミングなかった? だとしても、私だって、犬派だ猫派だなんてことを問題提起したつもりはないけど」
 僕の中でも問題ではない。だから、提起もしていない。宣言しただけだろう。朝の鳥たちが囀り始めた爽やかさからして、何派であるかなんて問題ですらないことは明らかな気がした。
「まずは、ペットショップを襲撃しよう。それから日記を燃やしたことを思いながら車を走らせる。そして、アイスクリームは落とさないようにして、二人ともきちんと最後まで食べる。それから、家に帰ろう」
「大事件な一日になりそうだね」
 佐知子は目が覚めてきたようで、ブランケットから肩を出した。
「もう一ついいかな」
「なに?」
「僕達、そろそろ結婚した方がいいと思うんだ」
 運転席と助手席。一晩過ごしてしまえば、名称と位置関係は曖昧になる。佐知子は横になったまま僕を見上げる。
「それ、試してるの?」
「佐知と結婚の話がしてみたかったんだ」
 眉は並んだままだ。
「ねえ、やっぱり私を試してるの?」
「いや、試してないし、やっぱり撤回する。冗談を言って悪かった」
「撤回までが早いんだね」
 寝起きなのに僕の意識ははっきりとしている。鳥たちの囀りは耳からは消えた。
「申し訳ない、僕が悪かった。さっきの言葉は撤回する。ただ、僕と結婚して欲しい。そろそろじゃなくて、僕と結婚して欲しい」
 佐知子の返事まで、そう時間はかからなかったはずだ。助手席の窓の向こう側で朝焼けの空に飛行機雲が走る。僕らが道の駅に面した道路に向けて右折する頃には、飛行機雲は青い空に溶けてなくなっていた。



(おしまい)

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。