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『手のひらの 唇の脇の 手の甲の』(3/12)

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前のお話

 シャワーを浴び、トランクスだけを履いて、脱ぎ捨てた衣服を整理する。ホテルの部屋で過ごす時間はさほど長くないため、明日のシャツとネクタイをハンガーにかけ、買っておいたミネラルウォーターで乾いていた唇と喉を潤す。
 ブブブッと震える携帯を充電しつつ、適当に寝間着を着てからノートPCを開く。
 数件の連絡が入っており、携帯でのメッセージとノートPCでのメール返信と、どの連絡を優先とも考えず、反射的に返していく。
“今日は石川県。昼は回転寿司だった”
“お世話になっております。お問い合わせいただいた説明会資料の件ですが――”
“出張先に? いないいない”
“添付資料を拝見しました。内容確認したところ――”
“北陸ならカニかな。けど、解禁日はもっと先だから――”
 メッセージを入力している最中の携帯画面が、着信画面に切り替わる。日付は変わっており、翌日が仕事であろうが寝ていない人間は多くいるらしい。
「狭山さん、あの、ごめんなさい」
「なにが?」
「電話して、ごめんなさい」
「電話は構わないけど、寝ろよ」
「無理です」
「いや、寝ろよ。明日は八時には出るって言ったと思うんだけど」
 仕事中のトーンで伝えると、電話の向こうで、溜息なのか呼吸なのか把握できない程度に「はあ」というミコの声が聞こえた。僕の言葉は社会通念上正しい方であったのに、なぜか間違った受け答えをしている気分になった。
「私無理かもしれません」
「なにが?」
「寝ません」
「寝ませんじゃなくて、寝れないんじゃないのか? 彼氏と電話しながら寝ればいいだろう?」
「いません」
「彼氏はいるって言ってたじゃないか」
「いますけど、いません」
 ミコが正確な返事をしないのは、電話を長引かせるためだと分かる。何が理由で、会社の上司にまで愛想をふりまこうとしているのだろうか。いや、ある意味では、働きやすくするための手段と考えられなくもないが。
「彼氏はいてもいなくてもいい。例えば、彼氏がまだ仕事中なら、長文のメッセージでも書いて送っておけばいいじゃないか。僕はそろそろ寝るから」
 強制的に切ると、明日の朝以降の車内の空気がめんどくさくなりそうだった。
 僕は携帯を開いたままPCに向き直る。数件残っていたメールに目を通し、必要に応じて返信する。画面に現れる文字を追っている間は、別のことは考えない。
 また、返信の文章をタイプしている最中は、できるだけ脳内の言葉とタイプに時差が無いように集中する。かしこまった文章を書く場合でも、口語的に違和感のない範疇で返しておく。こうしておけば、事務連絡を正確に済ませつつ、要件があれば気兼ねなく連絡が貰えるような関係性を維持できる。

 ビジネスホテルの一室に、打鍵音だけが響く。
 スピーカーに切り替えた携帯から、ミコの寝息は聞こえてこない。
 僕がノートPCを閉じたのを察してから、寝息でなく、言葉が発せられる。
「狭山さん、知ってました?」
「何かを説明される前から〈知っている〉と答える人間は馬鹿だ。そして、僕は特に知っていることが多いわけじゃない。だから、おそらく、僕の知らないことなんだろう」
「じゃあ、教えてあげますね。私、調べたんです。暇だったから」
「何を?」
「あの、今日見せてくれたじゃないですか?」
「だから、何をだ」
 こうも回りくどく話す必要は無い。先程から、ミコの目的は一貫している。僕と電話を繋いでいても、大したメリットなどないというのに。
「ほくろです。調べたんですよ。狭山さんのほくろのこと」
「ああ。手のひらのほくろのこと?」
「そうなんです。あの、私確かめたいんで、もう一度見せてもらっても良いですか?」

 僕が肯定の返事をして数十秒も経たない間に、乾いたノックの音が廊下に響いた。だるい足を動かしドアを開けると、日中よりウェーブが緩くなった髪のミコが立っている。まっ黒のスウェット姿で上司の部屋を訪ねてくるミコは、一歩間違えば右手にクマのぬいぐるみを持っていそうなくらい幼く見えた。
「入るのか?」
「ちょっとそこまで。だって、こんな格好誰かに見られたら、恥ずかしいじゃないですか」
 失礼なのか、無防備なのか、あざといのか、もはや分からない。ミコの目的は、明らかに僕の手のひらにはないだろう。
 廊下に音が響かないようにドアを閉め、僕は手のひらをミコに差し出す。
「で、このほくろがどうかしたか?」
「あ、えっとね、私調べたんですよ。ほんとに、調べたんです。えっと、ちょっと、ぐーしてください」
「こうか?」
 僕は何も考えずミコの言葉に従い、空の手のひらを握りしめる。
 僕より頭ひとつぶん背が低いミコは、僕の手のひらに潜り込むように下から確認する。見上げてきたミコの顔が、唇の脇のほくろのせいで、もの欲しそうな表情に見えてしまう。
「あー」
「おい。何だ、その反応は」
「なんか、おしいです。届いてないんですね」
「届く?」
「そうです。手のひらにほくろがある人は、ぐーってした時にほくろを握れると、幸せを掴めるんですって」
 期待に添えなかった握りこぶしを確認してみる。確かに、握りからはみ出した生命線の横に、ほくろが鎮座していた。
「満足したか?」
「寝れません」
「題意が変わってるぞ」
「寝れません」
 こっちが溜息をついてやろうかと思った。
 明日も早いが、どうもこのままでは埒があかない。ミコがどう思うかは知らないが、僕はこういうときのために、「チャラい」と同僚から言われることに対して、否定をしていない。
 事実、僕はそういう男だ。
「言っておくぞ。僕は君と寝ない。もし、同じベッドで寝たいのであれば、僕は抱くと思う。というか、抱く。僕はそういう男だ。周りの人から聞いてよく知ってるだろう?」
「知らないで来てるわけないじゃないですか」
「彼氏は?」
「いますけど、いません」
 この質問に対しては、ミコの中で答えが一貫しているようだ。
「結論から聞く。どうして欲しいんだ?」
「一緒に寝てください」
 馬鹿正直な発言を、よくもこうまで簡単に。ただ、ミコの目は、発言と同様に、確かに僕を馬鹿正直に捉えている。
「さっきも言ったが、僕は抱くぞ」
「ん」
「抱かれる理由が、寝れないから、でいいのか?」
「もういいです! ここまで勇気を出してきてのに! そうやって言われることも分かってたけど、もういいです」なんて言い出すかと思った。
 しかし、実際のミコは逆上するどころか、「私、すごくエッチなんです」と言った。
「もういいから」と言ったのは僕の方で、「明日の準備ができてるならいい。寝るぞ」と伝えると、ミコはまっすぐベッドに向かった。

 スウェットの下で、ミコの肌が揺れ、布に擦れ、シーツの中で丸くなる。頭を撫でて欲しいと言うので、僕は拒否しなかった。
 それだけで、勃起するのには十分だった。
 ベッドの中で、ミコを背後から抱き、勃起したまま服越しに当てると、ミコも呼応するように尻をくねくねと突き出してくる。
「狭山さん、あのね。私ね」
「なんだ」
「えっとね、私ね、すぐ濡れちゃうんです」
「それはまだ知らない。だけど、好きにすればいい」 
 ミコは僕の言葉を聞くなり、身体の向きを変え、口付けしてきた。アルコールとシャンプーの匂いが混ざる。
 先の言葉のとおり、ミコの舌は最初から僕の舌に反応してぬるぬると動いた。クリーニングの匂いのするシーツの下で、ミコの下腹部に手を伸ばすと、布団の中の匂いが変わってしまいそうなくらい濡れているのが分かる。
 生理的反応の演技は出来ない。下着の中に向かって僕の手が進むにつれて、交わしている舌の動きに震えが混じりはじめている。
「あのね、狭山さん、あのね」
「好きにすればいいと言った」
「ん、うん、好きにして欲しいの」
「馬鹿だな」
「ん、そう、――んっ」
 両者の合意が形成された先に、止まる理由など無かった。
 おそらく明日の車内で、ミコは仕事以外の話を存分にするだろうが、構わない。移動中も就業時間に違いはないのだが、僕は忠実な働き手ではないので気にしない。ミコも恐らくそれを知っているだろう。
「あのね、あのね、狭山さん、狭山さん――」ミコは何度も繰り返しながら、挿入する僕を足で締め付けた。
「狭山さんなら、こういう時にちゃんとゴム持ってるって思ってましたから」
「ちゃんと、という表現が正確なのかは分からないが、僕が持っていなかったらどうするつもりだったんだ?」
「んー、どうだろう。やってたかも」
 したり顔でミコは言ったが、恐らくこれは嘘だ。何らかの確信と、僕のような男への信用――性欲としての利用のしやすさをよく知っているのだ。

 翌日の昼前。
 商談中に、山口さんからの着信が立て続けに三本入っていた。昨晩の言葉のとおり、要件は納期の確認であったが、「どうでした?」としきりに言うので、「僕は山口さんと話している時は、本命になれるようにと考えてますから。それでいいじゃないですか」と繰り返し伝えておいた。
 助手席のミコは、何ともなさそうな顔で、カーナビに表示される次のサービスエリアまでの距離を確認していた。


 出張から帰ると、ほんの少しだけタイムスリップしたかのような感覚になる。
 この現象は、出張中に起きた出来事とは無関係だ。出張に行ってきたという単なる事実のみが、小さなタイムスリップの感覚を生んでいる。つまり、セックスフレンドができたという事実は僕の日常を変えない。

“こっちでも変わらずに、仲良くして下さいね"
 僕の個人携帯に表示されたメッセージは、簡素で、丁寧なものだった。マッチングアプリを使っている理由は不純だったし、僕が設定していたプロフィールが女性受けするとは思えなかった。しかし、個人的な連絡先を自ら聞いてくるとは、妙な女性もいるものだな、と思った。





つづく

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。