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『滝の裏側、月の裏側』

「足元がゆるい所もあるから踵の高くない靴を用意しておきなよ」と言っておいたら、矢恵は旅行バッグと一緒にスニーカーを手に持って、僕の車に乗り込んできた。
 あまりにも朝早く迎えに行ってしまったかな、と思ったのだが、矢恵は目的地に着くまで化粧ポーチを開くことがなかった。どうやら朝が早くとも準備は万端だったらしい。
 

 化粧ポーチの口が開いたのは、駐車場で車から降りる前に口紅を取り出すための1回だけだった。口紅が入るのを見届けてから、僕はエンジンを切り、ドアを開けた。

 板張りの遊歩道は木々の間を進み、どんどん下っていく。
 低い位置に向かって歩いているからか、湿度を多く含んだ土の匂いが僕らに迫ってくる。後ろを向かなくても矢恵が離れずに歩いてついてくるのは僕にとって当たり前のことだった。

「ねえ、俊くん、ちょっと寒くない? やっぱり水辺に近づくと寒くなってくるものなのね」

「確かにな。春だってのにちょっと寒いもんな。スカートじゃなくて正解だな。」

「うん。俊くんに、足元悪いって教えてもらってたから、準備万端だよ!」

 矢恵はいつも笑って僕についてきた。デートの行き場所も、食べたい食事も、いつも笑って「うん」と答え、手を振り合う時間には「今日も楽しかったね」と言った。
 
 今回の旅行に熊本県を選んだのは僕の意見だった。初めての泊りがけの旅行になるが、矢恵はいつも通り「うん」と答えた。半年間もこのやりとりを続ければ慣れるもので、元々は仕方なく僕が全ての行き先を考えていたが、最近になって、次はどこにしようかと算段するのに時間を食うようになった。


 小道の終盤に差し掛かると、足音より水音のボリュームが大きくなる。

「うわー、見えたよ! 俊くん、滝だよ、たきー!」

「そりゃそうだよ、滝に来てるんだから」

「うん! たき! すごいねー!」

 背後から聞こえた矢恵の声は、僕を追い越して滝に向かって飛んでいった。矢恵が僕の真横まで追いついてきたので、僕はその手を取って歩くことにした。

 滝を真正面から見てみたが、高さはさほどでもなく水量もほどほどだ。爆音を立てて落ちる滝とは違う。すだれのように水が落ちていく様は、良い滝だな、という一言で形容し終わる。
 ただ、ここに来た目的はまだ達せられていない。


『鍋ヶ滝』は、滝の裏側が見れるのだ。
 足元はぬるっとした小石と濡れた土で、場所によっては濃い緑の苔が生えている。隣で、矢恵が「ほっ、ほっ」と言いながら僕の手を引き上げながら歩いている。
 
 止めどなく落ち続ける滝のすだれを横目に、僕らは滝の裏側を目指す。ほんの少し頭を下げるだけで、滝の裏側の空洞にはすぐに入ることができた。
 滝の裏側はひんやりしているが、強い風は吹いていない。この空洞の部分で、風がちょうど凪のような状態になっているのだろう。

「わあー、ちょっと暗いね。こっち側が中なのに、寒いし暗いし、なんだか不思議な場所だね」

「ほんとだ、なんか寒い。まあ、裏側ってのはそういうところでしょ。暗かったり寒かったり、そういうのが裏側なんじゃないの? 月の裏側だってめちゃくちゃ温度が低いって言うしな。それと似たようなものなのかもしれない」

 滝の裏側に回ると声が反響し、水の落ちる音も反響する。しばばばばばばという音の中で、僕と矢恵は滝の真裏まで進む。

「すごーい! 真裏だねー。なんだか滝と一緒になったみたいでおもしろいね」

「矢恵の言うとおりだな。激しい滝を表から見てると、吸い込まれちゃうように思うことがあるけどさ、裏から見るこの滝はまた別の種類の吸い込まれちゃう感覚があるな」

滝の裏側の空洞に、ずっと逃げていない湿気のようなものが広がっている。少しゆるんだ足元は滝の裏側に進む僕たちの歩みを遅くさせたが、立ってしまえば安定している。

「俊くん、来てよかったねー。滝の裏側、おもしろい」

「んん。それはよかった。僕は矢恵が楽しそうで嬉しいよ」

「うん! 俊くんと行くところは全部おもしろいよ」

「そうなの? あ、ここはハズレだな、とかないわけ?」

「ない!」

矢恵の返答は用意してあったのかと思うくらい早い。

「まあ、でもたまにあるでしょ。例えば今日が大雨だったら、ああー最悪だあとか、思うかもしれない」

「んーん。無いよ。私は今までそういう風に思ったことはないから」

 腑に落ちるような、落ちないような。
 矢恵は表裏のない性格といえば、確かにそうなのかもしれないが、あまりにも毎度良い反応しかしないもので、それはそれで不安になるような瞬間もあった。矢恵は一体なにを考えているんだろう? と。

「僕はさ、この滝の裏側みたいに、普段は見えない所を見るのが好きなんだよ。なんだか、本当のことを知ったみたいな、そんな気分がしない?」

「んんー。どうだろう。よく分からないけど」

「じゃあさ、さっき言ってた月の裏側とか、気にならない?」

「んんー、気にならないって言ったら嘘になるけど、月の裏側って普段は見れないんでしょ?」

繋いでいる矢恵の指先の温度がよく分からなくなってきた。長いこと繋いでいるから、お互いの温度で平衡がとられたのだろう。

「まあ、月はずっと同じ方を地球に向けてるからな。宇宙飛行士にでもならない限り、裏側は直接見れない」

「んんー、じゃあ私はいいや。宇宙飛行士になんて今からなれないもん」

「僕だって宇宙飛行士にはなれない。まあ、でも、誰かが乗った宇宙船が月の裏側の映像を届けてくれたら僕は見るかな」

「そう。私はそれも別にいいかな。だってさ、もしかしたら月もさ、ほんのちょっとだけ回ってるかもしれないよ。あんな遠くにあるんだからさ、ほんのちょっとだけ回っても私たちは気づかないと思うもん」

「確かに。そしたら少しだけ裏側が見れてるのかもしれない。よく分からないけれど、裏側が」

矢恵の言っていることは分からないでもない。月を24時間観測している機関は無いことはないのだろうが、月が一瞬だけ、ほんの少しだけ回っても誰も気づかないかもしれない。だとしたら、僕らは知らぬうちに月の裏側を見ているのかもしれない。

「ねえ、私思うんだけどさ、月って丸いよね。じゃあ、ここから先が裏側ですって線があるのかな?」

「いや、線は引かれてないだろう。誰も住んでいないんだから。それに、誰か住んでいたとしても<ここからが月の裏側です!>なんて、わざわざ線は引かないだろうね」

「それならさ、表とか裏とかなくない? 表と裏の境目の線を跨いでさ、<はい!今、左足が表で、右足が裏にありまーす!>なんてやってる宇宙飛行士がいたらさ、私笑っちゃうもん」

「うはは。そんな宇宙飛行士がいたら、そりゃおかしいよな」

僕の笑い声が滝の裏の空洞に反響する。他の観光客から急に視線が向けられて、僕は自分が思いのほか大きな声で笑ったことに気づく。
 誰かと目が合ったわけではないが、僕はちょこちょこと会釈をしながら、矢恵の手を引いて歩き始める。矢恵は滝の裏側を名残惜しく見つめることもなく、僕の隣を歩く。


 僕らは滝の裏側を端まで歩き、また、滝のすだれの横を通って表側に出る。滝のすだれを真横から見つめていると、すだれというのは薄っぺらくて厚みがないものだな、と思う。
 見る方向が変われば、見える滝の形が変わるのは当然のことだ。

 しかし、月がほんのちょっとだけ回ろうが、僕らが月を見る方向を変えようが、見える月の形は変わらない。月は、球の形をしているからだ。「それならさ、表とか裏とかなくない?」と、先ほどの矢恵の一言は正しい。
 ただ、月は丸いからどこから見ても円盤なのだ。僕らが月を遠くから見たときには、丸くて薄っぺらい板にしか見えない。だから、円盤を見た僕らは表と裏を想像する。僕らは立体の世界を見ているようで、実は平面しか見えていない場合もある。

 思考の間に、僕らは滝の表側に出てきた。
 矢恵は、繋いでない方の手を使って大きく伸びをする。

「ふあー、さむかった! あったかいお茶飲みたいねー」

矢恵からの要求とは珍しい。いや、今までもこのようなことはあったのだろうが、僕が気にしていなかっただけなのかもしれない。矢恵は月とは違って丸くないのだから、僕が見たときに形を変えるのは当たり前だ。

「自販機の所まで登ろう。あったかいお茶が売ってたら買おう」

「うん。でもね、俊くん一つ忘れてるよ? 来る前に言ってたよね。鍋ヶ滝の遊歩道の階段にさ、ときどきハート型の石が埋まってるから一緒に探そうって」

「ああ、そいえば言ったかも。ただ、一つ解せないのは、調べるサイトによって数が違うんだよ。ハート型の石が6個あるとか7個あるとか、正解が分からないんだよ」

矢恵は滝の方を向き、水がすだれ状に落ちていくのを見ながら少しだけ思案する。

「じゃあさ、俊くんは何個ハートがあればいいと思うの?」

「さあな。何個でもいい」

「うん。じゃあ、一緒に探しながら登ろうよ。数はどっちでもいんでしょ?」

「んん。その通りだ」

鍋ヶ滝の表側に別れを告げ、僕は矢恵と歩き出す。

 球ではない滝には裏側があって、球である月の裏側なんてものは存在しない。
 僕らが歩けば滝の裏側が見れるし、月がほんの少しだけ回っていたとしたら僕らは月の普段見えない一部分を見ている。

 ハート型の石を探し、足元を見つめて歩く矢恵を横目に、僕は矢恵の形を確かめながら歩いた。

 自販機でお茶を買い、僕らは車に乗り込む。
 助手席に座った矢恵はペットボトルのお茶に口を付ける。飲み口に、控えめなピンク色の跡が残った。
 キャップを閉める前に、矢恵はこちらに少しだけ顔を向け、腕を持ち上げた。

「いる?」

「いる。ありがとう」

 温かいお茶を一口飲んで矢恵に返すと、嬉しそうに頬を緩めている。そんな矢恵の表情を見ていると、さっき見つけたハートの数を僕はもう忘れてしまっていた。


 ハンドルを握り、明日の旅程を頭に浮かべる。
 明日の目的地は大分にある『九重“夢”吊橋』だ。日本一高い吊り橋として有名で、緑の山に挟まれた深い深い谷の上にかかっている。
 僕はものごとの深いところを見るのが好きだから、その場所を目的地として選んでいた。

 矢恵との明日が楽しみだ。

 
 
 
  


(おしまい)

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。