私にとっての宗教 1
○○日後に死ぬボク
「100日後に死ぬワニ」が死んでしまいました。
ワニくんの話なんで面白がっていられますが、じゃあ、みなさんはなんで死ぬのに生きてんの?
そういった話です。
以前「楽天的なニヒリズム」について記事を書きました。
その提唱者の言葉を引用します。
「あなたの人生は1回限り、これは恐ろしいことです。しかし、それはあなたを自由の身にします...。私たちの人生が私たちが経験するすべてのものであれば、それは重要な唯一のものです…。もし宇宙に目的がないなら、私たちがその目的が何であるかを決定づける事ができます。」— Kurzgesagt
紹介していてどうかとは思いますが、この理論には大きな飛躍があり、そこに目をつぶって組み立てられているからです。
「人生や宇宙に目的がない」それであれば「自分で意味づけができる」言っていることはわかります。
でも、そういう立場に立った時、「人生や宇宙に目的がない」と知った時に、人は平気でいられるのでしょうか。
それは、自分の自由意志で自分の人生を決定することができるからか?
自分の好きな、あるいは興味のあること、人に役に立つこと、楽しいこと等々・・・それをすることが幸せなのか。それとも何か他のことがあるのか。その答えが全くないのです。
なぜ、平気な顔をして生きていけるのか
私は思うのですが、「楽天的なニヒリズム」は、
「運命などないし、あなたの意思とは関係なく宇宙は動いている。人も動物も植物さえも必ず死ぬし、あなたが愛した人たちや自然も無に帰して、あなたはそれをどうすることもできない」
といことに気付いた時に、それをどう乗り越えるかという方法の一つなのです。
そして、この方法は、私が今まで知っている方法の中でもっとも一般的に理解しやすく、健全な方法だと思って紹介しました。
しかし、私はこの理論が明らかにしていないその部分がもっとも大事だと思っています。
宇宙には神も仏もいない。天国も地獄もなく永遠に続く命などどこにもないということを知った時、人はどうやったら生きていけるか。
なぜ、その事実があるのに、なぜみんな平気な顔をして生きているのか。
自分が自分ではない感覚
昔から自身の存在に違和感を持っていました。
小学生の時、自分の鏡に映る顔を見て、これが自分であるという確信が持てませんでした。
両親から勉強をするように強く言われましたが、勉強は嫌いだったので、全やらすに、勉強するフリをして本ばかり読んでいました。おかげで成績はいい方です。
時代的には探検隊が謎の生物を探しに行ったり、スプーンが曲がったり、ノストラダムスが予言してたりする時代です。
私は、精神世界とかオカルトに異様に興味を持つ子供でした。でも、ちょっと方向性が違ったようです。
変なことを考えてる奇妙な子供
結構そんな子供に両親は手を焼いたみたいです。
具体的なエピソードとして、終末論にかぶれたのか過激な発言を繰り返しだし、戦争や原爆を肯定はじめたので、困った父親は、当時山口に住んでいのですが、私を連れて広島の平和祈念館にいきました。
また、小学校5年生の頃に父は、新興宗教の男性を連れてきました。
自宅で私にその宗教の説明をはじめたのです。
両親は全く興味はなかったようです。なぜか私だけがそこの機関紙を購読したり集会に行きましたが、中学生になった頃には運動部の方に興味が移ったので、熱が冷めたのもあって、自然と離れていました。
そもそも、そこには私に求めるような回答がなかったのだと思います。
今思えば、変なことばかり言う子供の私に閉口した両親が、比較的倫理性の高い宗教をあてがったのかなぁと思います。
言葉にすると奇妙に思われるというがわかってきて、私はつまらないこととして自分の疑問や考えたことを黙ってしまいました。
一方、離人症的な感覚や、アイデンティティが未確立な状況の「私って誰?」と言う感覚は引きずったままの状況です。
未熟だからと言ってしまえばそのとおりですが、このことを抱えたまま私は育っていきます。
もちょっと続きます。
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