長編小説『くちびるリビドー』第2話/1.もしも求めることなく与えられたなら(2)←全文無料公開中♪
「私がウニみたいなギザギザの丸だとしたら、恒士朗は完璧な丸。すべすべで滑らかで、ゴムボールのように柔らかくて軽いの。どんな地面の上でもポンポン弾んで生きていけるし、水の上ではプカプカ浮くことだってできる。それに比べて私は、ところどころ穴だらけで、形も微妙に歪んでて、ギザギザの棘だって見かけだけで実際は簡単にポキっと折れちゃうし。そのくせ『きれいな水の中でしか生きられな~い!』とか言っちゃって、とことん自分が嫌になる」//この“満たされなさ”はどこから来て、どこへ向かっていくのだろう……。あの頃、私の頭の中は「セックス」と「母乳」でいっぱいだった。
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くちびるリビドー
湖臣かなた
〜 目 次 〜
1 もしも求めることなく与えられたなら
(1)→(6)
2 トンネルの先が白く光って見えるのは
(1)→(6)
3 まだ見ぬ景色の匂いを運ぶ風
(1)→(8)
1
もしも
求めることなく
与えられたなら
(2)
その閃きみたいなものが、脳裏に微かな光を放ったとき。
好きな人の腕の中で行き場のない情炎を募らせるようになっていた私は、いつものように眠れぬまま、ひんやりと清らかに乾いた暗闇に溶け出していく思考の行方を、ただただぼんやりと眺めていたはずだった。
冬生まれの恒士朗は寒さに強く、どんなに冷え込む二月の夜であろうとTシャツとパンツだけ身につけて布団に潜り込むのだけれど、その体は驚くほど温かく、しかし私が彼の横で眠りに落ちることなど基本的には無くて(彼が泊まる夜は、毎回ベッドの下に彼用の布団を敷くのだ)、彼の体温でホカホカになった布団にダイヴして猫のようにじゃれついていたとしても、眠るときには必ず自分の寝床へと移動するのが私の常で。そうしないことには熟睡なんてできないし(厳密には誰かが同じ空間にいるだけでもう、本格的に深く眠ることなどできないのだが)、たとえ冷たいシーツの上に引き戻されるとしても「夢の世界へ旅立つときは、それぞれの宇宙船に乗って」というのが私の信条で。
そんな私だから? だから他人と深く交わることなんて、そもそも無理な話で? だけど、どうして? どうして私は、こんな救いのない考え方ばかりしてしまうのだろう。すべてを自分のせいにして、そのくせ被害者意識をいつまでも手離そうとせず――。
その夜も、こんなふうに私はきっと、ゴールの見えない自問自答レースを繰り広げていたに違いない。「眠れないのも、そんな私を和ませるのも、ごきげんに眠る彼の健やかな寝息だなんて、まったく矛盾してる……」なんてことを思いながら。
閃きは、突然だった。
それが意識の隅で小さく瞬いた途端、母の語った過去のエピソードは全部この日のために埋め込まれていたタイムカプセルであったかのように、見えない力で引き寄せられ、開封され、今の私に見事に《カチリ》とつながった。
そして次の瞬間、まるで乾ききった大地に浸み込む雨水のように、自分だけの「納得」がひたひたと心の深い部分にまで広がっていったのだ。
《充分に母乳を得られなかった私は、いつも満たされなさを感じていました。欲しがっても欲しがっても、毎回それは満足するほど与えられることはないのです。この繰り返しに、いつしか私は自分から求めることをしなくなりました。なぜなら、どれだけ必死に泣いて求めようと、想いは届かないからです。そして「どうせ私には与えられない」という諦めが、欲するより先に、目の前を暗く覆うのです――》
考えるより速く、言葉は私の脳裏を駆け抜けた。
心臓で血が逆流しているみたいに、ぐっと胸が詰まる。
「だからだ、だから……」と静かに息を吐きながら、私は思った。
長い長い冬の夜、ずっと一人で見つめ続けてきた「満たされなさ」の根っこにあるものを、私はついに引っぱり出したのだ――と。
そこには、石ころみたいにカチカチになった心の欠片がジャガイモみたいにゴロゴロと幾つもの塊になってくっついていて、揺さぶると何かがほどけて落ちていき、しばらくすると小型爆弾のように一斉に炸裂しはじめた。
――欲しい、欲しい、欲しい!
――ちょうだい、ちょうだい、もっとだよ‼︎
――どうして? これっぽっちじゃ全然足りないの!
――こんなんじゃ死んじゃうよ‼︎ ねぇ、どうして⁉︎
涙が、吐き気のように込み上げてきて、私は足早にトイレへと居場所を移した。
そして頭が痛くなるほど激しく集中的に、しかしできるだけ声は押し殺したまま、まさにゲリラ豪雨のごとく泣いて――泣いて――泣いて――、理解した。
同じじゃないか、と。
この胸の奥に噴き溜まっている赤黒いマグマのようなドロドロとした感情は、彼と抱き合うたびに私の中を駆け回る、あの泣きたいほどの情動とまったく同一のものだった。
そこには「答え」のような手ごたえがあった。
無意識の水底で、私はずっとこの感触を探し求めてきたのではなかったか?
しかし、それを手にしたところで、今の私がどこにも行けないことは明白だった。
答えがわかっても、その解き方は見つからない。まず何をして、どう向き合ったなら、この厄介なテーマから自分自身を解き放つことができるのか――。
過去から現在に至るまでの何人もの『私』が、手をつなぎ輪になって、頭の中をぐるぐるぐるぐる廻りはじめていた。
季節は私を残し、変わらぬスピードを保ったまま進んでいった。
鉛色の空に少しずつ春の光が射し込み、生命を湧き立たせるような陽気が吹き込んできても、私は顔を上げもせず、出口を求め歩き続けていた。
結局、不毛な自問自答レースのゴールラインを踏み越えたような気になったのも束の間、そこはもう新たな(より深い)迷宮への入口だったのだろう。
着実に移りゆく日常風景の色彩も、空気のにおいも、風の暖かさも、まるで心に入ってこなかった。『私』という実体は夢遊病者のように迷宮内を彷徨ったまま、残された肉体だけがただ「安全に家と会社を往復し、ミスなく業務をこなす」という目的のために、必要最低限の機能だけ自動運転させながら日々の任務を遂行しているかのようだった。
そのことを私はもっと自覚して、ほんの少しでもいいから自分の肉体に、感謝と労いの気持ちを向けるべきだったのだと思う。
それなのに現実の私ときたら「とにかく眠くて眠くて、できることなら会社になんか行かず気の済むまで何日も、一日中眠ったままでいたい」という強烈な睡眠欲くらいしか把握できていなかった。
そして、なぜか私は頻繁に熱を出すようになっていた。
それは主に金曜の夜。一週間分の仕事から解放され「明日は休みだぁ!」と思うと急激に気が緩むのか、部屋に着くなり倒れるように布団へ潜り込み、電池が切れたように深く深く眠りへと落ちていく。食事より彼氏より、一刻も早く夢の世界へ飛び立ちたかった。眠りだけが、本物の休息を与えてくれる。だからお願い、楽しい夢を見させて……。
眠いときは寒いときで、寒いときにはもう体温はじりじりと上昇をはじめていて、横向きのまま胎児のように手足を折りたたみ、耳まで布団を引き寄せて、熱で少しずつ体がこわばっていくのを感知しながら、半分寝ぼけたまま夢の中で体温計を探していたりする私は……この脳みそは……こんなふうに強制終了させなければならないほどオーバーヒートしていたのだろうか?
布団の中でひとり震えながら、足先にこびり付いて離れない氷のような冷たさを感じているときがもう最高に惨めで悲しく、とにかく無性に泣きたい気持ちが込み上げてきて、子どものようにメソメソしながら引きずり込まれそうになるとき――。
それは闇に紛れてぱっくりと口をあけ、私を待っている。
近づかないほうが賢明とわかっているのに、弱っている私は覗き込む。
そこにあるものを簡単な言葉で表そうとするなら、「淋しさ」だろうか。「分離感」だろうか。からっぽの自分が、ただぽつりとそこに居る。ありったけの無力感に包まれて。
……あぁ、知っている。
思えばそれは、幼い頃からずっと私の内部を巣喰っていた。
手放しで駆け出したいようなとき、いつもそれは私の力を奪っていった。
先回りしては胸の高鳴りにブレーキをかける、あの「どうせ」という気持ち。「やっぱりいいや」と投げやりになって、気づいたときにはもう無気力になっている。そして、ここぞとばかりに浮上してくる「満たされなさ」に、消えてしまいたくなるのだ。
~母~乳~母~乳~母~
~乳~母~乳~母~乳~
頭の中で『母乳』の二文字が舞い踊っている。
あの夜からずっとだ。きっともう、無視することなどできないのだろう。
たっぷりの墨汁を含ませた筆で勢いよく、しかし丁寧に記されたようなそれは力強く、太く、美しく、やっとのことで掴み取った真実を表明するかのように堂々と、じっと私を見つめている。
――もう目を逸らすことなど許さないって?
――いや、こんなのは単なる「悲劇のヒロインごっこ」だって?
なんでもいいから、出口を教えて。もしも私が自ら背負い込んだ重い荷物をかたくなに降ろそうとせず、ただ憂鬱さに浸っているだけだとしても……ここを通過せず、出口に辿り着くことなんてできるのだろうか。そもそも出口なんて、本当にあるのだろうか……。
原因不明の発熱は、何度も何度も私を同じ場所へと運び込む。
「とにかく」と、毎回呪文のように思った。「この熱を全部出しきってしまうまで、夢の世界に逃げ込んでいよう」と。
そんなふうに自分を守ろうとするのも、実際に追い詰めているのも、どちらも自分自身だなんて笑っちゃうけれど、発熱中の私は小さな子どもに逆戻りしたかのように脆く、口では断りつつも胸の内では恒士朗が来てくれることを鍵っ子みたいに待ち焦がれてしまうから(そして彼は「心配だから」と仕事が終わると必ず駆けつけてくれた)、弱々しい自分を自分で抱きしめ、目を閉じ、ひたすらに眠った。
そうして熱が上がりきったとき、自然と目は覚める。
あんなにも拭えなかった寒気はどこかへと吹き飛び、顔から湯気でも出ているんじゃないかと思うくらいの常夏ムードに包まれて、ハイになった頭で私は「峠は越えた」と自覚する。今回も生き延びてしまった、おおげさだけど「死と再生」みたいだな、と。
それはまるで禊の儀式のように(二十六歳のうちに、これまでの罪や穢れを洗い流しておく必要でもあるのだろうか?)、繰り返す発熱とともに何かを放出させながら私は二十七回目の誕生日を迎え、カレンダーは五月から六月へ、移り変わろうとしていた。
青空を背に生まれたての若葉がさわさわと踊る様子を、確かに目にした気がする。
しかし、いつの間にか季節は大嫌いな梅雨。分厚い雲と降り止まぬ雨が、私の薄暗い気持ちをいっそう盛り上げ、ときの経過を忘れさせるかのように封じ込めていく。
過去をほじくり返して、母を責めたいわけではなかった。
ただ、原因を見つけ出し、それをじっくりと観察したかった。
巻き戻せない時間の中で「今」どうするのか。変えられるとしたら今、この先だけ。過去は変えられない。少なくとも、私はそれを知っている。
もっと心地よさを感じながら生きていきたい。人生を楽しみたい。そう思う自分を尊重したい。だけどそれを実現することは、こんなにも難しいことなのだろうか。それとも、自分自身で難しくしているだけなのだろうか……。
太陽の季節が、すぐそこまで近づいてきていた。
熱を出す頻度はぐっと減り、私の休日も平常を取り戻しつつあった。
起きたままの格好で、録画しておいたテレビドラマを観ながらのんびりと食事を済ませ、洗濯機を回しながら掃除機をかけ、シャワーを浴びる。あとは夜中までダラダラと一人の休日を満喫しよう! そんなことを思う私は久々に、自由を感じていたのかもしれない。
土日休みの私と恒士朗の休日が重なることは相変わらずほとんど無く、どちらかが休みの日には一緒に夕食をとることも多かったけれど、最近の私は「疲れてるから一人で過ごしたい」と言っては彼を避けていた(体調不良でないときの私はなんて自分勝手なのだろう)。
バスタオルを巻いたまま窓から吹いてくる風を感じていると、微かにそこに刈りたての草のような青々しい夏の匂いが混じっているのがわかった。
すっかりと日が長くなり、十六時を過ぎたばかりの空は「まだ今日は終わらないぜ」と言っているかのようだった。
気分が、変わりはじめていた。この瞬間を逃すわけにはいかなかった。
私は「よし!」と言って威勢よく立ち上がると、サラリと下着を身に付け、お気に入りのシャツワンピースに腕をとおし、メイクを軽く済ませ、壁から一枚のハガキを取り外し、それをカバンの中に入れて、サンダルにつま先を滑らせた。もう考えることにも疲れ果て、落ち込み続けることにも飽き飽きしていたのだ。
「懐かしい友人のところへ遊びに行ってきます!」とだけ彼にメールを送り、私は電車に乗り込んだ。
*
〜第3話へつづく〜
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「私がウニみたいなギザギザの丸だとしたら、恒士朗は完璧な丸。すべすべで滑らかで、ゴムボールのように柔らかくて軽いの。どんな地面の上でもポン…
“はじめまして”のnoteに綴っていたのは「消えない灯火と初夏の風が、私の持ち味、使える魔法のはずだから」という言葉だった。なんだ……私、ちゃんとわかっていたんじゃないか。ここからは完成した『本』を手に、約束の仲間たちに出会いに行きます♪ この地球で、素敵なこと。そして《循環》☆